『危機の二十年』 E.H.カー



歴史において危機の時代というのは、そう珍しいものではない。

一九一九年から一九三九年までの二十年間に及ぶ危機には、

それ独自の特徴があった。

最初の十年の夢想的な願望から次の十年の容赦ない絶望へ、

すなわち現実をあまり考慮しなかったユートピアから、

ユートピアのあらゆる要素を厳しく排除したリアリティへと急降下するところに

その特徴があった。

『危機の二十年』E.H.カー

第一次世界大戦終了から第二次世界大戦前夜までの国際政治を多角的に分析して論じたもの。

訳は原彬久氏。

(訳者の原氏を放送大学の「日本政治史」の放送で観かけたことがある。

岸信介にインタビューしたエピソードを話されていた)

カーといえば、

「歴史とは現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話である」、

「歴史とは解釈のことです」

と、『歴史とは何か』の歴史学者として有名で、国際政治学者としては本書のほかに、

ナチス・ドイツを擁護し、ソ連に共感を寄せたことで有名なのかもしれない。

エドワード・ハレット・カー (1892~1982)

カーはケンブリッジ大学卒業後の一九一六年に外務省に入省し、

最初は輸出入禁止局に配属され、第一次世界大戦後のイギリス外交団の一員として

駆り出される。

その後は、ラトヴィア駐在英公使館(リガ)で勤務し、一九三〇年には国際連盟の仕事に

関わり、会議などにも参加するが「危険なほどに、リアリティの感覚を欠いたものだった」

として、危機感を抱く。

そして、一九三六年にウェールズ大学が国際政治の教授としてカーを招き入れ、

学者として道を歩む。

だが、その三年後に第二次大戦が勃発し、情報省海外広務局長に就任するが、半年後には

日刊新聞『タイムズ』の論説委員に転じる。

論説委員着任前後に著されたのがこの『危機の二十年』。

その後は言論人としても活動し、母校のケンブリッジ大学の教授に任命されるのは、

第二次大戦が終わった十年後の一九五五年。

カーが六十歳を越えてであった。「訳者解説」に詳しい。

官僚臭くなく、知識人臭さもないのが、カーの特徴である。

(なので、生前は色々と批判されていたみたいだが)

その点、モーゲンソーの『国際政治』より“やわらかく”一般人には読みやすい。

冒頭の第一章『学問の出発』で、

「国際政治は、いま、草創期にあたる。一九一四年[第一次大戦勃発]までは、

国際関係を扱う仕事は、職業としてこれに携わる人たちだけの関心事であった」、

「国際政治は外交官の仕事であった。……ところが一九一四年―一八年の第一次大戦は、

戦争が職業軍人だけにかかわる重大事であるという見解を霧消させ、それとともに、

国際政治が職業外交官の手に委ねておけば間違いないのだという考えをも同じく

消し去ってしまった。

国際政治を広く国民のものにするという運動は、秘密条約反対運動という形をとって

英語圏諸国で始まった」、

「秘密条約反対運動は限りなく重大な出来事であった。

なぜならこの運動は、国際政治を国民のものにしたいという願望の最初の兆候であり、

新しい学問誕生の先駆けとなったからである」、

「こうして国際政治学は、民衆の要求に応える形で生まれたのである。

国際政治学はある目的のために生み出されたのであり、この点では他の学問の生まれ方に

ならうものである」

と、国際政治が学問として成立した背景は、皮肉にもウッドロー・ウィルソンが唱えた

「秘密外交の廃止」によるものであると、遠まわしに説明している。

そして、

「健康を増進したいという目的が医学を生む。橋を建設したいという目的が工学を生む。

政治体の病弊を治したいという欲求が、政治学に弾みと刺激を与えたのである。

意識しようとしまいと、目的は思考の先行条件である。思考のための思考は、

蓄財のための蓄財をする守銭奴と同様、異常であり実りないものである。

『願望は思考の父である』という言葉は、人間の真っ当な思考の始まりを完全に

いい当てている」

と、現在の脳科学で裏付けられている

「人間の脳は、与えられた事実を基に、因果関係のある筋の通ったストーリーを

作り上げてしまう」、

「人間の脳で直感的思考をする部分は、その場で思いつく因果関係があれば、

すぐに飛びつく回路になっている。だから判断を誤ることも多い」

などを、カーは経験から見抜き、

その「願望」「目的論」を先行させて国際政治を見ているのが

「ユートピアン」(リベラリスト)で、

対照的に、事実の「要因」「原因」「結果」の分析に重点をおいて見ているのが

「リアリスト」としている。

カーによれば、「ユートピアン」は最初に政治学を生み出した、孔子やプラトンなどに

代表され、

「その解決策は、分析からではなく願望から生まれた」、

「戦争を防止するという熱い願望こそが、この学問のそもそもの進路と方向をすべて

決めたのである」、

「揺籃期にある他の学問と同様、国際政治学は際立ってしかもあからさまにユートピア的

であった」。

「リアリスト」は

「願望に対する思考の衝撃」、

「学問の発展過程では、思考が願望に与える衝撃は、この最初の非現実的な構想が挫折した

後にみられるものであり、それはとりわけユートピア的時代の終焉を画するものである」、

「初期段階での夢のような願望に対する反動を象徴するかのように、

リアリズムは批判的でいくぶんシニカルな性格を帯びる傾向にある」、

だが、「リアリスト」は「目的の役割を軽視しがちである」と述べ、

「未成熟な思考は、すぐれて目的的でありユートピア的である。

とはいえ、目的を全く拒む思考は老人の思考である。

成熟した思考は、目的と観察・分析を合わせもつ」

健全な政治状況は、両者がともに存在するところだ、としているが、

このユートピアとリアリティの存在は、「自由意志」と「決定論」の対立と捉えて

論じられている。全体を通して二元論で論じられている印象を抱く。

まあ、いずれにしても第一部「国際政治学」、第二部「国際的危機」を上述の流れで

「ユートピアン」と「リアリスト」を対比させて論じ、

第三部「政治、権力、そして道義」、第四部「法と変革」で国際政治という場に流れの

幅を広げ、「結論」で着地させている。

そんなカーの分析した言葉を摘んでいきたい。

ユートピアンの典型的な欠陥は無垢なことであり、リアリストのそれは不毛なことである。

『危機の二十年』E.H.カー

ユートピアンはこのような「事実」の夢想世界に住んでいるのであり、

この夢想世界は、事実 ―これはユートピアンのいう「事実」とは全く異なったものなのだが―

から成る現実世界とは距離があるのだ。

一方リアリストは、これらユートピアン的命題が事実ではなく願望であり、

直接法ではなくて希求法の性格をもっていることを簡単に見抜く。

『危機の二十年』E.H.カー

政治過程は、リアリストが信じているように、機械的な因果法則に支配された一連の

現象のなかにあるのではない。

『危機の二十年』E.H.カー

政治学は理論と現実の相互依存を認識し、その認識の上に築かれなければならないのである。

しかもこの理論と現実の相互依存は、ユートピアとリアリティの相互連関があって初めて

得られるものなのである。

『危機の二十年』E.H.カー

政治における理論と現実の対立は、具体的には「知識人」と「官僚」の対立として現れる。

前者は主として先験的にものを考えるよう訓練されており、

後者は主として経験的にものを考えるよう教育を受けている。

『危機の二十年』E.H.カー

知識人は、自分たちの理論がいわゆる行動する人びとにその原動力を与えるような、

そんな指導者として自分たちを考えたいのである。

『危機の二十年』E.H.カー

近代において、知識人はあらゆるユートピア運動の指導者であった。

『危機の二十年』E.H.カー

アメリカでは、知識人は国際連盟設立に大きな役割を果たした。

『危機の二十年』E.H.カー

政治に対する官僚的アプローチはその根本において経験的である。

『危機の二十年』E.H.カー

理論を好まないという点で、官僚はほとんど行動の人である。

『危機の二十年』E.H.カー

イギリスの行政が優れているのは、官僚の心性がイギリス政治の経験主義的伝統に

容易に順応するということに一部起因している。

『危機の二十年』E.H.カー

官僚はある提案をこきおろしたいときには、それを「アカデミックだ」と叫ぶ。

理論ではなく現実が、そして知的輝きではなく官僚的訓練が政治的英知の学校なのである。

『危機の二十年』E.H.カー

急進主義者は必然的にユートピアンであり、保守主義者はリアリストである。

理論の人すなわち知識人は、左派に引き寄せられる。ちょうどそれは、

実践の人すなわち官僚が当然右派に引かれていくのと同じである。

したがって右派は理論に弱く、理念を手に入れることができないがために悩むのである。

左派特有の弱点は、その理論を現実へと移し変えることができないことである。

『危機の二十年』E.H.カー

左派が知的に優れていることは、ほとんど疑う余地はない。

左派だけが政治行動の原理を考え出し、政治家が目指す理想を導き出す。

しかし左派は、現実と密接にかかわることで得られる実際の経験をもっていない。

『危機の二十年』E.H.カー

左派の政党ないし政治家は政権を獲って現実とかかわるようになると、

「空論家的」ユートピアニズムを放棄して右派へと転じていく傾向があること、

しかも左派はしばしば左派のラベルをつけたままにしており、

そのため政治用語の混乱に拍車をかけているということである。

『危機の二十年』E.H.カー

ユートピアンは、政治とは無関係であろうとする倫理規準を掲げ、

政治をこの倫理規準に従わせようとする。

リアリストは、論理的には事実の価値以外の規準となるいかなる価値も受け入れない。

『危機の二十年』E.H.カー

世論とは教養ある開明的な人びとの意見であるとする初期功利主義者たちの仮説に従えば、

確かに人を引きつける魅力をもっていた。

ところがいまや、世論とは大衆の意見であるということになったために、

教養があって開明的であると自認する人びとにとっては、

この信念はいずれにしてもそれほど魅力的ではなくなったのである。

『危機の二十年』E.H.カー

国際連盟は「ロック的自由主義の原理を国際秩序機構の設立に適用しようとする」

試みであった。

『危機の二十年』E.H.カー

国際連盟は合理的基盤に立って国際政治問題を標準化しようとする最初の大がかりな

試みであり、とくにこうした面倒な事態に陥りやすいのである。

『危機の二十年』E.H.カー

世論への自由民主主義的信頼を国際分野に移植しようとする試みに対しては、

やはりいかなる幸運の女神も助けてはくれなかった。

『危機の二十年』E.H.カー

国際社会における一つの力として世論を呼び起こそうとした最初の試みは、

アメリカでなされた。

『危機の二十年』E.H.カー

民主主義国においてそうであるように、世論は必ず勝つべきものであり、

そしてベンサム学派がいうように、世論は正しい側につくものとつねに信じられていた。

『危機の二十年』E.H.カー

利益調和への信念が存続しえたのは、

『国富論』の出版と蒸気機関の発明後百年を特徴づけた生産・人口・繁栄の比類のない

拡大のためであった。

『危機の二十年』E.H.カー

十九世紀、ドイツとアメリカは「激しい民族主義政策」を追求して、

事実上世界貿易独占の地位にあったイギリスに挑戦した。

『危機の二十年』E.H.カー

イギリスでは、無制限の外国人移民に対する反対運動が、一八九〇年代に始まった。

入国移民を規制する最初の法律が成立したのは、一九〇五年である。

『危機の二十年』E.H.カー

リアリズムはユートピアニズムよりかなり遅れて、しかもユートピアニズムの反動として

その姿を現す。

『危機の二十年』E.H.カー

敵国ないし潜在敵国の信用を落とすためにつくられた理論は、目的をもつ思想の最も

ありふれた形の一つである。

自分の敵ないし将来自分の犠牲になるかもしれないものを、

神の目からみれば劣った存在であると触れ回ることは、とにかく旧約聖書の時代以来

よく知られたテクニックである。

『危機の二十年』E.H.カー

リアリストの仕事は、ユートピア思想をつくりあげている構成要素がいかにうわべだけの

ものであるかを暴露して、非現実的なこの思想の全構造を打ち破ることである。

政策や行動を判断するには不変の絶対規準があるのだというユートピア的な考え方を、

リアリストは思想の相対性という武器を使って破壊しなければならないのである。

『危機の二十年』E.H.カー

ユートピアンは、世界にとって最善であることは自国にとっても最善であると主張し、

次にこれを裏返して、自国にとって最善であることは世界にとっても最善であると読む。

『危機の二十年』E.H.カー

「国際秩序」と「国際連帯」はつねに、

これらを他国に押しつけるほどの強国であるとみずから実感する国々のスローガンに

なるのである。

『危機の二十年』E.H.カー

ユートピアニズムの破産は、ユートピアニズム自体が国際問題の実践にあたって

絶対的かつ私心のない規準を用意できないことを露呈したという点にある。

『危機の二十年』E.H.カー

完全なリアリズムは、目的のある行動や意味のある行動に何の根拠も

それ自体与えることができないがために衰弱していく。

『危機の二十年』E.H.カー

しかし純粋なリアリズムは、いかなる国際社会の成立をも不可能にする露骨な権力闘争を

もたらすだけである。

今日のユートピアをリアリズムの武器をもって粉砕した暁には、

われわれはさらにみずからの新しいユートピアを築く必要がある。

もっとも、この新しいユートピアも、いつかは同じリアリズムの武器によって倒される

であろう。

『危機の二十年』E.H.カー

政治において権力を無視することは、政治において道義を無視することと同じく

致命的である。

『危機の二十年』E.H.カー

無抵抗と無政府主義は、とも窮余の策であって、人間が政治的行動によっては何ものも

達成できないのだと絶望したときにこそ、広く受け入れられるようである。

『危機の二十年』E.H.カー

どのような国際統治システムにおいても、危機にあって政策というものは、

その統治権限が拠って立つ軍事力を派遣する国家の決定次第ということになろう。

『危機の二十年』E.H.カー

国際分野における政治権力は、ここで議論するためには、次の三つのカテゴリーに

分類されよう。

(a) 軍事力 (b) 経済力 (c) 意見を支配する力 である。

『危機の二十年』E.H.カー

軍事的手段が最高に重要であるのはなぜか。

その理由は、国際政治における権力の最後の手段が戦争である、

という事実にある。

『危機の二十年』E.H.カー

革命が国内政治の背後に潜んでいるのと同じように、

戦争は国際政治の背後に潜んでいる。

『危機の二十年』E.H.カー

「列強(パワーズ)」(この言葉自体が大いに意味深長であるのだが)は、

みずからの自由になる軍備の質と効率性なるもの― それは人力を含む ―

によって格付けされている。

「強大国(グレート・パワー)」として評価されることは、

通常、大規模戦争を戦って勝利したその報償のようなものである。

『危機の二十年』E.H.カー

強大国が軍事的無能や軍事的準備不足の兆候を示すようになると、

そのことはすぐさまその国の政治的地位に反映される。

『危機の二十年』E.H.カー

どの強大国であれその国の政治家は、

定期的に自国陸海空軍に対する称賛の演説をするものである。

しかも観兵式・観艦式は、国家の軍事力とそこから生まれる政治的地位を世界に印象づける

ためになされる。

国際的危機の場合、艦隊・軍隊・航空機隊などは、

同じ目的のためにここぞとばかりに存在を誇示するのである。

『危機の二十年』E.H.カー

軍事力は国家の生存にかかわる本質的要素であり、

それは単に手段となるばかりではなく、それ自体一つの目的ともなる。

過去百年間の重大戦争のうち、貿易や領土の拡大を計画的、

意識的に目指して行われたという戦争はあまりない。

最も重大な戦争は、自国を軍事的に一層強くしようとして、

あるいは、これよりもっと頻繁に起こることだが、

他国が軍事的に一層強くなるのを阻止するために行われる戦争である。

『危機の二十年』E.H.カー

国家の団結・独立という形でその最初の目的を達成したナショナリズムは、

ほとんど自動的に帝国主義へと向かっていく。

『危機の二十年』E.H.カー

経済の力は、つねに政治権力の手段となってきた。

ただ、それが軍事的手段と結びつくならば、ということである。

最も原始的な戦争だけが、経済的要因とは全く無関係なのである。

最も富裕な君主や都市国家こそ、最大かつ最強の傭兵軍を雇うことができた。

『危機の二十年』E.H.カー

敵国の経済システムを無力化することは、

敵国の陸軍や艦隊を打ち負かすのと同じ軍事目的となった。

『危機の二十年』E.H.カー

この経済的武器は、次の二つの形をとる。

(a) 資本の輸出。 (b) 海外市場の支配。

『危機の二十年』E.H.カー

経済力が軍事力から切り離されることはありえないし、

軍事力も経済力から分離されることはない。

双方とも政治権力の不可欠の部分である。

『危機の二十年』E.H.カー

意見を支配する力は、権力の第三の形である。

『危機の二十年』E.H.カー

しかし宣伝という現代的武器は、大衆に向けてなされるのである。

『危機の二十年』E.H.カー

最初の検閲機関と最初の宣伝機関をつくったのは、ほかならぬカトリック教会である。

『危機の二十年』E.H.カー

全体主義国では、子供は全体主義の長所と規律を称賛するよう教えられる。

どの体制においても、子供は自国の伝統・信条・慣習に敬意を払うよう、

そして他国よりも自国をよい国であると信じるよう教えられる。

この初期教育において知らず知らずのうちに施される人間形成の影響力は、

どんなに強調してもしすぎることはない。

『危機の二十年』E.H.カー

意見の大量生産は、商品の大量生産の帰結なのである。

『危機の二十年』E.H.カー

一九一八年の勝利は、軍事力、経済力、意見を支配する力の間の巧みな組み合わせによって

達成されたのである。

『危機の二十年』E.H.カー

ソヴィエト・ロシアは、コミンテルンという形で大規模かつ恒久的な国際宣伝機関を設立した

最初の近代国家であった、ということである。

『危機の二十年』E.H.カー

スターリンは、ナポレオンが一七八九年の思想の歪め撒き散らしたのと全く同じように、

一九一七年の思想を歪曲しばら撒いた。

『危機の二十年』E.H.カー

宣伝はそれが国家というホームグランドをもって初めて、

そしてそれが軍事力・経済力と結びついて初めて、

政治的な力として効力を発揮するのである。

『危機の二十年』E.H.カー

ファシズムのための国際的宣伝は、ある特定諸国家の国策の手段であって、

これら諸国家の軍事力・経済力の増強とともに発展した。

『危機の二十年』E.H.カー

国際秩序においては、権力の役割は国内秩序におけるよりも一層大きくなり、

道義の役割は一層小さくなる。

『危機の二十年』E.H.カー

あらゆる国際道義的秩序は、権力のヘゲモニーに基礎を置いていなければならない。

『危機の二十年』E.H.カー

国際道義を最も大きく損なう道は、自身ありげにこううそぶくことである。

すなわち、ドイツ国民は高度な倫理の担い手であるとか、

アメリカの原理は人類の原理であるとか、

あるいはイギリスの安全は世界の利益であるとかいうこと、

したがって事実上自国の犠牲などおよそ必要ではないのだ、

と主張することである。

『危機の二十年』E.H.カー

国際問題に関心を抱く多くの人びとの間では、法を政治とは別のものとして、

また法を倫理的には政治より優れているものとして扱う傾向が強い。

『危機の二十年』E.H.カー

国際法は、それが未成熟で十分に統合されていない共同体の法であるという点では、

近代国家の国内法とは異なっている。

国際法は、成熟したあらゆる国内法体系の必須要素である三つの制度、

すなわち司法、行政、立法の各機関を欠いている。

『危機の二十年』E.H.カー

国際協定は、国家が国際法の主体としての立場に立って互いに結ぶ契約であり、

国家が国際立法者の立場に立ってつくった法律ではない。

国際立法はいまだ存在してはいないのである。

『危機の二十年』E.H.カー

ユートピアンは一般に「自然主義者」として知られており、

彼らは自然法のなかに法の権威を見出す。

一方リアリストは「実証主義者」として知られており、

彼らは国会意思のなかに法の権威をみるのである。

『危機の二十年』E.H.カー

国際法は、その生まれからして極めてユートピア的であった。

『危機の二十年』E.H.カー

現実が最も倫理的でないところで理論は最もユートピア的になる、

ということである。

『危機の二十年』E.H.カー

法は何か永遠の倫理的原則から生まれるのではなく、特定の時代、

特定の共同体における倫理的原則から生まれるものであり、だからこそ、

いまやわれわれは法を拘束力あるものとして扱うよう求められるのである。

『危機の二十年』E.H.カー

法は国会意思の表現である。

国家を支配する人たちは、彼らの権力に反対する人たちへの強制手段として法を

用いるのである。

したがって、法は強者の武器である。

『危機の二十年』E.H.カー

法は、政治と同様、倫理と権力の出会いの場なのである。

『危機の二十年』E.H.カー

国際法は、諸国家から成る政治共同体の一つの機能である。

国際法の弱点は、何か技術的な欠陥によるものではなくて、

国際法の機能する共同体が未成熟であることからくる。

国際道義が国内道義よりも脆弱であるのと同じように、

国際法が、高度に組織化された現代国家の国内法よりもその内容において脆弱であり

お粗末であるのは当然である。

『危機の二十年』E.H.カー

あらゆる法の背後には、必ずその政治的背景が控えている。

法の究極の権威は、政治に由来するのである。

『危機の二十年』E.H.カー

国際法のディレンマは、教会の教義がもつディレンマと同じである。

『危機の二十年』E.H.カー

強迫されて結ばれた条約に対してとる態度は、戦争に対してどんな態度をとったかに

かかってくる。

なぜなら、戦争を終結させるあらゆる条約は、

ほとんど必然的に敗者が強制されて受け入れたものだからである。

『危機の二十年』E.H.カー

強国は、弱国との間で結んだ条約の拘束性を主張するだろう。

弱国は、権力上の立場に変化があってみずからが条約義務を拒否ないし

修正できるほどに強くなったと感じるや否や、

強国との間で結んだ条約を破棄することになろう。

『危機の二十年』E.H.カー

現行秩序において重大な変革を望む人びとの側には、非合法の行為、

あるいは保守主義者によって非合法としてまことしやかに非難されるような

行為をなす強い傾向がみられるのである。

『危機の二十年』E.H.カー

現行秩序の維持から最も大きな利益を得ていて、

しかもそれゆえ法の道義的拘束性を最も強く主張する人びとが、

国際法や条約拘束性への敬意というものを説教しても、たいした効果はないだろう。

法が実効的な統治機構を認め、その政治機構を通じてそれが改正・廃棄されるようになれば、

そのとき初めて法および条約は尊重されよう。

『危機の二十年』E.H.カー

これら政治的諸力が安定した均衡を保つ場合にのみ、

法は現状維持者の道具になることなく、その社会的機能を果たすことができる。

この均衡状態を実現するのは、法の仕事ではなくて政治の仕事なのである。

『危機の二十年』E.H.カー

国際法は、紛争解決のための組織を規定しているのだが、

いかなる強制管轄権も認めてはいない。

『危機の二十年』E.H.カー

すなわち平和的変革は、正義についての共通感覚というユートピア的観念と、

変転する力の均衡に対する機械的な適応というリアリスト的観念との妥協によって

初めて達成される、ということである。

成功する対外政策が実力行使と宥和という明らかに対立する二極の間で揺れ動くのはなぜか、

その理由はここにある。

『危機の二十年』E.H.カー

国際秩序という実用的な仮説をつくったのは、一つの支配国である。

したがってこの支配国の相対的ないし絶対的衰退とともに、

その仮説もまた打ち壊されていったのである。

『危機の二十年』E.H.カー

現在の東アジアは危機の何年かは知らないが、

これからますます緊迫した状況に向かうと予想される。

それを理解する一助となるのが本書。それはカーのいう「リアリスト」の時代として。

この列島に住む100年後の子孫たちの為にも、見識を深め危機を乗り越えたい。

ぼくたち私たち一般人の教養の向上が、安全保障にも繋がると思っている。


カーは戦後にウェールズの田舎町に世界初となる国際政治学部を設立して、その代表を務め

たという。

アメリカではカーの影響を受けたハンス・モーゲンソーが『国際政治』を著している。

ぼくはまだ未読だが、最近では山中仁美氏が『戦間期国際政治とE.H.カー』(岩波書店)、

『戦争と戦争のはざまで: E・H・カーと世界大戦』(ナカニシヤ出版)など、カーを読み解いた

著作を著している。

created by Rinker
E.H. カー 岩波書店 1962-03-20
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山中 仁美 岩波書店 2017-11-18