だが、(四カ月の)神聖月があけたなら、多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい。
ひっ捉え、追い込み、いたるところに伏兵を置いて待伏せよ。
しかし、若し彼らが改悛し、礼拝の務めを果たし、喜捨もよろこんで出すようなら、
その時は遁してやるがよい。
まことにアッラーはよくお赦しになる情深い御神におわします。
『コーラン』(改悛)
さて、お前たち(回教徒)、信仰なき者どもといざ合戦という時は、彼らの首を切り落とせ。
そして向うを散々殺したら、(生き残った者を捕虜として)枷(いましめ)かたく縛りつけよ。
それから後は、情をかけて放してやるなり、身代金を取るなりして、戦いがその荷物をすっか
り下ろしてしまう(完全に終わる)のを待つがよい。まずこれが(戦いの道というもの)。
『コーラン』(ムハンマド)
著者の飯山氏も本書のはじめに日本に於けるイスラム教の見方を次のように指摘している。
「「イスラームは平和の宗教」というのが、日本におけるイスラム教についての通説です」
同じく、東京大学先端科学技術研究センター准教授(2008年10月から)、イスラーム政治思想
史、中東地域研究がご専門の池内恵氏は、『増補新版 イスラーム世界の論じ方』で収録され
ている論文や講義の中で次のように述べている。以下の発言は二〇〇三年のものだ。
「近年の日本では、「イスラームの寛容性」「イスラーム的共存」といったものがことさら論
じられ、あたかもそれが現代的観点からも優れているものとして語られる傾向が強くある」
池内氏はさらに、「現地の現実はどうでもよくて、日本で大向こう受けすることを言えばい
い、ということになってしまう・・・端的に言えば、抑えられてきた反米感情、西欧コンプレック
スを「イスラーム」に託して解放するという役割を、日本の言説空間の中の「イスラーム」論
は担ってしまっている」と踏み込んで指摘し、「「イスラーム」を反論しがたい「犠牲者」と
想定し、その立場に論者がみずから成り代わって、日本国内での独自の意図を持った発言を行
う」とも述べている。
飯山氏は池内氏のように、日本に於けるイスラム教の見方である「通説」に踏み込んで指摘し
てはいないが、その「通説」の問題点を次のように指摘している。
「そもそもこの「通説」は、客観的な論拠に基づいているわけでも、イスラム教の本質をとら
えているわけでもありません。
これは「専門家」を筆頭に、メディア関係者やイスラム教徒、イスラム教のファンなど、日本
でイスラム教について語る人々の多数派が抱く「気持ち」の表明です。
彼らがイスラム教について「こうあってほしい」「こうであるはずだ」と強く希求するその
「思い」が、「通説」となって現れているだけなのです」(本書)
飯山氏は、中世の北アフリカとアンダルス(イスラム治下のイベリア半島)地域で発行された
約六〇〇〇ファトワー(イスラム法的見解)を分析されたりしているが、それらと併行してアラ
ビア語通訳やリサーチなど様々なかたちで報道の仕事にも携わってきた。
モロッコとエジプトに住み、他の中東諸国やヨーロッパ諸国にも長く逗留し、現在は東南アジ
アに住んでいる。世界ではその間もイスラム教に関連する無数の事象が発生していた。
飯山氏がそれらと向き合っているうちに、世界中でイスラム教徒が引き起こしている様々な事
象の底流にあるのは、イスラム教の論理であることに気づき始めたという。
それ以来、飯山氏の研究の両輪となっているのは、「現実の事案」と「イスラム教の論理」。
そして、その目的を次のように表明されている。
「私の目的は、「現実の事案」を「イスラム教の論理」という視点から解き明かすことによ
り、イスラム教についての事実無根の「通説」を正し、啓示に立脚したイスラム教についての
知識を一般に提示することです。
これはイスラム教徒たち自身が「イスラム教とはこのようなものだ」と論じてきたことそのも
にすぎず、そこに私の「気持ち」など挟む余地はありません」(本書)
必要なのは「シンパシー(同情)」ではなく、「エンパシー(異なる価値を持つ他者の感情に対す
る理解)」とも高らかに宣言されている。
本書の根幹となす見方であり、最初の章に詳述され、表題に掲げられてもいる「イスラム
2.0」とは何か。
それはインターネットの普及により、一般のイスラム教徒が啓示に容易にアクセスできるよう
になった時代のイスラム教を指している。
「イスラム1.0」の時代は、啓示の解釈をイスラム法学者という知識人が独占していた時代の
ことをいう。
「二〇〇〇年以降、ジハード主義が世界中で急速に拡大した背景にあるのは、「イスラム
2.0」であると私は考えています。
イスラム2.0とは、ここ一〇年ほどの間に世界で発生したイスラム教に関する様々な事象を解
釈するために、私が創出した分析概念です」(本書)
この飯山氏が創出した概念では、イスラム教徒は「イスラム教についての知識」というOSを搭
載し、それに従って考えたり行動したりする存在だと捉えている。
具体的には、イスラム教が勃興した七世紀からインターネットが普及するまでの約一四〇〇年
間にわたり、イスラム教徒たちが搭載してきた「イスラム教についての知識」が、OSイスラム
1.0。インターネットが一般に普及し検索エンジンやSNS、動画サイトなどが登場した二〇〇
〇年代初頭から、そのイスラム1.0が2.0へとアップデートしていると捉えている。
そして現在は、世界中のイスラム教徒の脳内OSがイスラム2.0に更新されつつある移行期であ
るというのが、飯山氏の見立てであり、イスラム教徒にとって、何をどのように考え、どのよ
うに行動するかを決定づける源となるのが、「イスラム教についての知識」というOSだとい
う。
一般的にもそうだと思うが、飯山氏のイスラム教徒の定義は、神を信じ、神の命令に絶対的に
服従する人のこと。彼らは日常のあらゆる行為を、神の命令通りに実行するように義務付けら
れている。彼らはそうすることによって来世で救済され、天国に入れてもらえると信じてい
る。『コーラン』に明確に記述されていることでもある。
つまり天国に行くためには、神の命令、神の法が何であるかを知っている必要があり、それら
についての知識がOSイスラム1.0、あるいは2.0。
『コーラン』は、法規範が網羅された六法全書のような法典ではない。
そこに神の法の全てがあるとされ、法と理解できる章句は少ない、と飯山氏は指摘している
が、読めばわかる。
『コーラン』ではムハンマドは最後の預言者とされ、ムハンマドを通して最終の完全な啓典
『コーラン』が下ったと規定される。
そこに示された「啓示法」に従って神と人間との関係、および人間同士の関係を取り結んでい
くことが、イスラム教の根本的な要素。(池内氏による)
その神の法について考えるイスラム法学者たちは、『コーラン』を源に、神の法を「使える」
かたちに体系化する必要に迫られていた。
それゆえにイスラム法学者たちは、法の唯一の源は神であるという前提に立ち、イスラム法の
規範の源は『コーラン』か、預言者ムハンマドの言行録であるハディースに示されたスンナ(慣
行)、または法学者たちの合意であるイジュマーに基づいていなければならない、という原則を
八世紀頃に確立させている。
飯山氏によれば、彼らは、自分たち法学者にできることは神の法を推量するだけであるという
認識に基づき、これらの啓示的法源から法規範を道出して法体系を確立し、日々発生する具体
的な事案に法規範を適用し、善悪や是非を判断してきたという。
しかし、彼らのファトワー(イスラム法的見解)の末尾には必ず「神が最もよく知り給う」と記
され、真に正しい判断を知っているのは神だけである、という前提が了解事項となってもい
た。
イスラム法理論においては、『コーラン』とハディース(預言者ムハンマドの言行録)という啓
示に明示された事案については、それがそのまま法規範になるとされている。
端的に飯山氏は示されているが、その『コーラン』とハディースさせ知っていれば、「天国の
道」の基本は押させたことになるという。
しかし、これは前近代においては、イスラム法学者を除くほとんどのイスラム教徒には全く手
も足も出せない世界だった。
飯山氏はその理由を二点挙げているが、第一は、近代以前はエリートを除くほとんどの信徒に
識字能力がなかったからであり、第二に、『コーラン』は全一一四章で一冊の本に収まる分量
だが、ハディースに関しては数十万あるとも言われるほど膨大な数が存在するからだった。
イスラム教の啓示テキストがあまりにも多いため、近代以前の一般信徒にとってイスラム法の
基本を押えることは能力的にも、物理的にも不可能なことであった。
救済されるためには信徒一人ひとりが神と契約を結び、神の法を知り、それを実践しなければ
ならないというのが、イスラム教の信仰の根幹。
そのことを飯山氏は巧みにあらわしているが、その意味においては、プロテスタントの万人司
祭制に近いという。
しかし、先述したように、イスラム法を知りそれに従うことが天国に行くための唯一の道であ
るにもかかわらず、「一般信徒は誰一人直接的にはイスラム法を知らない、それを知っている
のはイスラム法学者である」という時代が七世紀から二〇〇〇年代初頭まで続いてきていた。
この時代の一般のイスラム教徒は、モスクで聞く説教や近所の法学者への質問を通してイスラ
ム法の知識を得るしかなかった。
彼らがインストールしていたOSイスラム1.0は、啓示テキストを独占するイスラム法学者から
もたらされる知識のみでできあがっていた。しかし、それは必ずしも啓示の文言に忠実な知識
ではなかった。
そして、一般信徒がそのことに気がついたのがイスラム2.0時代であり、それがここ一〇年ほ
どのイスラム教徒たちの行動を大きく変えた一因となっている。
近代以降、識字率が上昇しても、イスラム法学者が知識を独占する状況はほとんど変わらなか
ったが、普通教育を受けた中でも極めて優秀な「世俗エリート」の一部に、『コーラン』ハデ
ィースを自ら読解し、イスラム1.0に異論を唱える連中が出てくるようになる。
その代表格がムスリム同胞団の創設者でエジプト人である、ハサン・バンナー(一九四九年没)だ
ったという。
そして、一九五〇~六〇年代にかけては、そのムスリム同胞団の最も著名なイデオローグであ
ったサイド・クトゥブが、世俗の権力者が統治権を簒奪している社会はジャーヒリーヤ(イスラ
ム以前の無明時代)であり、それを打倒し正しいイスラム社会を実現させるためにジハードが必
要だという理論を唱えだす。クトゥブに関しては、池内恵氏の『増補新版 イスラーム世界の
論じ方』でも詳述されている。
クトゥブの思想は、エジプトでジハード団やイスラム集団といった過激派組織を生み、さらに
アルカイダや「イスラム国」にも多大な影響を与えたことで知られている。
「イスラム教こそ解決」をスローガンに掲げる同胞団は世界最大のイスラム組織に成長し、
現在そのネットワークは世界七〇カ国に広まっているという。
くどいようだが、普通教育によって識字率は上昇し、イスラム1.0に異議を唱える人や組織を
生み出しはしたが、それはあくまでごく一部に過ぎなかった。しかし、この流れを大きく変え
たのがインターネットの存在だった。
飯山氏は強調して何度も繰り返し指摘しているが、インターネットはイスラム教発祥以来、一
四〇〇年間ほぼ変わらなかった知的状況を激変させ、イスラム世界に革新的とも言える変化を
引き起こした。このことを指してイスラム2.0時代と呼んでいる。
それは、知識面で圧倒的に弱者だった一般のイスラム教徒が、インターネットを通じて啓示テ
キストに簡単にアクセスできるようになったということであり、イスラム2.0時代は、「イス
ラム教についての知識」が法学者による独占から解き放たれた時代。
飯山氏は、ジハードの解釈についての例を取り上げているが、近代以降、ほとんどのイスラム
法学者は一般信徒に対し、最も重要なジハードは自分の心の中にある弱さや悪と戦うことにあ
る、と説いていた。イスラム1.0の時代ならば、一般信徒は疑うことなく信じていた。
しかし、イスラム2.0時代になると状況は変わり、イスラム教徒にとって最も重要なのは神の
命令に従うことであり、神の言葉を書き留めた『コーラン』にはジハードについてどのように
記されているのだろうか、という疑問を一般信徒が抱くのが自然になる。
それをインターネットを使えば、容易に調べられることであり、「法学者よりGoogle先生」の
時代、という表現で飯山氏は説明している。
さらにもっと具体的に検索すれば、ジハードは「心の中の弱さとの戦い」という解釈には啓示
的根拠がほとんど存在せず、その教説は近代以降流布するようになったもので、伝統的なイス
ラム法学においてジハードは確実に「異教徒との戦争」と規定されてきたこともわかる。
冒頭に掲げた通りである。
近代の法学者がなぜ、「ジハード=心の中の弱さとの戦い」説を流布させたのかというと、著
者は明確にその解を導出しているわけではないが、SNSや人気イスラム法学者のサイト、人気
Youtuber説教師の動画に触れ、
「それは法学者が不正な世俗権力者の犬であり、彼らにとってジハードは不都合な概念だか
ら」「一般信徒がジハードの教養を振りかざし世俗権力に反旗を翻すのを防ぐためである」
といったネット上にいくらでも転がっている主旨の理由を紹介している。
イスラム2.0時代の人気イスラム教指導者の条件は、啓示に忠実で、説明が簡潔かつ反権力的
であり、一般信徒の目線に近いことをはっきりと指摘する。
「イスラム教が理想とする、信者一人ひとりが直接神と向き合い、神の法を知り、それを実践
するという信仰のあり方が、図らずもテクノロジーの進化によって実現されたのです」(本書)
モスクの説教やファトワーでは今でも、争いを避けて社会の平穏を保つことを目的とした道徳
訓が説かれているという。
先述した通り、飯山氏はファトワーの研究を長年続けてきたが、啓示の文字通りの解釈より
も、争いを避け、社会の平穏の保持を優先させる法学者たちの傾向は、時代や地域の違いを超
えた一般的なものだという。
しかし、近代以降マスメディアの発達などに伴い、「御用学者」が政権の言いなりである実態
が徐々に明らかになるにつれ、一般信徒は既存の宗教権威への信頼を失い、彼らを腐敗した権
力とみなす傾向が現れ始めたという。
そして、それに追い討ちをかけたのが、インターネットの普及とイスラム2.0化であった。
飯山氏は以上のことを踏まえこの章を総括する。
「イスラム2.0はネタバレ時代です。以前は秘密のベールに包まれ開示されることのなかった
宗教エリートの思考プロセスやそこに埋め込まれた歪曲や欺瞞が、インターネットで検索すれ
ば誰にでも簡単にわかるようになってしまいました。宗教エリートの権威は、今や危機的状況
にあります。
イスラム2.0時代は、一般信徒が徐々に啓示に忠実な「真に正しい」言説に覚醒し、原理主義
化していく時代です。
一線を超えたジハード主義者の絶対数も増加傾向にあり、日本も既にジハード主義者を生み出
しています。
イスラム2.0時代は、多くのイスラム教徒が近代的な価値観に違和感を持ち、異議を唱え、よ
りイスラム的な価値の実現を求める時代です。
私たちの価値観は今、イスラム教に挑戦状を突きつけられているのです」(本書)
以上が第一章までであり、イスラムとは何かやイスラム2.0に関して、今はその移行期である
ということを明確に説明している。ここが本書のビューポイントだ。
そして、それらを踏まえ、以降の章ではダグラス・マレーなどを取り上げ、ヨーロッパのイスラ
ム化とリベラル・ジハードや、インドネシアにおけるイスラム教への「覚醒」、もしも世界がイ
スラム教に征服されたら、などの恐ろしいタイトルを掲げ、現状で起きているイスラムの問題
点を浮き彫りにする。ここは肝を冷やす。
その間には、イスラムのポピュリズムやイスラム教の「宗教改革」なども論じられているが、
最終章では、イスラム教徒と共生するために、と題して一般の日本人がイスラム教徒とどう向
き合えばよいのか、ということを指南されている。これはかなり参考になる。
個人的に気なったのは、メディナ憲章やズィンマ契約、またはズィンミー制を説明している箇
所である。これはノートにメモを取った。
メディナ憲章もズィンマ契約も「イスラム国」の統治の実態を示す資料であるが、ズィンミー
制の基本は、イスラム教徒の絶対的優位に対する異教徒の劣位。
“あとがき”でも繰り返し述べているが、本書は日本におけるイスラム教についての「通説」を
打ち砕くために書かれている。
「イスラムは平和な宗教なのだ」という言説を繰り返しているかぎり、決してイスラム教を理
解することなどできず、将来的に日本や日本人にとって大きな不利益を生むことになりかねな
いことを、事実を積み重ねながら解き明かす試みだと著者は宣言している。
大切なのは「シンパシー(同情)」ではなく、「エンパシー(異なる価値を持つ他者の感情に対す
る理解)」であり、そのことを伝えるためにも本書を著したと解釈しているが、それは著者も指
摘しているように、右でも左でもなく、現実を見つめたいと希求するすべての人に本書は捧げ
られている。ぼくもそのようになることを願っている。
そして、それと同時にメディアと人間の関係を解いた、メディア論としても読める。
近代は啓示に対する理性の優越を原則とし、人間は理性だけで物事の善悪を判断できると考え
ます。
ところがイスラム教は、人間は理性だけでは物事の善悪を正しく判断できないと考えます。
『イスラム2.0: SNSが変えた1400年の宗教観』飯山陽
このクルアーンを天啓として汝(ムハンマド)に下したのは、ほかならぬ我ら自ら。
されば、なにごとも主のお裁き通り、じっと我慢せよ。
彼らごとき罪ふかい者どもや無信仰のやからの意に従ってはならぬぞ。
朝な夕な、主の御名を唱えまつれ。夜中にも御前にひざまずき、長い一夜を賛美にあかせ。
『コーラン』(人間)