取り扱っている題材が素晴らしい。
『山水思想』もそうだけれど、松岡氏の着眼点にはいつも敬服する。
世界は知らないが、日本では独走しているだろう。
広くて深い知識の習得と、相異なるものを組み合わせ、それを研磨するのが上手い。
余計なルサンチマンなどの感情があるとここまで掘り下げられない。
話は逸れるようだけれど、日本の知識人と言われている人たちから、
松岡氏への評価の声があまり聞こえてこないのが、いつも疑問に思うこと。
批判の声はたまに聞こえるが。
政治思想の違いだけでその人を評価するのはやめておいたほうがいい。
本書は「弱さ」をテーマにした稀有な存在の書物で、
古今東西の「フラジャイルな知」を書物のリンクの上で華麗に舞っていて、
少々めまいを起こしそうだけれど、その弱さを愛でながら読み終えた。
そして最近、また再読した。
この本は叙述のしかたもいささか変わっている。
テレーズ・ラカンの人生と黄昏(たそがれ)の科学と
トルーマン・カポーティのホモセクシャリティとがつながり、
中世の説教節とカオス物理学とシンデレラの謎が重なり、
オスカー・ベッカーの美意識と長吏(ちょうり)浅草弾左衛門の実態と
ミシェル・フーコーの歴史思想とが、いっしょくたに語られる。
民族学の章もあれば生物学の章もあり、
能楽の足跡やネットワーカーの足跡をたどる章もある。
あるいはまた、三島由紀夫の「うすばかげらふのやうな危機感」と
ギリシア神話における「境界をまたぐ足の萎えた神」と
日本近世の無宿人の「一宿一飯の渡世の義理」とがふいに同じ問題になっていく。
一見、関係がないとおもわれる現象や出来事が、
どこかから滲み出してきた「弱さ」によって次々に連なっていく。
『フラジャイル』松岡正剛
上の文章を読んで本書の概要が大体は掴めると思うのだけれども、
松岡氏は、「弱さ」の他に「斜めの線」、「対角線」を意識されてるのでは?
と個人的に感じた。
別の著書『空海の夢』も、以前紹介した『山水思想』にも当て嵌まる。
「中世の説教節とカオス物理学とシンデレラの謎が重なり」って、
普通だったら混乱すると思われるが、「フラジャイル」に包み込んで、
見事に投げかけている。
では、その「フラジャイル」とは、どんな意味なのか。
欧米でガラス製品などの壊れものを郵便小包にして送るときは、
赤い地に白ヌキの文字あるいは赤い字で
“FRAGILE”(フラジャイル!)と印刷されたラベルを貼ることになっている。
日本では同じく赤い紙に「壊れもの注意!」と刷ってある。すばらしい警告だ。
ようするに、私はこの「壊れもの注意!」の内実をあれこれ描いてみたいのである。
歴史のもうひとつの流れに、
あきらかにフラジャイルな感覚や思想が累々とよこたわっていたことを特筆したいのだ。
『フラジャイル』松岡正剛
私は「弱さ」を「強さ」からの一方的な縮退だとか、
尻尾をまいた敗走だとはおもっていない。
むしろ弱々しいことそれ自体の中に、
なにか格別な、とうてい無視しがたい消息が隠れているとおもっている。
「弱さ」は「強さ」の欠如ではない。
「弱さ」というそれ自体の特徴をもった劇的でピアニッシモな現象なのである。
それは、些細でこわれやすく、はかなくて脆弱で、あとずさりするような異質を秘め、
大半の論理から逸脱するような未知の振動体でしかないようなのに、
ときに深すぎるほど大胆で、とびきり過敏な超越をあらわすものなのだ。
部分でしかなく、引きちぎられた断片でしかないようなのに、
ときに全体をおびやかし、総体に抵抗する透明な微細力をもっているのである。
われわれのホメオスタシス(自己恒常性)をささえている波長のバンドは、
どびっきり狭いのだ。
『フラジャイル』松岡正剛
「それは、外部からの影響を受けるも、壊滅せず、内的充実がある」。
「弱音を吐くことをすすめたかったわけではない。弱音を聞くことを重視したのである」。
とも言っている。
われわれ人類はあまりにも強さばかりに目を奪われがちになっているのかもしれない。
日本人は「弱さ」に対しては敏感な方だったとは思うが。
昭和の時代は強さばかり求めて失敗した。
超大国主導の国際政治も厭きた。
アメリカもロシアも中国も分解・分裂した方が世界平和の為になるだろう。
これらの国々は過剰に「強さ」ばかり求めているから。大英帝国やソ連や清から学ぶべきだ。
人間の誕生をめぐる最大の謎は、ヒトザル(pongidae) がヒト(hominidae) になったとき、
なぜだか動物界で「最も弱い存在」をめざしてしまったということである。
この謎はいまだに誰もがとけないままにある。
『フラジャイル』松岡正剛
複雑性や非線形、ネオテニー、ホモセクシャル、神話、伝統芸能、浅草弾左衛門、遊侠、
弱いネットワークなどと、絡めながら「弱さ」を浮上させているのに脱帽。
もしかしたら、「弱さ」に秘められている可能性に気が付いている者が、
真の創造者なのかもしれない。
松岡正剛氏以外に「弱さの」重要性に気がついていたのは、ぼくの認識している限りでは、
アメリカの外交官であったジョージ・ケナンが、「人間はひび割れた器」だと指摘し、
老子も「天下水より柔弱なるのは莫(な)し」と提唱している。
「少年の記憶」をいまだに大切に保持しているオリヴァー・サックスもそうかな。
他にももっとたくさんいると思うが、ぼくはこれらの方々に強く心惹かれている。
松岡氏の背後には、”稲垣足穂ミーム”のようなものも感じさせる。
英語のfragilityといえば、僕にはさしずめ、ひと頃どこの文房具店にも見受けられた、
紙製の半月にゴム紐でもって止められた、あのバワリア製のコピー鉛筆の、脆い、
赤い芯が浮かぶ・・・
フラギリテート即ちこわれ易さとは、まず以て、尖らせたもの、過度に鋭くされたもの、
殊にそれが強力な内的緊張のもとに立っている場合を意味し、
しかも特に「選び出されたもの」でなければならない。
(美のはかなさ)『一千一秒物語』稲垣足穂