レーニンはユートピア思想という連綿と続く思潮の一環であり、
マルクス・エンゲルス・レーニン(スターリンは四人目のメンバーとしてこれに加わったが、
その後、詐称者として告発された)という神話的三位一体の一員である。
―マルクス主義の開祖たちは、自分たちを拠り所とした者たちが、
自分たちの思想をいかに実行に移したかを見届けるまで生き延びることがなかったため、
共産主義者に対して行われた非難を免れることができた。
そこでレーニンは長い間、開祖たちの保護を受ける恩恵に浴したのである。
しかしまた、初めてユートピアを権力システムに変えたこの男は、
四分の三世紀の間、共産主義のこの地上での権威を保護されたのである。
レーニンに異議申し立てするということは、共産主義国家が正当性を失うことを意味したであ
ろう。
『レーニンとは何だったか』H・カレール=ダンコース
「レーニンの墓は革命の揺籃である」。
ソ連邦創設者の埋葬の日(一九二四年一月)、参集した無数の群衆の頭上にはためく多くの横断
幕は誇り高くこのようの宣言していたという。
六八年後の一九九二年には、ソ連邦は崩壊して存在しなくなり、共産主義と革命の信頼は失堕
し、共産主義者たちの像は、台座から取りはずされ、消え去った栄光の惨めな証人となってい
た。だがしかし、クレムリンの前の赤の広場の「革命の揺籃」たるレーニン廟には、防腐処理
をほどこされたレーニンの遺体が相変わらず眠っていたという。
それは四分の三世紀にわたって民衆の恭しい崇敬の対象であり、「革命の聖遺物」とスターリ
ンは言い、今日では、「最愛の指導者」(ヴォーシチ)の姿を眺めるために民衆が列をなすこと
はもうないが、レーニンの思い出は人々の意識から完全に消え去っていない、と、フランスに
おけるロシア=ソ連研究の第一人者であり、著者のエレール・カレール=ダンコースは冒頭で書
いている。原著がフランスで出版されたのは1998年。その全訳(本書)が日本で出版されたのは
2006年。訳者は石崎晴巳氏と東松秀雄氏。
エレーヌ・カレール=ダンコース フランスの歴史学者で専門はロシア史
「本書の念願とするところは、レーニンをイデオロギー上の情念から引き離し、
終末を迎えようとしている二十世紀の歴史の中に彼を然るべく位置付けることに貢献しようと
いうことである。
この世紀は望むと望まざるとに拘わらず、なによりも彼の思想と意志に支配されていたという
ことになるだろう」(本書)
レーニンの遺産とレーニン主義を創りだしたのは、レーニン没後のスターリンによってであっ
た。
「「レーニンは生きている」。これがレーニン死後のスローガンであり、レーニン廟はその言
葉の正しさを確証するものであった」(本書)
ソ連崩壊直後の一九九二年には、キリスト教レーニン主義が創設され、そのスローガンは、
「われわれはレーニン主義者であり、キリストの教えを伝える」というものであり、
この党はロシア人に対してキリストの言葉を聞くためにレーニンのもとに結集しようと呼びか
けていた。著者によれば、このことは共産主義死滅の精神混乱を証言すると同時に、レーニン
神話が確実に生き残っていることを証言してもいるのである、としている。
ウラジーミル・イリイチ・ウリヤーノフ(後のレーニン)(1870年4月22
伝説によれば、ウリヤーノフ(後のレーニン)の生い立ちは、貧しいなかで育ったと語られてい
たが、事実は逆で、貧しくもなければ労働者階級に属してもいない。
家は広々とした立派な家で、二階建てであり、何人もの召使いが奉公していたという。
レーニンの中にはロシア人、カルムイク人、ドイツ人、スウェーデン人、ユダヤ人の血が混じ
っている。
レーニンの母親は、ロシア語、フランス語、ドイツ語の三カ国語を話し、ピアノの名手でもあ
り、レーニンの父親には、高い教養があり、父親も祖父母もいずれも医学や数学の高等教育受
けている。二つの家系は、世襲貴族の身分であり、経済的なゆとりがあった。
一八八六年、レーニンが十六歳になったばかりの時に、父親が脳出血のため五十五歳で突然こ
の世を去り、翌年には、兄のアレクサンドル・ウリヤーノフが処刑されている。
その当時のロシアの社会状況は、アレクサンドル二世のもと、工業型の経済発展を選択し、
二〇年でその効果が現れていた。
ロシアはきわめて急速に都市化し、農村の貧困に意気阻喪した農民は都市への定住に引きつけ
られてもいた。
しかし、こうした急速な経済的変化は、その結果、労働者階級を誕生させた、と著者は指摘し
ている。
しかし、十九世紀末の二〇年間はユダヤ人にとっては悲劇的であった。
帝国内には六〇〇万人のユダヤ人が居住し、その大多数はユダヤ人に指定された「居住区域」
に住んでいた。
さらには、大学入学者数の制限による差別や、繰り返されるポグロム(ユダヤ人に対する略奪と
虐殺)、一八九五年以降は、偽造文書『シオンの賢人たちの議定書』の公表に伴って、ユダヤ人
に対する疑念が一般化した。
脱出可能なユダヤ人は、近隣のヨーロッパ諸国に、さらにはアメリカへ向かって逃亡した。
経済も発展し、社会は変動しているのに、権力は不動のままである。
この矛盾を指摘して自らの考察の中心に据えたのが、インテリゲンツィアたちだった。
「インテリゲンツィアはなによりも「不動の」秩序の拒否と、彼らがそれに対置する「革命
的」精神によって定義される。
ロシアのインテリゲンツィアは、相異なる気質と思想の寄せ集めで、イデオロギーの共同体で
あり、その上ますます多様な階層の人々に拡大していき、また流動する知の歴史に適合して形
を変えていくのである。
その成員となった者は、たちまち所属階層から遠ざかり、閉ざされた集団の中に身を落ち着
け、暫定的な生活を送るようになる。
ロシアにおいてプロレタリアートがまだ広がっていない時期に、インテリゲンツィアはそれが
誇示する使命によって、いまだ物言わぬ民衆の代表をもって任じることになる。
そしてその生活条件の故に、インテリゲンツィアは、自分たちこそロシアの最初のプロレタリ
アートなりと宣言することになるのである。
その歴史は二つの時期に分けることができる。
一八七〇年までは、インテリゲンツィアは己が歴史の真の道具であろうとする。
一八七〇年以降、インテリゲンツィアは、完遂すべき変化の真の主体であると考えられた「歴
史的」階級に奉仕する。最初は農民階級、その後は労働者階級に」(本書)
それらは貴族から恵まれない民衆まで含まれている。
十九世紀のロシアの歴史は、なによりも思想運動の歴史であり、さまざまな思想運動が次々に
インテリゲンツィアによってもたらされ、その交代のスピードはますます速くなっていった、
と著者は指摘する。
革命運動の時代がやって来るのは、その後になって、二十世紀初頭になってからであるが、
しかしここで直ちに指摘に価することは、支配階級の硬直性ならびにある程度の知的貧困と対
照的に、インテリゲンツィアの思索に見られる多様性と思想の豊富さである、ともしている。
インテリゲンツィアには属さないが、貴族や比較的富裕な階層出身のプーシキン、トルスト
イ、ゴーゴリのような人たちも、権力側から見れば反体制的思想を代表すると見えた。
その出発点は一八二五年にある、として、次のように指摘している。
「貴族出身の若き将校たちが、ナポレオン戦争のおかげで―また当時のロシアに浸透したフリ
ーメーソンのおかげで―、啓蒙とフランス革命の思想を発見し、自国の政治的停滞に対して決
起した。これが「デカブリスト」運動である。
一八二五年十二月の熱に浮かされた日々、これらの若き理想主義者たちは、皇帝の命を奪えば
体制全体を打倒することができると信じた。
彼らは自由、平等、博愛のフランス的理念を掲げたが、完全に孤立状態にあることを悟る。
ロシア社会は全体として、彼らの呼びかけに耳を貸さなかったのである」(本書)
この運動は失敗するが、教訓は失われることはなかった。
一八二五年以後、貧民の心に根付いた、社会全体の希望たる社会的公正というテーマが、自由
のテーマにとって代わり、すべての思想運動を支配するようになる。
さらに、インテリゲンツィアらは、この先ずっと権力には改革を行う能力がないだろうと確信
し、改革は権力なしで、権力に逆らって行われるであろうと考えるようになり、
この時から、改革への意志と反権力の闘争が一つに結びつく、と著者は指摘する。
そして、そのデカブリスト運動の失敗の後、インテリゲンツィアたちはロシアに必要な変化の
性格と近代性への到達を可能にする道について考え始めるようになる。
これは大論争の時代と呼ばれているものであり、ピョートル大帝が指し示し、進んだ道をさら
に進もうとする者と、「ロシアの道」を擁護する者の間で議論が戦わされるようになる。
前者は資本主義の発達とロシアの歴史の特殊性の破棄によって、ロシアはヨーロッパ風に進化
して行くと信じる者たち。
それに反発し対極に位置するのが、「スラヴ派」と名付けられる集団から出てくる人たちであ
り、西欧の資本主義の苛酷さと退廃に対置される精神性、民衆の寛大さ、連帯性というロシア
固有の美徳を肯定し、思考の核心をなしているのは、ロシアの伝統であるとしている。
しかし、スラヴ派たちは、ドイツのロマン主義に結びついており、失われた楽園の光景を郷愁
を込めて擁護する立場であったとしている。
さらには、西欧主義者たちは、一八四八年のフランスの「ブルジョワ」革命家たちに失望し、
次第にスラヴ派の思想のいくつかの点に賛同するようになり、西欧は金儲け主義とブルジョワ
精神によって堕落していると考え、ロシアはこの二つの考えを産み落とした資本主義を選択し
なかったのだから、まだ堕落はしていない。ロシアは資本主義を導入せず、未来に向けてロシ
アの独自性をなす共同体組織の発達を促す必要があるのではないか。
これがロシアを進歩へと導くことができる、という考えに至る。
著者は、ここにロシア思想の二つの重要な特徴が現れている、と指摘する。
一つは、退廃と腐敗の権化とみなされるブルジョワジーに対する嫌悪。
もう一つは、歴史過程は多様であり、歴史的状況および条件の多様性に適応するという観念。
マルクスはまだ広く知れ渡った思想ではなかったが、ここに資本主義段階の必然性、あるいは
その不可避性は、人々の心にすでにしっかりと根付いた確信となっていたのである、としてい
る。ちなみに、マルクスの『資本論』第1巻がロシアで出版されたのは1872年。
「農奴解放者ツァーリの大改革が行われた一八六一年までは、ロシアにおける政治論争は、
大筋においてデカブリストの遺産に、そしてスラヴ派と西欧主義の論争に関連していた。
その後すべてが変わる。思念の性格とその影響の及ぶ範囲、そしてインテリゲンツィアそのも
のも」(本書)
そして、ここにニヒリストたちの時代だ到来するようになり、レーニンも多大な影響を受け
る。インテリゲンツィアは急進的で、不寛容であり、討論を好まず、自分のものでない見解を
すべて否定する。ニヒリストたちは、精神生活の中で唯一重要なのは、社会の進歩に役立つべ
きものであり、文学、哲学、芸術に背を向け、精密科学を唯一有益なものとして説き勧めてい
た。「アナーキズム」性もロシアの伝統に棹差すものであると、著者は指摘している。
そんな中、直接影響を受けていたかどうかは分からないが、レーニンに進むべき道を指し示し
たような人物も登場してくる。
ピョートル・トカチェフであり、ロシア知識人の従来の思想と決別した新たな道を切り開いた、
とされている。
厳密に組織された革命的機構に国家に代わる機能を与える必要があるのだ。
社会生活の枠組みを解体し、大衆のイニシアティヴにそれを委ねることによって、初めて可能
になるのである。
さらにトカチェフは、革命とは、大衆ではなく、少数の完璧に組織された革命家集団による権
力の奪取と維持であると考え、権力の獲得こそが社会改革の過程の核である、と最初に述べた
人物であり、権力奪取の方法を具体的に提案し、記述し、その目的は、獲得された権力の保
持、増強であると明言した最初の人物でもある。
トカチェフは、十九世紀末の数十年間の間にロシアにマルクスの思想を適応させ、ロシア革命
の最初の理論家でもあるみたいだ。
「ロシア・マルクス主義の出現と共に、従来とは異なる別の知的エリート層が、今後、政治の舞
台の前面に登場してくる。レーニンは次第にそのもっとも目立った人物の一人となって行く。
したがって、一八八一年三月一日にロシアの歴史の一ページ、つまり革命前史というページが
めくられるのである。
これ以後、ロシアの特殊性をめぐる論争は、ロシアを変革しようとする者たちの中では後景に
退いていくことになる」(本書)
この頃から、ロシア国内に急速にマルクス主義が定着していく。
ちなみに、レーニンは1895年に逮捕され、流刑地のシベリアに収監されるが、1900年にはシ
ベリアを離れ、名をレナ川に因んでレーニンとしている。
「流謫の地での最後の数カ月に、彼は『ロシア社会民主主義の責務』と題する著作を完成させ
た。これはスイスで出版され、その後彼から離れることのないレーニンの名で署名されてい
た」(本書)
「ロシア・マルクス主義の父とみなされる人物、すなわちグレゴリー・プレハーノフ(一八五六~
一九一八年)によって体現されていた。
彼はチェルヌイシェフスキーの影響を受けて〈土地と自由〉運動で、次いでバクーニンから影
響を受けたさまざまな組織で活動した後、一八八〇年に祖国脱出を余儀なくされるが、その際
にマルクス主義に転向する。
その時から、彼にとっては困難な亡命生活が始まったが、それは一九一七年にロシアに帰国す
る時まで続く」(本書)
プレハーノフは、ジュネーブ→フランス→ロンドン→ジュネーブと亡命生活を送るが、
ジュネーブなどで彼の周りに集まった小集団は、〈労働解放集団〉と名付けられ、
当時の構成員はパーヴェル・アクセリロード、レフ・ドイチェ、ヴェラ・ザスーリチ。
これがロシア最初のマルクス主義政党であり、その成員は彼らだけであった。
彼らの任務は二重になっていたという。
マルクスのテーゼをロシアに普及させ、国際社会主義運動の一環をなす革命運動をこのテーゼ
を基礎として打ち立てること。同時に人民主義の威信と影響を打ち砕くことであると。
ただ、プレハーノフは「それは政治的怪物となろう・・・共産主義の色に塗り直されたツァーリ政
治風の専制主義に」と革命の危険性を明瞭に指摘していた。
亡命先であれ、自国内であれ、ロシアのマルクス主義者らは、大論争を繰り広げていたが、
行動という別の形態を取るようにもなる。
その舞台はサンクトペテルブルクであった、としている。
「アレクサンドル二世暗殺後、弾圧が厳しくなったおかげで、数年間は比較的平穏な時期が続
いたが、十九世紀最後の十年間が始まるや否や、首都は騒擾の時代に突入する。
首都では、まずマルクス主義以前の社会運動が、次いでマルクス主義に賛同する運動が発展し
た。マルクス主義や人民主義を信奉する政治サークルがいくつも組織され、当局を不安に陥れ
る。当時ストとデモが国中を揺り動かしていたからなおさらだった。
首都では労働の祭典を印象付けるためのデモが行われた(ロシアにおいてこの種の試みが最初に
行われたのは一八九一年五月、サンクトペテルブルクにおいてであった)。
しかしとりわけ権力が警戒したのは、一八九二年五月のロージの労働者の大ストライキであっ
た」(本書)
レーニンは、マルクス主義の「大物」理論化たちの仲間入りを果たすべく、スイスに亡命して
いる開祖たち(プレハーノフなど)と接触する。
スイスでレーニンと会った同業者のある人物は、レーニンを次のように評している。
「レーニンの粗暴さと残酷さ―私はこれを最初の出会いから感じ取りましたが―は、
抑えきれない権力の情念と解きほぐせないほど固く結びついていました。
レーニンにあって恐ろしいところは、個人的禁欲主義と、自分を鞭打つ能力と、他人を鞭打つ
能力が入り混じっている点です・・・」
レーニンは、サンクトペテルブルクに一旦居住するが、そのことも含めて、レーニンの思想遍
歴などに触れながら、著者は次のように指摘している。
「レーニンのサンクトペテルブルグ時代―彼が革命までの間にロシアに定住したのはこの時代
だけだった―を要約するのは、彼の知的変換を明確に把握したいと思うと、たちまち困難にな
る。一八九七年に、彼がシベリアへ出発した時、彼は党の労働者階級への解放を非難してい
た。しかしそれより二年足らず溯ってみると、彼は労働者階級への扇動と補佐という考えを採
用していたのである。
青年時代の人民主義がまだ完全に彼から抜けきっておらず、それがマルクスの思想と混ざり合
っていたのだ」(本書)
「彼の活動からもっとも明瞭に浮かび上がって来るのは、思想の土俵で戦う、論争する、執筆
するということへの彼の適性である。
彼は常に労働者相手よりもインテリゲンツィア相手の方が闊達でいられるであろう。
彼は労働者のことはほとんど知らないし、そうとは口にしなかったが、労働者がより良い教育
を受けて、彼自身が所属するインテリゲンツィアと競合する力を持ったエリート層を形成する
に至ることを恐れていた」(本書)
一八九五年三月、ミンスクに九人の人物が集まり、ロシア社会民主労働党(PSDOR)を設立す
る。その目標は労働者組織統一を実現することであった。
これは、ロシアの国土に分散しているすべてのマルクス主義集団を糾合する組織化の最初の試
みであり、著者は二つの要素に注目しておく必要がある、と指摘している。
一つは、当時他民族帝国のロシアを動揺させていた民族問題を克服し、労働者階級の組織化を
諸民族の統合の道具にしようとする熱望。
もう一つは、マルクスの革命概念とロシア独自の政治状況を両立させることに成功したこと。
ミンスク大会は期待されたほどの成功ではなかったが、ロシア革命の激動の歴史の中でそれが
果たした役割は過小評価されてはならない、と著者は指摘する。
「ミンスク大会の参加者はたちまち姿を消してしまったにもかかわらず、このミンスク大会と
ともに新たな時代が開幕する。
革命組織、綱領および明確な運営規則の必要性は誰にも否定できないものとなり、それがマル
クス主義者の、そしてなによりもまずレーニンのエネルギーを動員することになるのである」
(本書)
この時のレーニンは、シベリアに流刑に処されていたためミンスク大会に参加できなかった
が、シベリアで思索と執筆の活動に没頭し、程なく姿を現し、ポリシェヴィキ党の真の組織者
となる。
著者は、ミンスク大会の重要性を強調するように、一八九八年春、レーニンの本当の歴史が開
幕を迎えるのである、とまで書いている。
レーニンは、ロシアを後にし、社会民主主義者たちと接触すべくドイツへ赴く。
そこでは、『イスクラ』(第一号は一九〇〇年十二月二十一日に発行)で何本もの記事を書き、
ロシアへの配送の段取りを決め、その路線を決定したりと、いくつものことに同時に携わっ
た。
発行されるや、この新聞はロシア国内に搬入され、非合法のルートで運ばれた後、首都や大き
な工業・大学都市でもっとも活動的なマルクス主義者グループに配られた。
『イスクラ』の製作拠点はライプチヒ→ミュンヘン→ロンドン→ジュネーヴへと何度も移転し
ている。
『イスクラ』の製作者であるレーニンは、そこから驚くほどの権威を引き出すことになった、
と著者は指摘する。
「レーニンにとって、彼が掌中に収めている機関紙は、「扇動と集団的組織化の道具」でなけ
ればならない。
彼はそれこそが『イスクラ』の役割であるという正確な観念を有していたために、それに全身
全霊を打ち込み、そのことによって独特の権威を主張し得たのである」(本書)
イギリスを去る前に、レーニンは七歳近く年下であり、もう一人の革命家、レフ・ダヴィドヴィ
ッチ・ブロンシュタインと初めて会っている。
この人物は、一九〇二年に最終的な偽名となるトロツキーという名を採用したところであっ
た。ちなみに、この「トロツキー」という名は、二年近く過ごした町であるオデッサの牢獄の
看守から借用したものだとしている。
トロツキーは何度か投獄され流刑となった後、逃亡してサマーラへ向かい、そこで『イスク
ラ』の地方グループと連絡を持った。
「一九〇〇年以来レーニンが考え続けていたのは、革命運動の団結と有効性をいかに確保する
かということだった。
イデオロギー闘争、『イスクラ』、彼の論文や論説、これらすべては、「統一性」―意志、綱
領、組織の―のみが革命の企てを実現することを可能にするとの彼の中心的観念に合致した革
命の道具を練り上げるという、強烈な意志の一環をなしていた」(本書)
一九〇二年、レーニンは革命の道具に関する見解の体系的提示であるといわれ、世界中の共産
党にとってのバイブルとなる『何をなすべきか』を書く。
そこでは、自国の状況下、急速な工業化と労働者階級の発展の帰結を分析しつつ、労働者階級
が弱体であるために、組織された団体がその指導に当らざるを得ない、と結論する。
著者によれば、『何をなすべきか』の長所は、なによりも革命の戦術に専念したことである、
としている。
この頃からかは知らないが、マルクス主義の「大物」理論化であるプレハーノフのような「歴
史的」なロシア社会民主主義者たちの支持する考え方と袂を分かっている、としている。
プレハーノフらは、インテリゲンツィアは労働者と共に革命運動を形成しなければならない
が、当の革命運動は何ら特殊な構造を持つわけでなく、すべての労働者は歴史の変革に参加す
る能力があると考えられるが故に、党はすべての労働者を結集する機関として理解される、
と考えていた。
レーニンは革命についてこれとは全く異なる見解を持っていた。
革命は、労働者階級の「前衛」であり、労働者の階級意識の、したがって革命の理論の担い手
である職業革命家たちによって組織され指導されなければならない。
労働者は革命の理論にも生来のセンスを持たないのであると。
「レーニンにとっては、党のみが階級闘争を本当に創り出すものであり、党のみが労働者階級
に、階級性を抱かせることができる。
この階級性によって労働者階級は、誤りにも、ブルジョワジーのイデオロギー的支配にも陥ら
ないことが可能になるのである。
彼の目から見て重要なのは、労働者運動が正しい「イデオロギー」に導かれるということであ
り、その正しいイデオロギーとは、まさしく党がこの運動にもたらすイデオロギーに他ならな
い。かくして党はプロレタリアート的意識の「唯一」の保持者なのである」(本書)
これ故に、レーニンは党の組織と運行形態に重要性を付与する。
この前衛は、既成秩序に終止符を打つというとりたてて実現困難なその歴史的使命に見合った
形で組織されなければならない。
それは、党の中央集権化され、秩序化され、権威主義的であること、そして党内では終わりの
ない論争と駄弁に身を任せるのを慎むことを意味する、と著者は指摘する。
世界中の共産党のバイブルである『何をなすべきか』は「党は純化されることによって強化さ
れる」という文言から始まるという。純化=粛清。
元アメリカ大統領ハーバート・フーバーの『裏切られた自由』の中で、
「初期の段階のロシアの共産主義者は、二つのグループに分裂した。
ボルシェビキは暴力革命を指向し、メンシェビキはむしろ非暴力的な革命を指向した。
結局レーニンの指導するボルシェビキが勝利し、一九一七年十一月、権力を掌握した。
メンシェビキの多くは、ボルシェビキに加わり、そうでない者は粛清された」
と「メンシェビキ」と「ボルシェビキ」について簡単に触れているが、それはレーニンが名づ
けたものであり、社会主義者らの会議の中で、レーニン側が不利な状況になっていたが、
一転して有利な状況になり、それを見て、レーニン側のグループが多数派になったと断定し、
そこから「ポリシェヴィキ」という呼称を使い、少数派となったレーニンの敵対者たちを「メ
ンシェヴィキ」とレッテルを貼ったもの。
「彼が多数派となったこの「瞬間」を用語集の中に刻み込み、そこから党内の力のバランスの
不可侵の定義を引き出すことによって、この「瞬間」を永遠に固定しようとしたこの決断は、
彼の主意主義と彼の臆面のなさをはしなくも露呈させている。
レーニンを権力と独占へと導くことになるのは、こうした特徴にほかならない」(本書)
ちなみにトロツキーは、レーニンを「潜在的ロベスピェール」扱いし、レーニンが革命の党の
すべてのメンバーをいずれ大量虐殺するだろうとすでに想像していたという。
そして、この頃になると、かつての同志がレーニンに背を向け、ヨーロッパの社会民主主義運
動もレーニンに背を向けることになる。
ドイツのもっとも威信のある社会民主主義者たちも、レーニンの思想と言葉遣いの行き過ぎを
非難する。
「ヨーロッパの労働者運動の責任者たちは、ポリシェヴィキの進出に不安を感じていた。
彼らから見るとポリシェヴィキは、文明化された彼らの流儀、彼らの改革主義的方向付けにあ
まり馴染まないと思われたからである」(本書)
社会主義インターナショナルも、ポリシェヴィキの過激主義に対してあまり寛大な態度を見せ
なかったという。
その後、ロンドンで行われた「第三回民主労働党大会」で、メンシェヴィキ主義は破門され、
そのメンバーは、党に全面的に服従することを認めるなら、党の中に生き残ることができる、
とした。大会は武装蜂起を組織することを決議し、この決定にレーニンは最大の重要性を付与
した。
ポリシェヴィキとメンシェヴィキが論争をしている間、ロシアは少しずつ革命の中に飲み込ま
れていく。
「対日戦争の惨憺たる結果はロシア国民を憤慨させた。
彼らは軍事的犠牲が無駄に終わったことと国民を導く者の無能振りを確認したのである。
戦争はまた混乱に次ぐ混乱を生みだした。意気阻喪した軍隊は革命活動家の扇動の的となる。
彼らは増援部隊が極東へ向かう鉄道の沿線で活発に活動した。
特に大きな鉄道の合流点はこうした運動の発展にうってつけだった」(本書)
そこには、すでに革命の側に立っていた鉄道員や、それ以前からの混乱の際に大学を追われて
いた学生たちが集まったという。
一九〇四年十二月二十日、プチーロフ工場でストが始まる。発端は、四人の労働者が首になっ
たという些細なことだった。しかし、首都の周辺部、首都全域が炎に包まれることになる。
「君主のもとへと向かう民衆の穏やかな行進の日曜日は、数時間のうちに流血の日曜日とな
る」。血の日曜日。
「血の日曜日の結果は重い。人的被害は、誇張を避けるように心掛けても死傷者数百人にのぼ
る。しかし犠牲者を襲った悲劇以上に、惨憺たるものは政治的結果であった。
専制政治はかくも長い間それを耐え忍んできた人民の目に、永遠に断罪されたものと映った」
(本書)
労働者の騒擾は、首都から地方―モスクワ、サラトフ、リガ、ロージ、ワルシャワ、ヴィリノ
―へ、そして農村部へと広がっていき、農民層が激しく立ち上がり、鎮静化していたテロリズ
ムも、再び活発化する。
一九〇五年二月四日には、皇帝の叔父であり、モスクワ知事のセルゲイ大公が、社会革命党の
信奉者だった学生、イヴァン・カリアイエフの銃弾に倒れる。
これに加えて学生たちも運動に合流していた。授業を放棄し、禁令にもかかわらず大学の中で
デモを組織し、到るところで労働者と手を結んでいた。
そして、「ソヴィエト」なるものが、繊維産業の中心地であったイヴァノヴォ=ヴォズネヤン
スクでストライキ中の労働者が選出し、二カ月間存在することになる。
これはきわめて重大な政治的革新だった、と著者は指摘している。
ちなみに「ソヴィエト」とは「評議会」などと訳される。
その直後には、オデッサ港内で戦艦ポチョムキンの反乱が起こり、多様な階層の中で、きわめ
て多様な形態で社会的動乱が拡大していることの証しだったと。
「社会民主主義者を筆頭に、あらゆる政治運動組織には、一つの問いが課せられていた。
すなわち、何をなすべきか?まず第一に、ソヴィエトというこの労働者階級の自発的組織をどう
すべきなのか。
支持すべきか。自分たちの側に取り込むよう試みるべきなのか。一般にこうした統制のきかな
い社会的勢力をどうすべきか。
組織すべきなのか。どのような方向へ向けるよう試みるべきなのか。社会革命主義者は農村部
に視線を注いでいた。自由主義者の方は組合を自分たちの側に「取り込む」ことを求めてい
た。社会民主主義者の場合は、彼らが採るべき道を決定する前に、答えは社会そのもののほう
から出て来たのである。
秋になると、地域スト、散発的なデモが、突然国全体に広がり、組合の中でもっとも強力な鉄
道員組合がゼネストを宣言する。そして十月半ばに、首都にソヴィエトが誕生する。
これは五月以来イヴァノヴォ=ヴォズネセンスクのそれを真似てあちこちで出現したすべての
ソヴィエトが蓄積した経験を引き継ぐものであった」(本書)
サンクトペテルブルグのソヴィエトは一九〇五年十月十四日に結成され、五〇日存続すること
になる。
サンクトペテルブルグのソヴィエトは武装を解かなかったばかりか、ストとデモを継続するア
ピールを次から次へと発していたという。
そしてこの頃に、トロツキーがソヴィエトの議長となり、そのことによってソヴィエトに大き
な威信を付与することになった、としている。
ソヴィエトは間もなく解散され、その議長であるトロツキーは逮捕され裁判にかけられる。
しかし、ソヴィエトのやり方は地方へ伝播し、もう一つの首都であるモスクワにも伝わり、
モスクワはサンクトペテルブルグを引き継いで革命の中心地になったという。
その頃のポリシェビキは、ほとんどソヴィエトに姿を見せなかったが、市街での武装闘争を組
織することに没頭しており、武器を購入し、その武器を戦闘に備えた小グループに配備してい
た。ソヴィエトとメンシェヴィキに支配されていたサンクトペテルブルグは、この企てには好
意的ではなかった。
しかしモスクワでは、蜂起を呼びかけるビラが壁を埋め尽くし、バリケードが全市に築かれた
という。
一九〇五年十二月、鎮圧が敢行され、ソヴィエトのすべての指導者が逮捕される。農民からな
る軍が手助けをすることにもなった。
トロツキーは数カ月後に流刑の宣告を受けるが、流刑の地に到着する前に逃亡する。
モスクワでは労働者たちが最後まで執拗に戦うが、やがて鎮圧される。ここで革命は終わる。
この間のレーニンやボリシェヴィキらは、当初はこの予測と分析を裏切る事態を不安を抱きつ
つ観察し続けていた。
党は見事に組織されていたが、拡大する騒乱の中で大した役割を演じなかったばかりか、
むしろいかなる役割も演じなかった。さらには何もしなかった、と著者は指摘する。
「ソヴィエトの一時的な成功は、労働者階級は誰の助けも借りずに自分で自分自身の組織形態
を案出する力があるということを証明していた。
労働者の自然発生性が一つの政治的意識へと到達したわけである。これはレーニンの譲るべか
らざる見解に合致しなかった」(本書)
革命の動きが始まった時、トロツキーはこの動きに参加すべく、流血の日曜日の翌日に国境を
越え、キエフ、次いで首都へと到達したが、レーニンの方はほとんどロシアに戻ろうとは考え
ていなかった。レーニンがサンクトペテルブルクに戻るのは革命の終盤になってからであり、
戻ってからの最初の活動はジャーナリズムとしてだった。
「十月宣言に引き続いて、ニコライ二世は二十一日に、一月より要求されながら決めかねてい
た政治犯の大赦を布告した。
この大赦は国内では不十分と判断されたが、それでも結果として追放された革命家たちの帰還
を可能にすることになった。
したがって生まれたばかりの政治組織に新たな力を吹き込むことになったのである」(本書)
十月宣言というのは、皇帝が出した宣言であり、普通選挙制の施行と選挙によって選出された
議会の召集、という国民が要求していた一部が満たされるであろうと予告したもの。
その後のレーニンは、フィンランド→ストックホルム→ジュネーヴなどへと、十年続くことに
なる亡命生活が再び始まった。
そしてこの時の騒乱の中で出てきた「ソヴィエト」をボリシェヴィキの側に引き寄せるよう試
みる必要がある、という考えに至ったと著者は指摘している。
「他人に対して決裂と排斥を課すというのは、レーニンが常々行って来たことだが」(本書)
さらにレーニンは、この時の革命が、二つの限界に突き当たったということを理解していたと
いう。
一つは、地理的な限界で、革命は都市から外へ出ることに決して成功しなかった点。
もう一つは、政治的な限界で、革命の目標があまりにも漠然としていて、社会には理解できな
いまま終わったという点。
亡命先のフィンランドのタンメルフォルスにおいて全ロシア・ボリシェヴィキ会議が召集され
た。
そこでは、統一の必要について議論がなされたが、同じ頃メンシェヴィキの方も統一を目指し
て活動していた。
この会議でレーニンは初めて、カフカスの組織から会議に派遣されて来た若きグルジア人革命
家であり、メンシェヴィキに賛同していたヨシフ・ヴィサリオーノヴィチと出会っている。
当時はコバの名で知られており、一九一〇年以降はスターリンの名で知られている。
その後も、ストックホルムなどで密かに集会が開かれるが、統一が回復され、党はブント(ユダ
ヤ人社会党)およびポーランドとラトヴィアの社会民主党を隊列に迎え入れた。
レーニンにとってこの時重要だったのは、メンシェヴィキを弱体化する手段を保持しておくこ
とであった、と著者は指摘する。
一九〇八年頃から、ジュネーヴでの生活に倦き倦きしたレーニンは、パリへむけて出発する。
そこでは、四年過ごし、次いでロシアに近いクラクフ[オーストリア領]に移り、第一次世界大
戦が始まるとスイスに戻るが、うんざりしていたジュネーヴには戻らず、ベルン、次いでチュ
ーリッヒに滞在する。
この頃に、レーニンに近い人物、マクシーム・マクシーモヴィチ・リトヴィーノフがパリで逮捕
されるという事件が起きている。
リトヴィーノフは、紙幣五〇〇ルーブルを所持していたが、調査の結果、その紙幣がチフリス
で強奪された一部であることが判明する。
リトヴィーノフは、接収(強盗など)で得た資金を「管理する」任務に当っており、レーニンに
極めて近い協力者であり、レーニンは社会主義インターナショナル事務局との財政的関係を確
立する仕事をリトヴィーノフに任せていた。
リトヴィーノフは接収(強盗など)で集めた資金を、出所は明かさずに社会主義インターナショ
ナル事務局に預けた上で、それを武器購入に使ってもいた。
ちなみに、リトヴィーノフは後にソ連の外務人民委員として、アメリカがソ連を国家承認する
ときの交渉に携わっている。ハーバード・フーバーは激烈にリトヴィーノフを批判していたが。
ベルリンでも偽ルーブル紙幣製造のための用紙と原版が発見されるという事件が起こってお
り、警察がこの計画の首謀者たちを逮捕したところ、これもボリシェヴィキの仕業だったこと
が判明している。
スターリンも接収(強盗など)で、ボリシェビキの金庫を満たすのに貢献し、それ以来、レーニ
ンはスターリンを認めるようになる。
この時代のレーニンは、インターナショナルの国際大会に参加したりするが、インターナショ
ナル内での評判が悪くなり距離を置いたりしている。
「一九〇五年にはレーニンは驚くべき直感を持った。
敗北に終わった戦争が革命の口火を切ることがあり得ることを理解したのである。
いつ終わるとも知れない第一次世界大戦は、彼にとってもう一つの別の発想の源となった。
しかし、その発想はなんとマルクス主義から無援であったことか。
その時彼が予感したのは、民族の意志の利用は、プロレタリアートの全般的勝利の特権的手段
となり得るということだったのである」(本書)
一九〇七年のインターナショナルのシュツットガルト大会で、レーニンらのボリシェヴィキら
の連中は次のように述べている。
「戦争が勃発した場合は、社会主義者は・・・戦争によって産み出される経済的・政治的危機を全
力で利用し、最下層の民衆諸各層を扇動して、資本主義の支配の崩壊を早める義務を有す
る」。
レーニンも、
「・・・平和は司祭の合言葉である。プロレタリアートのスローガンは、
戦争を永久に資本主義を破壊するための内戦に変えるということでなければならない」
と述べていた。
第一次世界大戦が始まるとロシアの状況は惨憺たるものであった。
戦争は死者、負傷者、捕虜の群れを果てしなく生み出し続け、不平は国土全体に広がってい
た。
ナポレオンに有効に対抗したという抵抗の記憶に支えられて帝国軍が実行した焦土作戦は、
世界大戦においては逆効果をもたらした。
逃亡兵、市民、負傷者の群れが、ロシア中心部へ向かう路上に溢れ、避難民受け入れの何の準
備もない都市に侵入して来ていた。
この群衆は政府から見放されたと感じていて、恨みは蓄積され、都市に新たに流れこんだ者た
ちによって生じた問題が、不満を引き起こし、それはいつでも反乱に転化するばかりになって
いた、と著者は指摘する。
経済状況もはかばしくなくなっていた。
軍事需要に対処するために産業の転換をし、防衛に必要な装備の製造を加速させることには成
功したが、消費財の製造はほぼ全面的に停止した。
その結果、消費財の不足は物価に反映し、特に農民は売ったものの見返りに何も買うことがで
きなくなった。
物不足と生活水準の低下は、労働者に影響を及ぼしただけでなく、それまではより保護されて
いた階層の中産階級、官吏層にも影響を及ぼした。
この二つの階層は、一九〇五年には革命運動に近付くことはなかったが、一九一七年には、
物質的困難が増大するのを目の当たりにして、革命運動に加わる気配を見せていた。
二月二十三日、繊維工場と製錬工場でストを行っていた労働者と女性たち、総勢九万人が経済
的困難を訴えるデモのために終結した。その日は国際女性デーであった。
「ところが権力側は反撃しなかったのである。
そしてデモ参加者たちは当局の消極的な態度に呆気にとられたが、翌日、再び街頭に下りた。
より安全を確信し、より攻撃的に。―その数は増した。プチ・ブルジョワや学生たちが合流し
た。革命歌が響きわたり、その合間には、経済的要求に代わって政治的スローガンが叫ばれ
た。ペトログラード全市は、少しずつこの運動に飲み込まれて行った。
その時になって初めて、恐れをなした政府は、軍隊の介入を決定を下したのである」(本書)
民衆はデモに加わるよう軍隊にも呼びかけた。この誘いによって、複数の連隊が次々に蜂起の
側へと寝返った。
二月二十七日、権力はもはや存在しなくなり、別の権力を作り出す必要があった。そして蜂起
の動きは全土に広がった。君主制は一九一七年三月三日になんの抵抗もせずに消滅した。
そして、ドゥーマの委員会とソヴィエトの執行委員会によって臨時政府が設立される。
ドゥーマは国会とも訳される。
ドゥーマは、自由主義ブルジョワジーの意志の発露であり、帝政の道連れとなって失堕するの
を避けるために民衆の運動と連携していた。
当時レーニンはチューリッヒにおり、スイスの社会主義者たちに期待を寄せて、彼らの活動に
間近から関心を寄せて、次のように語っている。
「この革命は第二の、そして勝利に終わるパリ・コミューンに至るだろう。
さもなければわれわれは戦争と反動に粉砕されるだろう」(本書)
レーニンは有名な「封印列車」で帰国するが、それはドイツが後押ししたものであり、
革命のプロパガンダを賄うための多額の資金も提供した。
ドイツ当局にとって、レーニンはロシア政府を崩壊させるために握っている切り札であり、
革命の火蓋を切るために、レーニンは講和を説き、軍隊を解体へ駆り立てるように期待されて
いた。一九一七年のドイツにとっては、戦力を西部戦線へ集中することが急務であった。
統一を宣言する目的で、あらゆる派閥の社会主義者を集めた集会がタヴリーダ宮で開かれる
が、そこでレーニンは、自分の案が直ちに実行されるべきであると強く主張した。
あらゆる戦争努力の即時停止、臨時政府への支持を止めすべての権力をソヴィエトへ移転する
こと、正規軍を廃止して民兵団をもって代えること、大所有地の没収と土地の国有化、ソヴィ
エトによる生産と分配との管理。
「レーニンの最大の成功の要因はおそらく、すでにこの時点で党が「すべての権力をソヴィエ
トへ」というスローガンを採用したことである」(本書)
後に、「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンから、「労働者と農民の革命的独
裁」というスローガンに代わっていくことになる。
長い間敵対関係にあった者がレーニンの周りに駆けつけ、ボリシェヴィキは少しずつレーニン
の指示に従って動くようになり、首都と地方で権力の決定機関を掌握して行く。
一旦レーニンは、フィンランドの隠れ家に移り招令を発するようになるが、より過激な提案を
するようになる。
十月革命・モスクワでの兵士たち
「レーニンが(十月)二十四日に開始の合図を送った蜂起それ自体の部分は、すでにもはや民衆
蜂起らしい所がなかった。それは驚くべき平穏の中で展開したのである。
政府の統制下にある戦略地点を警備する士官学校生たちは、共産主義者の分遺隊が姿を見せた
時、多少なりとも反撃するだけの力さえないことを露呈する。
その際、銃撃はただの一発も行われず、ペトログラードは音もなくボリシェヴィキの権威下に
入って行った」(本書)
レーニンは、一人で文書を考えて発表し、それはロシアのもっとも遠方の果てまで伝達されて
行く。
「ロシアの市民に告ぐ。臨時政府は解任された。
国家権力はペトログラードの労働者と兵士の代表者からなるソヴィエトとその機関である軍事
革命委員会の手に移った。
同委員会はペトログラードの守備隊とプロレタリアートの先頭に立って戦った。
民主的講和の即時提唱、土地所有の廃止、労働者による生産の管理、ソヴィエト政府の創設、
これらの人民の闘争の目標はすべて達成された。労働者、兵士、農民の革命、万歳!」
「レーニンは己が支配するソヴィエト大会の正統化の旗のもとに己の権力を置き、
己を拒絶する民衆によって選ばれた厄介な議会を〈歴史〉から消し去ろうとした」(本書)
「一九一八年一月末において、ソヴィエト国家は存在し、彼の政府はもはや臨時ではなく、
いかなる民衆の意志ももはや彼に反対することはできない。それを表現するための機関を彼が
消滅させたからである」(本書)
「彼のアピールはまた、彼が願うソヴィエト国家の本性を明示してもいる。
それは国際社会が知っているような伝統的国家とは全面的に異なる国家であり、
世界革命から生まれる諸国家をつなぐ新たな鎖の最初の環なのである」(本書)
一九一八年三月三日に、ドイツとのブレスト=リトフスク講和条約を調印するが、
ロシアはポーランド、フィンランド、バルト諸国という広大な領土を失い、ウクライナは独立
することになった。トゥルキスタンとカフカスを除いて、三〇〇年にわたって築き上げられた
帝国には実際上何も残らなくなった。
政府は政権の中枢を守るためにペトログラードを後にし、モスクワへ移った。
労働者の代表のソヴィエトであったが、ボリシェビキの意志によって、労働者よりもレーニン
の党に従順な兵士に拡大され、次いで農民にまで拡大された。
「講和はさまざまの問題に決着をつけることからほど遠く、ロシアにとって恐るべき新たな時
代の幕を開けることになる。その時代の特徴は、内戦、外国の干渉、民族戦争という、三つの
戦線における戦争である」(本書)
それらに加え、飢饉、経済の完全な崩壊、各地の権力も完全に混乱するという状態、反革命の
組織が形成され、活動が開始される。
「政権は、都市社会に食糧を提供し、全収穫物を差し出して都市社会のために、働くよう農民
に強制する任務を、自らに課したのである。
交渉と暴力を組み合わせた逡巡の時代は終わった。これ以降は抑制なき暴力のみが用いられる
ことになる」(本書)
一九一八年七月、皇帝一家の殺害が、ボリシェヴィキ政権の活動の妨げとなるかも知れないも
のをすべて抹殺しようとする政策の一環として実行された。
トロツキーはルイ十六世を裁いたフランス革命のやり方で、「残虐非道のニコライ」の運命を
決めるための裁判が行われるよう希望を表明したが、レーニンはきわめて早くから、迅速な解
決の方を好む意向を表明していた。
「ロマノフ家の人間を一人残らず、つまり優に百人余りを皆殺しにする」。
この提案が、一九一八年七月十六日に実行された。
レーニンは権力の座に就くや、直ちに、社会を監視し統制するための道具であるチェッカー(国
家保安部)も作り出している。
レーニンには、決定的な形で影響力を揮った領域が二つある。
それは対外政策と民族政策の領域である。
トロツキーは赤軍の創設者にして司令官であった。対外政策では、レーニンの見解の正当さに
異議を唱えることはできなかった。
ブレスト=リトフスク講和条約が成立した直後に、新しく外務人民委員にプロの外交官であっ
たチチェリンが就任している。
それまで支配的だったアマチュアリズムを拝し、プロフェッショナルな外交政策観を導入し
た。
チチェリンは長らくレーニンと対立していたが、チチェリンが味方についた時、レーニンは喜
んで受け入れた。
一九二一年からはリトヴィーノフがチチェリンを補佐することになり、一九三〇年には彼の後
を継ぐ。
リトヴィーノフはチチェリンとは違ったやり方ではあったが、この二人の才能によって有効性
のあるボリシェヴィキ外交が展開された。「国際宣伝活動部」も増設されている。
「こうして早くもこの人民委員会の発足当初から二つの使命が存在したことが見えて来る。
一つは革命を推進することであるが、しかしまた、しばらくの間は、生まれたばかりのボリシ
ェヴィキ国家のために一時休止を確保することである。
事態の推移の中で、ロシア外交担当者―あるいは外交政策をデザインした当人であるレーニン
―は、この二つの目標の間で常に揺れ動くことになる」(本書)
レーニンは常に秘密外交を告発していたが、それがロシアに有用である時には、直ちに受け入
れていた。
レーニンは、ドイツ革命を始動させることを夢見ていたが、失敗し、一つの考えに到達した。
それは、世界革命に用具が必要であり、第三インターナショナルであると。
一九一九年に第三インターナショナルを創設することを決定し、会議も開かれるが、レーニン
はその会議の中で、プロレタリアートの独裁の必要性、ブルジョワジーおよび議会主義とのあ
らゆる妥協の拒否を激しく強調した。
コミンテルンと各国で活動する共産主義集団とを接近させる必要があるとも考え、協力者を集
め、各地に支部を設置し、資金を充実させて行った。
第二回コミンテルン大会では、インターナショナルは規律を不可侵の規則とし、中央集権化さ
れ、序列化された組織となる。
「単にインターナショナルの創設者であるだけでなく、ソヴィエト政府の首長でもあるレーニ
ンは、自国のために、敵対する植民地列強の後方を切り崩す力を持った同盟者をヨーロッパの
外に見つけ出さなければならなかった」(本書)
第七回党大会(一九二一年三月)で採択されたテーゼには、分離独立の権利、ロシアから分離し
ない民族には大幅な地方自治、法による少数派の権利の保証、党の統一性、という四点の要件
が含まれることになり、戦略的利益と経済的資源という観点から自己を組織化し、規定してい
くようになり、国境を固め、ロシア帝国の版図を再構築することになった。
一九ニニ年四月以降にレーニンは、党の書記長のポストにスターリンを指名した。
補佐役にはモロトフとクイビシェフが付いた。
この頃には、八千人近くの教会に仕える者たちが「粛清」されてもいる。
さらに、自己批判がソヴィエト政治に登場し、これは後にスターリンが、葬り去りたいと思う
者全員に強要したものである。
レーニンとスターリン
一九ニニ年のレーニンは、発作で倒れ、全身不随に陥り、いかなる政治活動をも放棄せざるを
得なくなる。
しかしまだ思考することと決定を下すことは放棄しなかった。レーニンはこの前後に次のよう
に語っている。
「労働者と農民の知力は増大しつつあり、ブルジョワジーとその共犯者たち、国の頭脳を自認
する知識人、ブルジョワジーの従僕たちに対する闘いの中で、さらに力を増している。
現実には彼らは国の頭脳ではなく、国のくだらない糞尿にすぎない」
「われわれは資本主義を解体し、中世的制度、領主制土地所有を完全に破壊しようとした。
そしてその土地の上に、小農民層と極小農民層とを創設した。
彼らはプロレタリアートの革命の事業に信頼を寄せ、プロレタリアートの後について前進して
いる。
この信頼感を基盤とするだけでは、先進国における社会主義革命の勝利まで持ちこたえること
は困難であろう」
これらを克服するのは、文化革命を行う必要があり、レーニンは絶えず強調していたという。
「彼が追求する究極の目的は、諸民族の消滅なのである」と著者は指摘してもいる。
まだ意識のある最後の数カ月にレーニンは、
「スターリンはあまりにも粗暴である。そしてこの欠点は、われわれ共産主義者の間の関係と
しては耐え得るとしても、書記長の職務においては耐えがたいものになる。
それゆえこのポストからスターリンを移動させる手段について考えるよう、私は同志たちに提
案する。
そして彼の代わりに、あらゆる点において彼に勝る、より忍耐強く、より忠実で、より礼儀正
しく、同志に対してより多くの敬意を抱き、気まぐれなところのない、等々の人物を任命する
ことを提案するものである」
と述べていた。
スターリンの裏工作にうんざりしていたレーニンは、トロツキーに接近し、自分の周囲の政治
家たちについて熟慮するようになっていた。
そして、一九二四年一月二十一日の夜、レーニンは息を引き取った。
レーニンの死後ソヴィエトは六七年も続くことになる。
レーニンはロシアに思いを馳せるたびに、ロシアを遅れから、「アジア的野蛮」から引き剥が
すための唯一の、そしてもっとも確実な道は革命であると考えていた。
常にマルクス主義を革命と党と同一視し、ロシアの西欧化の問題を最終的に解決する方法とも
同一視していた。
レーニンは、ロシアの後進性のみならず、文化的特殊性をも憎んでいたのである、と著者は指
摘している。
レーニンのやり口は、躊躇することなくすべての自然発生主義に追随し、自分の党をその代弁
者とする、ということ。
それは今現在にも存在し活動している、世界中の共産主義者のやり口でもあろう。
日本の近くにいまだに共産主義国家が複数存在しているので、その元祖たるべきレーニンを掘
り下げて眺めたほうが良いと思い本書を手にした。
著者はレーニンにシンパシーを感じているわけではなく、しっかりと分析されている。
本書は六〇〇ページを超える大著であり、かなり端折って載せたが、気になる方は是非本書
で。
彼以外のいかなる独裁者が、このような成功を誇ることができるであろうか。
全体主義に彩られた二十世紀の歴史の中で、レーニンは疑いなく一つの体制を創り出し、
自分自身の死後かくも長期にわたって存続することになる暴力と不法の製作物に正当性を与え
た、ただ一人の人物である。この点に関して彼は他の誰とも比較を絶している・・・
彼はかなり平凡な理論家であるが、それでも例外的な政治的「発明者」であったと結論したい
ところである。
すべての独裁者が大なり、小なり他の者が切り開いた道をたどり、己の行動の跡を、
死体置場の柔らかい土の中以外にはほとんど残すことがなかった二十世紀にあっては、
そうした例外的人物はレーニンしかいない。
『レーニンとは何だったか』H・カレール=ダンコース