本書は仏教の教義ではなく、社会とのかかわりを中心に多くのページをさき、
世界の仏教のなかでもっとも「変容」を遂げた日本仏教を応援するために書かれている。
なので、一つ、二つ視点が高く、うまく整理されているので掴みやすい。
著者は『密教』でおなじみの正木晃氏。
本書は6章構成で、第1章では「最新の学問的成果を踏まえて、仏教とは何か」を問いている
が、そこが一番刺激的で参考になった。
まず、わかりやすく「仏教とは何か?」を説明するために、一神教と対比して説き起こしてい
る。
キリスト教・イスラム教・ユダヤ教のような一神教をセム型一神教といわれているが、
これらの宗教が想定する神は、もともと古代のパレスチナに居住していた「ヘブライびと」に
よって信仰されていたため、「ヘブライズムの神」とも呼ばれている。
ご存じの方も多いかと思われるが、その特徴を8つあげている。
①一神教というくらいですから、たった一人しかいません。つまり唯一神です。
②世界もしくは宇宙の創造主です。
③永遠不滅の存在です。
④全知全能の超越者です。
⑤抽象的な原理ではなく、人格をもっています。
⑥現実の人間のいとなみ、すなわち歴史に、全面的に介入してきます。
⑦特定の人間集団とのあいだに契約関係をむすぶ契約と法の神です。
⑧神と人間の関係は一方的です。人間はどんなに努力しても神には成れません。
①~⑤までは、ほかの宗教でも見られないことはないが、ヘブライズムの神はあらゆる意味で
突出し、⑥はヘブライズムの神にしか見られない特徴であり、ヘブライズムの神は、すべてを
創造し、すべてを支配する。⑦も注目すべき点で、ヘブライズムの神にたいする信仰は、共同
体の信仰であって、個人の信仰ではない。
近代化の過程で、西欧のキリスト教は、共同体の信仰から個人の信仰へと変容したが、いまで
もイスラム教やユダヤ教は、原則として、共同体の信仰。
仏教は、歴史のなかで、一族や血族を中心とする共同体の信仰になったこともあり、日本仏教
でも「家の宗教」という要素も抜きがたくあるが、もともとは個人の信仰から出発している。
そして、その違いがもっともよくあらわれているのが信者の行動規範、戒律。
ヘブライズムでは、戒律は、神が人間に対し、一方的に定めたものであり、強制するもの。
人間は不完全であり、神が完全。
仏教の戒律は「戒」と「律」から構成されていて、「戒」とは硬い表現でいえば自発的に決意
された「慣習的な行為」であり、柔らかい表現でいえば「誓い」。
「律」は戒を守らなかった場合の罰則にまつわる規定。重要なのはブッダが一方的に定めたも
のではないということ。
一定の強制力をもつが、なにか問題が生じた場合には、変更することが可能であり、永遠不滅
ではない。その強制力は、ヘブライズムとは比べものにならない。
仏教は神そのものを否定していないが、①~⑧の特徴をもつ神を、認めず、必要としていな
い。大乗仏教の段階になると様子が違ってくるが、ブッダは永遠不滅な存在を認めていない。
そんな仏教だが、現在宗教として生きている主な地域もあげている。
①テーラワーダ仏教(上座仏教)・・・スリランカ・ミャンマー・タイ・カンボジア
②大乗仏教→チベット仏教・・・チベット・ブータン・モンゴル
→ネパール仏教(ネワール仏教)・・・ネパール
→中国仏教・・・中国・台湾・マレーシアとシンガポールの華人社会
→ベトナム仏教・・・ベトナム
→韓国(朝鮮)仏教・・・韓国
→日本仏教・・・日本
大乗仏教と小乗仏教という分け方からすると、テーラワーダ仏教は小乗仏教に属するが、
学術の領域では、大乗仏教と小乗仏教という呼び方は現在していない。
小乗仏教の方が、インド仏教界でははるかに大きく、主流派であった事実がわかり、主流派と
いう呼び方をしている。
大乗仏教の勢力は、五~六世紀ころに密教が登場してくるまでは、たいしたことはなかった。
テーラワーダ仏教は、スリランカ・ミャンマー・タイ・カンボジアのあいだに違いは、そんなに目
立たないが、大乗仏教の場合は、チベット仏教系とネパール仏教系と中国仏教系の三つに分か
れ、この三点はずいぶん違う。
上でネワール仏教としているのは、ネパールに住むネワール人が信仰している仏教を意味す
る。
中国仏教から派生した仏教も、国ごとに差異が見られ、日本国内でも大きな違いがあり、一口
に「仏教とは何か」という問いに答えるのは難しいとしている。
その仏教の本家本元であるインド仏教では、近年、歴史をめぐって激変が起き、特に大乗仏教
の起源と展開については、大きな変容をせまられているという。
インド仏教の歴史は、ブッダ(紀元前四二八~三八三)を開祖として、一三世紀の初め頃に姿を
消すまで、次のように考えられてきた。
初期仏教 仏教誕生~紀元一世紀ころ
中期仏教 紀元一世紀ころ~七世紀初めころ
後期仏教 七世紀初めころ~一三世紀初めころ
初期仏教はアショーカ王(紀元前二六八~二三二在位)の登場から、前後に分けられ、前半が原
始仏教、後半が部派仏教。部派仏教は、ブッダの教えに関して見解が分れ、二〇くらいに分裂
したもの。
中期仏教は、大乗仏教が興隆した時代であり、日本にとっては最も重要な時期。
後期仏教は、インド仏教が衰退していった時代であり、衰退を食い止めようと、密教という新
しいタイプが大乗仏教のなかから登場してきた時代。
そして、今問題になっているのは、中期仏教の時代であり、以前までは、大乗仏教が興隆した
ことで、初期仏教は影をひそめていったとされていたが、最近では、大乗仏教の勢力はこれま
で考えられていたほど大くはなかったとしている。なので、学術の領域では上述のように、
小乗仏教という表現ではなく「主流派 main stream」と呼ぶようになっている。
さらには、同じ僧院のなかに、初期型の仏教と中期型の仏教と後期型の仏教が、共存してきた
こともわかってきて、三者が全部そろっていた僧院もあれば、一つのタイプしかない僧院もあ
り、二つのタイプが併存する僧院もあったという。
大乗仏教がインドの仏教界で認められた地位を獲得したのは、五~六世紀頃のことだとしてい
る。
そして、インドの宗教史をみれば、仏教は主流ではなく、全盛期ですら最大の勢力になったこ
とはなかった。
インドの帝王などが仏教を保護したともよくいわれるが、ほとんどの場合は国内にある宗教を
保護したのであって、仏教を特別に保護したのは、例外を除けば、皆無に近かったという。
「インド仏教の歴史をめぐる昨今の状況は、日本仏教にたいする評価にも、影響をあたえかね
ません。いままでは、小乗仏教より大乗仏教がすぐれている。その大乗仏教のなかでも、日本
仏教はチベット仏教よりもすぐれている。なぜなら、チベット仏教の中核は、大乗仏教の堕落
した形態というべき密教が占めているからだ。
同じ理由は、日本仏教にも適用されて、日本仏教のなかでも鎌倉新仏教こそ、もっともすぐれ
た仏教だ。南都六宗や真言宗や天台宗は、旧仏教といわれるくらいで、旧態依然の仏教だ。
また、密教を名のる真言はもとより、南都六宗や天台宗は密教の影響が強いので、よろしくな
い・・・という風潮がありました。しかし、こういう価値評価はもはや通用しないのです」(本書)
さらに、大乗経典と原始仏典(初期仏典)の違いや特徴にも言及しているが、
原始仏典は、ブッダの言行録という性格を持っている(一〇〇パーセント忠実に伝えているかと
問われれば、疑問が付くが) 。なので、キリスト教の新約聖書に近いところがあり、欧米の仏
教学で、初期仏教・原始仏教が高い評価を受けてきたのではないかと。
しかし、原始仏典にもとづく仏教は、古代インド文明圏からなかなか出られなかった。
一方の大乗経典は、ブッダの言行録を基盤としつつ、ブッダの教えを、色々な手法を駆使し
て、より多くの人々に伝えるという性格を持っている。
その結果、表現は多様になり、文学的にもなった。ブッダの教えを掘り下げて、哲学的に解説
したり、思想として成熟させたりすることにもなった。
物語として提示されたために、受容される層が広がり、ほぼ出家者に限定されていた悟りへの
道を、制限はあったものの、在家の人々にまで拡大することに貢献した。
そして、なにより重要なことは、高い普遍性をもち、広い地域に伝えられたということ。
江戸時代の富永仲基や明治時代の村上専精が「大乗非仏説」を唱え、テーラワーダ仏教や一部
の欧米の学者が大乗仏教を捏造と主張しているが、著者によれば、
「ブッダを開祖とする仏教がたどらざるをえなかったプロセスと考えたほうが、的を射ていま
す。必然の道だったというわけです」
としている。
「ブッダに帰れ!」も不可能であり、悟りを開いたばかりのブッダが説法の対象とみなしていた
のは「話せば、わかる人」だけだった。しかもその数はきわめて少なかったという。
その大乗仏典だが、初期大乗仏典は、ブッダにはじまるインド仏教の流れだけではなく、古代
イランのゾロアスター教や、もっと西のほうで盛んに信仰されていたミトラ教の影響を指摘し
てる。
そして、もっとも重要な要素は、「人格をもつ神に対する信仰」が生まれたことであり、それ
まではブッダ=釈迦如来に限定されていた崇拝の対象が、阿弥陀如来や薬師如来、毘盧遮那如
来や大日如来、というように数多くなった。
さらに、大乗仏教が崇拝対象としてきた仏菩薩が、セム型一神教・ヘブライズムの神と、ある面
では共通する性格をもつことも指摘し、『法華経』が説く久遠実成の本仏としての釈迦如来
は、「久遠実成」というくらいで、永遠の生命の持ち主。浄土経典が説く阿弥陀如来も、永遠
の生命の持ち主とされている。『華厳経』が説く毘盧遮那如来、『大日経』や『金剛頂経』が
説く大日如来は、永遠の生命の持ち主どころか、宇宙の統括者もしくは宇宙そのものにほかな
らないと。
さらに、グレゴリー・ショペンが提唱した学説、四世紀ころまで、大乗仏典はあったけれども、
大乗教団は存在していなかった、ということにも著者は触れている。
日本では「葬式仏教」とネガティブな意味で使われ、「葬式仏教」は日本の特有の現象であ
り、本来の仏教とは関係ない、という指摘があるが、「葬式仏教」の起源はブッダにあり、ブ
ッダは死にのぞんで、自分の遺体を火葬にし、得られた遺骨(舎利)を、道が十字に交わるとこ
ろに塔を建てて、そのなかにまつれと遺言していた、ということも指摘している。
ヒンドゥー教などからも「死者をあがめる不気味な宗教」と非難されていたこともにも言及
し、仏教と葬式は、切っても切れない関係にある。
その後、仏教と科学の関係性を論じて第1章が終わるのだが、著者が講座で宗教について語る
とき、「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」という言葉をよく使うという。
日本では親鸞の『顕浄土真実教行証文類』、略して『教行信証』を指している場合が多いが、
もともとは「教え」と「修行」と「信仰」と「悟り」を意味していた。
正しい教えに従って、正しい修行を実践し、正しい信仰をたもちつづけていれば、悟りが得ら
れるという意味で、この言葉の並び順くらい、宗教の本質をあらわにする例はほかにないとし
ている。
なぜ、「証」が「悟り」を意味することになるのかというと、「悟り」とは究極の智恵によっ
て証明された結果にほかならないという理屈で、「証」には「証明」という意味が含まれてい
る。そして、重要なのは、教→行→信→証という順番で、なかでも信→証という順番がとても
重要。なぜなら、科学的な思考の順番とは逆になっているからだとしている。
宗教では、信じるからこそ、証明がある。
科学では、証明されたら信じましょう、としているが、それは科学にとどまらず、日常生活の
ほとんどの分野にもこの発想が支配している。
現代人が宗教に対して、胡散臭いと感じる原因もこのあたりにあると指摘している。
科学は万能ではなく、科学にもできることとできないことがあり、まっとな科学者はそう認識
している。そして、その「できない」ことのかなり大きな部分をになうのが宗教であり、
仏教がほかの宗教にも増して高い可能性と、その可能性にともなう責任がある、
と著者は考えている。
その他にも、オウム真理教に言及し、宗教と科学のみだらな癒着の危険性についても指摘して
いる。
以上が第1章の個人的に目に留まった箇所をピックアップした。それ以降の章では、
第2章で、仏教と社会とのかかわりを、経済活動という視点から考察、
第3章では、日本仏教を霊魂観や自然観の視点から論じ、明治維新以降の近代化と仏教との関
係、
第4章では、悟りとは何か。さらに、悟りは後継者たちにどのように伝えられてきたかを、
第5章では、日本仏教にとってもっとも大切な『法華経』『無量寿経』『般若心経』の三つの
経典、最新の研究成果を踏まえて論じ、
第6章では、日本仏教をより深く広く知るためのブックガイド、
となっている。
日本ではしきりに仏教衰退が叫ばれているが、著者は第3章で、「二一世紀型宗教の六条件」
を提案している。
①参加型の宗教 ②実践型の宗教 ③心と体の両方にかかわる宗教
④自然と深くかかわる宗教 ⑤総合的・包括的な宗教 ⑥女性の感性や視点を重視できる宗教
この六条件を満たす宗教は、未来にも活動していけるが、満たさない宗教は、遠くない将来、
賞味期限切れとなる。ということを指摘している。
著者は最後に、
「日本では専門研究と一般読者のあいだをつなぐ媒体がいたって未熟です。
仏教学もその例に漏れません。というより、最悪の事例かもしれません。
そして、このことが現代仏教の停滞もしくは衰退とまったく無縁ではないとわたしは考えてい
ます」
と述べているが、本書はその重要な役割をになっていると思うし、「入門」と銘打っている
が、このブログで紹介しきれないぐらいに、盛りだくさんな構成になっており、仏教に興味を
持ちはじめた方は勿論のこと、仏教に精通している方でも、一度自分の頭を整理するのにも最
適だと感じる。
ちなみに、上の動画でも本書とほぼ同じ主旨で複雑な仏教をわかりやすく整理し論じられて
いる。
正木氏は、専門研究と一般読者のあいだをつなげられる稀有な存在でもある。
われわれの文化の或る部分はそれが同時にそのままわれわれの生きられた宗教の或る部分で
あるということになるのです。