戦争を事とせざるを得ない戦国大名は、戦争の度に神仏に祈り、家臣らも家中一体となって神
仏に勝利を祈願した。
本願寺門徒たちは本山の命により、死後の救済を願って戦場に向かった。
そして多くの人々が、先祖や家族の死者の救済を願って、その供養に心を向けていた。
『戦国と宗教』神田 千里
本書は戦国時代の様相を、宗教や信仰からみている。
しかし、それぞれの宗派に注目するのではなく、「天道」の観念に注目している。
「そもそも戦争という行為自体が、この時代には多分に呪術を含むものであった。
戦場に臨む者は神仏の加護を祈った守りを携行した。
戦場に携行する軍旗にも宗教的な言説を記したものが用いられ、その軍旗を仕立てる際にも宗
教的な儀礼が必要であった。
何よりも戦場での軍略を担当する軍配者と呼ばれる戦さの参謀たちは、占筮術に長けた占い師
であることが必要とされたのである」(本書)
どの国の戦国大名も、他国の大名や武士、国内の敵対者との戦いに際して神仏に戦勝祈願を行
っていた。
当時の人びとは、戦の勝敗が人員や装備、戦略の巧拙などの軍事力のみで決まるのではなく、
人間の力を超えた摂理によると考えていた。
武田信玄と上杉謙信との間で川中島合戦は五回戦われているが、第一回の戦闘が終わった時
に、武田信玄は京都清水寺の成就院に、信濃出陣の折に信玄のために祈禱し、その巻数(かん
ず/読誦した経典の巻数を記し祈禱したことを示す文書)や観音像などを贈ったことへの感謝状
を送り、「天文一三年以来の祈禱がようやく成就しようとしているが、信濃一二郡のうち、一
郡の経略がまだあるので、これが終わった後、感謝の品を進納」することを約束している。
さらには、上杉氏との戦いに勝ったことを「ひとえに仏の力」の賜物と感謝して黄金一〇両を
奉納し、武運長久の祈りを依頼している。
第二回の合戦の時にも、武田信玄は、戦闘中に諏訪社の神官守矢頼真に祈禱を行い守りを送っ
てくれたことに感謝し、武運長久を祈ってくれるよう頼んでもいる。
一方の上杉謙信もまた、清浄心院という寺院に、戦勝のための祈禱に対する感謝状を送ってい
る。
第三回の合戦の時には、出陣前に上杉謙信は、八幡社の宝前に願文を捧げ、武田信玄が信濃国
で行った悪事の数々を並べ立て、出陣がいかに正当であるかを述べている。
信玄のような者がいかに神仏を崇拝したとしても、国を奪い、諸家、万民を悩ませた者の願い
を神仏が叶えるはずがないと断言し、勝利の暁には土地を寄付することを約束している。
信玄もまた、勝利のために神官や巫女に至るまで、一心に祈禱するよう守矢頼真に促してい
る。
四回目は、両者が直接刃を交わしたといわれている有名な合戦であるが、この時の武田方は、
家臣の小山田信有が武運長久を願って神馬の奉納を約束し、戦闘後には、信玄が成就院に祈禱
のおかげで越後軍から大勝利を得たことを感謝し、土地の寄付を約束している。
武田軍を牽制すべく上杉謙信が川中島に出陣した五回目の時には、上杉謙信は出陣中に、願文
を記して信玄の悪行を挙げ、戦闘が勝利に終わった暁には寺社、神領を以前のとおり復興する
ことを誓っている。
一方の信玄も諏訪上社の大祝(おおはふり)諏訪頼忠に神前で武運長久の祈りを依頼している。
信玄には、自身の祈念が聞き届けられるようにと、鬮(くじ)を引き、その結果に大変こだわっ
た事例もあるという。
上の謙信の願文で注目されるのは、謙信が剃髪・出家し、護摩・灌頂などの法事をとり行ったこ
とを神仏への寄与と考え、戦勝に結びつくとみている点である、と著者は指摘する。
元亀元年(一五七〇)には、越中一国を掌握できるよう捧げた願文がある。そこには、
阿弥陀如来に対し真言を三百返唱え、念仏を千三百返唱えたうえ仁王経一巻を読誦したこと、
次に千手観音に対して真言を千二百返唱え、仁王経二巻を読誦したこと、さらに摩利支天に真
言千二百返唱え、摩利支天経一巻を唱えたこと、以下日天(太陽を神格化したもの)、弁財天、
愛宕勝軍地蔵、十一面観音、不動明王、愛染明王等に対し、真言七百返唱え、仁王経二巻を読
誦したと記し、「来年二月、三月中の越中出馬の留守中に越後・関東が無事であり、越中を掌握
できたならば、来年一年間、毎日看経(読経)すること」を約束しているという。
合理主義者で神仏を軽視していた、などといわれている織田信長も、大覚寺、松尾社神宮、仁
和寺、伊勢御師福嶋家、摠見寺、醍醐寺に対して巻数の礼状を書いていることが確認されてい
る。
さらには、戦場にあっては法華宗の題目を掲げて身の守りとしていたことなども指摘し、
フロイスの述べている信長像は実態から大きくかけ離れていると考えざる得ない、戦場におけ
る神仏の加護を祈る点では、他の戦国大名に比して人後に落ちなかったことは確かである、
としている。ちなみに著者には『織田信長』という著作もある。
「合理主義者として宣伝される織田信長も、鬮を気にする武田信玄、法要の威力を信じる上杉
謙信、念仏、月、厳島明神すべて信仰する毛利元就らと基本的には変わらない戦国大名だった
とみて差し支えないだろう」(本書)
その他の章では、「一向一揆と「民衆」」「キリスト教との出逢い」「キリシタン大名の誕
生」などが論じられているが、キリスト教が日本で急速に受け入れられた理由は、宣教師の報
告書から窺えるように、当時の日本人が、キリスト教を仏教に酷似したものとみていたこと
と、イエズス会の目にも仏教がキリスト教と酷似して映っていた面があった。
「イエズス会の説くキリスト教が日本人には仏教と酷似したものとみえ、宣教師の目にも日本
人僧侶の説くことが、キリスト教と紛らわしいものにみえたとすれば、キリスト教が急速に受
け入れられた原因は、むしろここにあるのではないだろうか」(本書)
宣教師らは日本人にデウスを説明する時に、「天道」の語を用い、日本人のキリシタンもキリ
スト教の神を「天道」と表現していたという。
「天道」の観念は中国から流入した儒教により浸透したとされているが、イエズス会が布教の
ために日本語を理解すべく蓄積した『日葡辞書』(一六〇三刊)には、「天道」という見出しが
あり、次のように記しされているという。
天道 Tentõ:天の道、または(天の)秩序と摂理。以前は、この語で我々はデウスを呼ぶのが普通
であった。
けれども(その時にも)異教徒は(上記の)第一の意味以上に思い至っていたとは思われない。
この天道の観念は、当時の戦国大名はじめ、日本人には極めて一般的な観念であったという。
日本人がキリスト教の神を理解し、共感することはそれほど困難ではなかったことが予想され
る、とも著者は指摘する。
そして、その「天道」についてを、北条早雲が著したとされている『早雲寺殿廿一箇条』を例
にとり、四点を注目している。
第一に、天道に見放される、とあるように、人間の運命をうむをいわさず決定する摂理とする
点。
第二に、仏意・冥慮に適う、神明の加護がある、など神仏と等値する点。
第三に、目上を敬い、目下を慈しめ、正直であれ、など世俗道徳の実践を促す点。
第四に、祈禱など外面の行為よりも内面の倫理こそが天道に通じるとする点。
この四点は天道の観念とともに表明されることが多く、その特徴は、神仏と同等とみる点で、
戦国大名らの信仰に共通し、内面倫理を強調する点では唯一神と個人の内面との関係を重視す
るキリスト教に似ている。
当時の日本人の信仰の個々の神仏それぞれを信じると同時に、神仏全体を包括する天道への帰
依するものであったとしている。
「戦国びとの信仰においては、日本の神々に由来する神祇信仰、外来の仏教に由来する仏への
信仰との区別は問題とはならなかった。
神と仏とは一体のものと考えられ、神祇信仰と仏教信仰は融合していたし、同じ仏教の間で
も、例えば比叡山延暦寺(天台宗)と真宗本願寺とは共存し、外来のキリスト教も仏教に類する
ものとして、受容された」(本書)
もともと日本人には平安時代くらいから神仏は一体であるとの観念は強かったとされている。
有名な本地垂迹説にもとづき日本の個々の神は、じつはその本地である仏の化身であり、
仏が日本の地に日本人にわかりやすく姿を顕したもの、垂迹である、と考えられていた。
皇室の祖先神とされる天照大神や、軍神として武士たちに信仰された八幡神(八幡大菩薩)を始
めとして多くの神があり、仏にも宣教師が真先に気がついた釈迦如来、阿弥陀如来を始めとし
て多くの仏がある。
天道の観念は古くは『日本書紀』にみられ、「天よりの徴は、政治の筋道が天道に適う時には
現れる」とあり、平安時代の『今昔物語』にも登場するという。
「天」という言葉は中国に由来するものとされているが、少なくとも鎌倉時代には日本人の自
家薬籠中のものとなっていた、と指摘する。
中世の日本人は、自らの信仰は個々の内面の問題で、他者へ表明するものではないとも考えて
いたみたいで、外面の行動では天道の正義や世俗の道徳、特に仁(慈悲)・義(正義)・礼(規範)・智
(知恵)・信(信義)の、五常と呼ばれる儒教道徳を守り、内面では深く神仏に帰依する、との行動
規範であった。
「それぞれ教義も行動様式も違ってみえる諸宗派は、じつは同一の思想的枠組みの中に収まる
共存可能な教団であり、それは「天道」思想を共通の枠組みとしていたということである」
(『宗教で読む戦国時代』神田千里)
なぜ信仰は他者に向けて表明されず内面に限定されるのか、について著者は、当時の日本人に
は、天道すなわち神仏の摂理は人間の理解を超えたものとする観念があったのではないか、
と推測されている。
「この観念が、自らの信仰を他者に強要すべきではないとする考え方の背景であり、
例えばヨーロッパのキリスト教における異端狩りのような発想が、江戸幕府によるキリスト教
と日蓮宗不受不施派(法華宗僧は他宗の信者から供養をうけてはならず、法華宗信者は他宗の僧
を供養してはならない、とする日蓮以来の信条を遵守した結果、江戸幕府より禁止された日蓮
宗の一派)の組織的禁圧が行われる以前の日本では発達しなかった要因ではないか。
天道は厳然として存在するもの、人間には知悉しえない以上その摂理の代行はできないからで
あり、だからこそ信仰の排除は非とされなければならないのである。
そう考えると、江戸幕府が排除した宗派が、いずれも他の宗旨の否定・断罪を旨としていたこと
は象徴的ですらある」(本書)
秀吉の伴天連追放令の背景には、諸宗派の共存という原則があり、他者の信仰への批判・攻撃は
禁止すべきものであった。
秀吉はキリスト教自体を否定していたわけではなさそうで、キリスト教も一つの信仰として容
認される反面、イエズス会による神仏への攻撃は拒絶された。
本書は『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ/2010年)をコンパクトにまとめたダイジェ
スト版といったところ。
今回取り上げなかった箇所も多々あるが、戦国時代の宗教をもっと深くまで知りたいのであれ
ば、講談社選書メチエの『宗教で読む戦国時代』がおススメ。
ちなみに、『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ/2010年)は、宗教学者の正木晃氏も
『あなたの知らない「仏教」入門』の中で、この時代の宗教を理解する上でのおススメの一冊
として挙げている。
しかし、本書は新書ではあるが、深さもそれなりにあり、よくまとまっている。
時間が無い方はこちらの方がおススメ。
個人的には著者の大ファンである。