ヒトラーのモデルはアメリカだった



もちろん合衆国はかつても今も多くの偉大な法制度の開拓者であることもまた真実である。

もちろんアメリカにはナチスが軽蔑するような多くの進歩的な民主主義の伝統がある。

もちろんアメリカはナチズムの、少なくとも一部の被害者にとって寛大な避難所となった。

それでも、こと人種法に関して言えば、多くのナチスの法律家たちがアメリカをいちばんの手

本とみなしていた。

『ヒトラーのモデルはアメリカだった』ジェイムズ・Q・ウィットマン

著者のウィットマンは、専門は比較法、刑法、法制史、シカゴ大学で精神史のPh.D.を取得。

スタンフォード大学ロー・スクールで教鞭を取り、1994年からイェール・ロー・スクール教授。

ちなみに、本書を執筆すべく研究をはじめたのはプリンストン大学にいたときだとしている。

ジェイムズ・Q・ウィットマン

「本書の目的は、ナチスがニュルンベルク法を考案するさいにアメリカの人種法に着想を求め

たという、これまで見落とされていた歴史を紐とくことだ。それにより、この歴史がナチス・ド

イツについて、人種主義の近代史について、そしてとりわけこのアメリカという国について私

たちに何を語るのか、それを問いかけることにある」(本書)

一九三五年に成立したニュルンベルク法は、三つの法律から成っている。

第一は、ドイツ国国旗法であり鉤十字をドイツ国家の唯一の国章にするというもの、

第二は、ユダヤ人を二級市民の立場に貶める「公民法」、

第三は、ユダヤ人とアーリア人との結婚および性的関係を犯罪と定めた「血の法」。

第二と第三の法律が悪名高く「反ユダヤ法、非「アーリア人」から市民権と異人種婚の権利を

剥奪」としていた。

アドルフ・ヒトラーが帝国首相の座についてから一年と半年がたった一九三四年六月五日に、

ナチス・ドイツにおける第一級の法律家たちが集まって、とある重要な会議がひらかれていた。

それは、ナチスの人種主義体制化における悪名高き反ユダヤ法である、ニュルンベルク法と呼

ばれるものの計画を練ることだった。

その内容は、同席した速記者が一語一句違わぬよう口述筆記し、記録として保管されることに

なった。著者が研究者としてスタートさせたのは、この記録を契機としている。

この会議では、アメリカ合衆国の法律をめぐって微細にわたり長々と議論が交わされており、

冒頭でギュルトナー法相が、司法省の役人たちが入念に準備したアメリカの人種法に関する報

告書を提示した。

さらにその後、出席者たちは、議論の過程でこのアメリカ版の人種差別的な法律に何度も繰り

返し言及しており、なかでもひときわ熱く語っていたのは、過激なナチ党員だったという。

この会議の記録以外にも、ナチスがアメリカの人種法に強い関心をもっていた記録があり、

ヒトラー自身も『わが闘争』のなかで、アメリカこそが人種秩序の確立に向けて前進している

「唯一の国家」だと褒めそやし、一九二八年の演説では「数百万人ものインディアンを銃で撃

ち殺して数十万人まで減らし、現在はわずかな生き残りを囲いに入れて監視している」

とアメリカのやり方を賛美している。

一九二〇年代後半から一九三〇年代前半にかけて、多くのナチ党員やヒトラーが、アメリカの

人種差別的な立法に強い関心をもっていた。

さらに一九四〇年の前半に大量虐殺がおこなわれている間、ナチスの指導者たちは自らの野蛮

な東方征服について語る際に、アメリカの西部征服を再三引き合いに出してもいた。

「・・・ナチスが権力の座にのぼっていく時期に、アメリカ、とりわけジム・クロウ[人種隔離]法

下の南部が人種主義の郷土(ホーム)であったこともまた周知の事実だ。

一九三〇年代のナチス・ドイツと合衆国南部は、南部の二人の歴史家の言葉を借りると、いわば

「鏡像(ミラー・イメージ)」のように見えた。

どちらも容赦のなさでは比べるもののない、実に堂々たる人種主義体制だった。

一九三〇年代前半に、ドイツのユダヤ人たちは群衆に、さらには国家によって追い立てられ、

殴打され、ときに殺害された。

そして同じ頃、合衆国南部の黒人たちもまた同様に追い立てられ、殴打され、ときに殺害され

たのだ」(本書)

ジム・クロウ法というのは、アメリカ南部で施行され、一九五〇年代前半から六〇年代中頃まで

のアメリカの公民権運動の時代に争点となった人種隔離政策(教育・公共輸送機関・住居その他に

おける隔離)。

一九世紀後半から存在していたものだが、隔離の拡大を許容したのは南部貴族階級出身であ

り、KKK(クー・クラックス・クラン)すらも信奉していたウッドロー・ウィルソン大統領。(本書

で言及されていないが)

ウィルソンにとって、黒人隔離政策は、黒人の利益になりこそすれ、けっして黒人を侮辱する

ものではなかったという。

しかし、「國民の創生(The Birth of a Nation)」という映画がホワイトハウスで先行上映され

た時、その映画の中で、黒人が暴力的な類人猿のように描写されていた場面に、「実態は映画

のとおりだ」とウィルソン述べているが。

ちなみに、第一時世界大戦終結のベルサイユ会議で、日本が主張した人種差別廃止宣言に強硬

に反対して流産させたのもウィルソンだった。

ただ、ナチスはこのアメリカ南部式の隔離政策については、さほど重要視はしていなかった、

と著者は指摘する。

それは、ニュルンベルク法に隔離についてまったく触れていないからだとしている。

ナチスは人種の汚染を防ぐために、「あらゆる国家には、その国民を純粋で混じり気のないも

のにしておく権利がある」との主張に固執しており、南部の法律ではなく、移民と帰化に関す

るアメリカの法律(一九二四年の移民法として結実したものなど)、アメリカへの入国を「出身

国」の人種表によって制限するものや、黒人、フィリピン人、中国人などを対象にした二級市

民というかたちをつくった法律、異人種間の結婚反対する法律(三〇の州でそれぞれ異なる体制

を擁していた)に興味を示し、それらすべてをナチスの法律家は入念に調査し、分類し、議論し

ていた、と著者は指摘する。

「移民、二級市民、そして異人種間結婚に関して言えば、一九三〇年代前半のアメリカは、

高度に発達した、しかも厳格な人種法をもつ国のまさしく「典型例」であり、ナチスの法律家

たちはニュルンベルク法の起草段階において、またその後も引き続きその解釈や適用におい

て、アメリカのモデルや先例を繰り返し参照した」(本書)

『わが闘争』の中でヒトラーは、アメリカの人種にもとづく移民法を称賛し、ナチスの法律家

たちも饒舌に褒めそやしているが、これまでアメリカの法学者には無視されてきたという。

移民法に至ったのは、当時跋扈していた優生学の影響もあり、アメリカはこの点でも世界をリ

ードする存在だった。

アメリカの考え方は、他の英語圏の諸国、イギリス、オーストラリア、カナダ、ニュージラン

ドにおいても浸透し、移民を遺伝的な適合性のふるいにかけはじめた。(優生学についてはジョ

セフ・M. ヘニングの『アメリカ文化の日本経験―人権・宗教・文明と形成期米日関係』でも触

れた)

「イギリス帝国主義は世界をまたにかけて「自由な白人男性による民主主義」のネットワーク

を築き、一八九〇年にコロンビア大学教授のJ・W・バージェスが「民族的に単一」の諸国家だと

讃えて反響を呼んだものを維持する積極的な共通姿勢を披露した。

そこにふくまれるのはカナダとニュージランド、それから一八四〇年代後半に始まったカリフ

ォルニアでの類似の運動と連関する中国排斥運動の拠点オーストラリア、そして言わずもがな

南アフリカだ。一九三六年にイギリスのある人口統計学者は、この英語圏の世界をこう表現し

た。「非ヨーロッパ人を排除する目的で合衆国とイギリス連邦自治領が過去五〇年かけて築い

てきた囲いには、ほとんど隙間がない」」(本書)

この英語圏の手法をナチスは熟知していたし、一九世紀後半以降にアメリカは、「国籍や移民

に関して露骨な人種主義政策を立てるうえでの指導者(リーダー)」とみなされるようになり、

移民と帰化に関するアメリカの手法はナチスが台頭するかなり前からすでにヨーロッパで注目

を浴びていた、と著者は指摘する。

一九二四年にアメリカで排日法が成立した時に、渋沢栄一が次のように語っていたのを思い出

す。

「米国は正義の国、人道を重んずる国と年来信じていた。

カリフォルニアで排日運動が起こった時も、それは誤解に基づくものと思ったが、自分なりに

日米親善に尽力したつもりである。

ところが、米人は絶対排日法を作った。これを見て私は何もかも嫌になった。今まで日米親善

に尽力したのは、何だったのか。「神も仏もないのか」という気分になってしまった。

こんなことなら、若い頃の攘夷論者だった自分のままでいた方が良かったくらいだ」

一九〇六年、カリフォルニアでの日本人児童の通学拒否事件に始まり、さらに州議会による移

民制限法・日本人土地所有禁止令の可決へと激化し、全米に広がり、渋沢栄一が嫌になった排日

法により日本人移民は完全に停止された。

このような時代状況のなか、アメリカの優生学はナチス・ドイツにも強い影響を与え、アメリカ

の優生学者の研究が広く引用されてもいた。

「とにもかくにも合衆国は、異人種混交禁止法という独自のモデルを提供した。

「優等」人種と「劣等」人種間の結婚は避けるべきだとの考え方は、二〇世紀初めの優生学の

最盛期に世界に広まった」(本書)

その異人種混交禁止について、メリーランド州法では次のように説明されていた。

白人とニグロとのあいだ、もしくは白人と三世代までさかのぼりニグロの血を有する者とのあ

いだ、もしくは白人とマレー人種に属する者とのあいだ、もしくはニグロとマレー人種に属す

る者とのあいだ、もしくは三世代までさかのぼりニグロの血を有する者とマレー人種に属する

者とのあいだの結婚は永遠に禁止されており、よって無効とされる。

さらにこの条項に違反した者は破廉恥罪を犯したものとされ、一八カ月以上一〇年以下の禁固

刑に処する。

他にもアメリカの三〇の州が異人種間の結婚を無効と宣言し、厳罰をふくめた処罰を科すとし

ていた。

徹底した人種主義国家のオーストラリアですらこのようなものは無かった。

ただ、南アフリカには同じようなものはあったが、ここまで重いものは無かった。

さらにアメリカには、古くから主人と奴隷との性的関係が存在し、「途方もない数の混血児」

の問題に悩まされていた。

そのため雑種化にまつわる大量の法律をこしらえ、分類し規定していたという。

しかも「オープン」なものだった。

しかし、アメリカの法律をくまなく調べていたナチスの法律家は、この法律に関しては厳しす

ぎると考え参考にしなかったと著者は指摘する。

「つまり雑種化の法律にかぎっていえば、ナチスはアメリカの法律をそのままとりいれる気に

はなれなかった。(中略)

これは辛辣なパラドックスだが、ナチスの法律家はたとえ急進的な輩ですら、雑種化にまつわ

るアメリカの法律は第三帝国が受けいれるにはあまりに厳しすぎると考えたのだ。

ナチスの目から見れば、この点についてはアメリカの人種法はやりすぎで、ドイツにはとても

ついていけなかった」(本書)

アメリカの異人種混交禁止法の歴史は古く、一六九一年のヴァージニアの法令までさかのぼる

という。

それらの人種法に加え、ナチス・ドイツはアメリカの拡張主義(地政学的モデル)も参考にしてい

たのではないか、として次のように指摘している。

「この「アングロ・サクソン系」のアメリカ合衆国こそが、大陸に堂々たる帝国を築き、

そのため東方征服を決意した第三帝国から拡張主義のモデルとして注目された。

この「アングロ・サクソン系」の合衆国こそが、北半球における覇権国としての自身の立場を正

当化する国際法の理念を発明し、それはモンロー主義、そしてそれを拡大解釈した一九〇四年

のルーズヴェルト系論[合衆国によるカリブ海域への積極的介入の正当性を主張]

というかたちをとった」(本書)

ただ、著者は強調して指摘しているが、アメリカがナチス・ドイツの「唯一の模範」だと決めつ

けるのは行き過ぎであり、アメリカに対するナチスの態度にはかなりの二面性があり、ナチス

の計画には自国内に多くの起源があった、としている。冒頭で引用した通りのこと。

しかし、アメリカにはナチスが参考にしたがるようなコンディションが整っていたのも事実。

下田淳氏の『ヨーロッパ文明の正体』の中で、

「単に合理主義、効率主義というだけでなく、整理整頓への欲求はいたるところまへ波及して

いった。能動的棲み分けを極限まで推し進めたのがヨーロッパ文明である」、

「ユダヤ人を直接抹殺したのはナチズムであるが、根本的原因はヨーロッパ文明の「均一化の

思考法」にある」、

「近代ヨーロッパのおこなった人間の棲み分けは、それが「科学的・生物学的根拠」という装い

でもって導かれたことに特徴があった」、

「ゲットー建設はナチスが初めてではない。ユダヤ人を空間的に隔離するゲットーが最初につ

くられたのは、1516年のヴェネツィアである」

と言及されていたが、改めて合点した。



昭和天皇が日米戦争の遠因を述べられていたのを思い出す。

「この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦後の平和条約に伏在している。

日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し、

加州(カリフォルニア)移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。

かかる国民的憤慨を背景にして一度、軍が立ち上がった時には、之を抑えることは容易な業で

はない」