『流出した日本美術の至宝』 中野明



日本美術が海を越えて欧米などに渡った時期は大きく三つあるとしている。

①オランダ人が蒔絵漆器や磁器を欧州に多数もたらした一七世紀半ばから一九世紀半ば

②日本が開国した一九世紀半ばから第二次世界大戦終了まで

③終戦から現在に至るまで

本書は主に、②を中心に論述を進め、③も少し語られている。

日本美術が最も大量に海外に流出した時期は、明治維新以降で、その背景には、

経済環境の激変により大名やその家臣が古美術や道具類を処分したこと。

政府による神仏分離政策も古美術品に大きな影響を及ぼしたこと。

さらに著者が面白く指摘しているのが、

新政府の要職に就いた薩長土肥の武士が有する文化的程度が決して高くなかったことも古美術

品にとって不幸だった。いわゆる田舎侍の彼らは、たとえ趣味人の者でも文人画以外にはとん

と無関心だった、としていること。

「どのような人物がどのような経緯から日本美術に惚れ込み、どのような作品を日本から海外

へ持ち出したのか。また、国宝級の名作が海外へ流出することに日本人はどう対応したのか。

本書はその一端にふれるものである」(本書)

本書では九人の外国人を大きく取り上げている。

「ブラキオポッド=腕足類」の採取を目的として来日し、大森貝塚を発見、

『日本その日その日』の著作も残しているエドワード・モースは陶器を。

そのモースから東京大学の哲学教師の招聘を依頼され(後に美術行政官に転身)、

日本にやってきたアーネスト・フェノロサは、主に絵画などを。

モースに導かれ来日し、大の親日家となったウィリアム・スタージス・ビゲローは、刀剣、漆器

などを中心とした四万点を超える日本美術を蒐集した。

この三人のコレクションが、ボストン美術館の日本美術コレクションの基礎となっているとい

う。

左 エドワード・モース 中 アーネスト・フェノロサ 右 ウィリアム・スタージス・ビゲロー


モースは柳宗悦を先取りするような蒐集をしているが、陶器に対する鑑識眼が高まった要因の

ひとつに、京都・東寺の下級職員の家に生まれ、陶器の大蒐集家だった蜷川式胤(にながわ・のり

たね)との出会いが大きかったとしている。

蜷川は『歓古図説』という大著を残しており、モースはそれに掲載されているものを集めてい

たみたいだ。ちなみに蜷川の『歓古図説』は、もともと海外向けに書かれたもので、イギリス

やフランスのコレクターなどにも影響を与えていたみたいだ。

(放送大学の『日本美術の近代とその外部』の講義のなかで、国際日本文化研究センター副所

長・教授の稲賀繁美氏が説明されていた)

フェノロサといえば、岡倉天心らとともに行った法隆寺夢殿の調査が有名だが、

文献研究や絵師(狩野永悳、土佐派の住吉広賢)へ師事、名作の鑑賞、名作の蒐集、ノート整理

などで日本美術の鑑識眼を高めている。

フェノロサが持ち出した作品のなかで、国内にあれば国宝間違いなしと評価されるものに

「平治物語絵巻」(鎌倉時代)の第三巻「三条殿夜討巻」がある。

商人に「自分が買ったことを誰にも口外してはならない」として、倍の値を支払ったという。

ビゲローが蒐集した数には驚かされるが、そのなかでも白眉なものとされているのが

「釈迦霊鷲山説法図(法華堂根本曼荼羅図)」。

八世紀の作であることは間違いないとされているが、船来品か天平時代の渡来人の画人による

作かはいまも判然としていないというもの。

この画は明治政府も関わっていた半官半民の会社、起立工商会社から購入している。

その他にも、西智作「聖観音菩薩坐像」(一二六九年)、長谷川等伯作「竜虎図屏風」(一六〇六

年)、曾我蕭白作「雲竜図」(一七六三年)などがある。

フェノロサとビゲロー(遺骨の半分)の墓は、法明院の横の墓地にある。

二人はともに法明院の大僧正敬徳阿闍梨に仏教の教えを請い、阿闍梨から菩薩戒を受け、

フェノロサは「諦信」、ビゲローは「月心」の法号を授かっている。

チャールズ・ラング・フリーア


鉄道車両製造事業で莫大な富を築き「鉄道王」とも呼ばれていた、

アメリカ人の実業家チャールズ・フリーア。

フリーアも日本美術愛好家で何度か来日し、ワシントンのフリーア美術館を国に贈与したこと

でも有名で、日本では無関心だった琳派の作品を次々と海外に持ち出している。

俵屋宗達(または宗達派)作「扇面散図屏風」、俵屋宗達作「松島図屏風」(傑作のひとつ)、

宗達派作「鶏頭玉蜀黍図屏風」。


エドアルド・キヨッソーネ


大蔵省紙幣寮御雇として来日した、

イタリアのジェノヴァ近郊出身のエドアルド・キヨッソーネ。

キヨッソーネが蒐集した範囲は広範で、銅器、版画、絵画、漆器、織物、彫金、本、武器、

武具、陶磁器、七宝焼、能面、貨幣、考古学上の出土品など、総点数は一万五〇〇〇点以上に

達したという。

キヨッソーネは、得能良介(とくのう・りょうすけ)を団長とする古美術調査旅行へ参加し、

伊勢神宮、正倉院、桂離宮などを訪れ、さらには、古墳の出土品も眼にしている。

キヨッソーネのコレクションのなかには、四世紀の中国で作られたと推定されている、

古銅鏡「四乳四霊十神鑑 (画文帯仏獣鏡) 」がある。

そこでの経験が、日本美術に深く傾倒する大きな要因になるとともに鑑識眼を高めた、

と著者は指摘している。

キヨッソーネは来日してから帰国することなく日本で暮らし、東京の自宅で息を引き取った。

亡くなる直前に遺言をしたため、日本で蒐集した美術品コレクションをジェノヴァのリグーリ

ア美術学校に、エドアルド・キヨッソーネ・コレクションの名のもとに一般に展覧するという条

件で寄贈する、というもの。

その後、リグーリア美術学校の三階で公開され、キヨッソーネ美術館の開館式にはイタリア国

王と王妃が参列し、一九七一年にはキヨッソーネ東洋美術館と名を改めている。

左 フリーダ 右 アドルフ


ドイツのケルンにケルン東洋美術館を作ったアドルフとフリーダのフィッシャー夫妻。

夫妻は何度も来日しており、それは十年以上に及んでいる。新婚旅行でも日本を訪れている。

初めは浮世絵などを蒐集していたが、仏像にも向かい、鑑識眼を高めるために美術品を相互に

比較対照して時代や様式を見る眼を養った。

仏閣が所有する古仏や古画を拝観するために、紹介状を持参して寺院をめぐり、人を雇って情

報を収集し、ネットワークを張り巡らせてもいる。

一〇世紀の「菩薩立像」、一一世紀の「地蔵菩薩立像」、一二世紀の「阿弥陀如来坐像」、

「叡尊坐像」、「僧形坐像」、海外にある仏像では珍しい鉄製の「如来坐像」、

「不動明王三童子像図」(仏画)、「仏涅槃図」、「出山釈迦図」(水墨画)などを蒐集している。

ケルン東洋美術館は一九一三年に開館するが、半年後に夫のアドルフが亡くなる。

フリーダはユダヤ人と再婚するが、ナチスが権力を獲得すると、再婚相手がユダヤ人だったの

で、美術館の館長職を追われてしまう。

戦後は市民権を剥奪されたまま、極貧のなか七一歳で息を引き取った。

美術館の建物も空襲で焼失するが、大切なコレクションは南ドイツの塩鉱山に移していたの

で、戦火を免れた。(五分の一は焼失しているが)

美術館焼失から三三年が経った七七年に建築家の前川国男が設計し、現在のケルン東洋美術館

が再開館する。

フランク・ロイド・ライト


建築家のフランク・ロイド・ライトは浮世絵ディーラーだった。

ライトは帝国ホテル建設のために来日する前から、日本を訪問し浮世絵を蒐集している。

広重の「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」、「名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社継は

し」などは、メトロポリタン美術館へ売却している。(他にも四〇〇枚近く)

その他にも、稀少性の高い摺物(すりもの)もコレクションにしていて、(摺物とは私的に制作し

た非売品の版画)浮世絵を摺る際に用いた版木も持ち出していたのには驚く。

アンリ・ヴェヴェール


宝飾デザイナーとして名をなした、フランス人のアンリ・ヴェヴェールも日本の美術工芸品や浮

世絵を熱意をもって蒐集した。

歌麿「鮑取り」、広重「阿波鳴門之風景」、北斎、春信、清長、写楽など数千点以上を蒐集し

たといわれている。

第一次世界大戦が勃発した影響などもあり、「最終的にコレクションを日本に持ち帰り広く日

本で展覧してくれる日本人に譲ろう」として、川崎造船所初代社長の松方幸次郎(松方正義の三

男)に売却する。(著者は財政上の問題がったのかもしれないと指摘している)

松方も「日本国民のために浮世絵を買い戻す」という決意を持っていたみたいだ。

その浮世絵は現在、東京国立博物館に所蔵されている。

だが、ヴェヴェールは松方にすべての浮世絵を手放した訳ではなく、手放したくない作品は手

元に置き、その後も浮世絵の蒐集を継続していた。

ヴェヴェールは一九四二年に亡くなる。その死から三〇年以上経った一九七四年にロンドン

のサザビーで突如として、ヴェヴェール浮世絵コレクションのオークションが開催される。

それは死後から五五年経った、九七年までに四度も開催されたという。

以上が本書のなかで大きく取り上げられている人たち。

戦後もピーター・ドラッカーが水墨画などを蒐集しているのは有名だし、

ジョー・プライスが若冲を再発見、蒐集しているのもドキュメンタリー番組で放送されていたの

を観たことがある。

文化人類学者のレヴィ・ストロースも、浮世絵に影響を受けたと語っていたのを観たことある

し、禅に凝っていたスティーブ・ジョブスもその中に含まれるだろう。

その他にも、日本美術の流出に荷担した(良い意味で)四人の日本人を取り上げ、

それには二種類あるとしている。

一つが、骨董商や古物商も含めた美術商であり、アメリカ東海岸で活躍し、英国王室御用達で

もあった山中商会の山中定次郎、パリで林商会を設立し、欧州で起こるジャポニズムのブーム

を味方につけ、浮世絵を大量に持ち出した林忠正。

そして、もう一つが、美術館のキュレーターで、ボストン美術館のキュレーターであった岡倉

天心や富岡幸次郎。

自国の美術品が国外に持ち出されることに関して、甲乙つけがたいのが、ぼくの感想。

著者も次のように指摘している。

「日本の優れた美術品は日本および日本文化をよりよく理解してもらうための、いわばよき外

交官になるという考えがある。

その一方で日本の優れた美術品は国の宝として国内に留め置くべきだという意見もある。

この両論は久しく戦わされてきたし、いまだ軍配はどちらにも上がっていないのが現状であ

る」(本書)

ドナルド・キーンが述べていたように、国外に置かれたほうが日本の宣伝にもなるし良い、

とも思うし、国内で鑑賞したい、という思いもあるので、判定を下すのは難しい。

ただ、違法に仏像などを持ち出されるのことには、不快感が伴うし、注視したいところ。

著者は最後に、

「国の経済の弱体化は、その国の文化の衰退や貧しさを招き、

引いては国民の美術への鑑賞力や無関心につながることを肝に銘じなければならない」(本書)

と指摘しているが、明治初期の混乱した時期と、戦後の混乱していた時期に大量に流出してい

るので、以後気をつけるべきだし、その様な状況を回避するためにもデフレから早く脱却した

い。