紀州藩士、伊達千広(一八〇二~一八七七年/陸奥宗光の父)の覚え書だった『大勢三転考』。
編年体(時系列)でも紀伝体(大義名分)でもなく、政治形態の変化に基づいて歴史を区分し、
善悪の判断を加えない歴史記述の方法をとった、東アジアに於いて、珍しい歴史記述をした。
伊達千広は、徳川時代に至るまでの日本の歴史を「骨(かばね)の時代」「職(つかさ)の時代」
「名の時代」と三つに区分し、「骨の時代」は「職の時代」に移るべき要素を内包し、
「職の時代」も「名の時代」に移るべき要素を内包していた、という見方をしている。
山本七平はこれを消極的ではあるが「内的矛盾」と呼んでいる。
「ただ彼の観点は当時としてはまことに独創的であり、それなるがゆえに現代的なのである」
(本書)
本書は、その伊達千広の『大勢三転考』の見方を下敷きにし、日本文化の特性を内的矛盾を抱
えながら、神話の世界から近代までを綴っている。
第一部「骨の時代」から「職の時代」へ 第二部「職の時代」から「名の時代」へ
第三部 名の代・西欧の衝撃 第四部 伊達千広の現代
それは、なぜアジアで日本だけが明治維新に成功したのか、ということにも繋がってくるし、
「近頃英語がうまい日本人は増えたが、そういう日本人に日本について質問すると何も答えら
れないのに驚く」と、外国人に失望されないための一助となってほしい、という山本七平の願
いも込められている。
第一部「骨の時代」から「職の時代」へ
大陸文化に触発され、稲を稔らせ、鉄を熱し、文字を輸入・創造し、律令制を導入し、
神話を編集し、仏教を受容したのがこの時代。
前回は、文字の創造に触れたけれど(力不足だったかもしれないが)、今回は仏教の伝来。
古代インドのゴータマ・ブッダの時代に発して、シルクロードができあがったころから中国で
経典が漢訳され、それが朝鮮半島に入って、そこから日本に入ってきた仏教。
まず山本七平は、キリスト教と対比して説明している。
「簡単にいえばキリスト教はローマ政府とは関係なく、勝手に浸透してきたのであって、
ローマ帝国が積極的にこれを受容したわけではなく、むしろ排除しようとした。
ただこれと少々違うのがロシアというよりウクライナで、『原初年代記』を読むと、
彼らは、まず支配階級が、ビザンチン文化もろともにギリシャ正教を輸入している。
日本の中国仏教の輸入もややこれに似ており、中国文化もろともにまず支配階級が仏教を受け
容れた。
受容するか否かが支配階級内部の政争となっても、それは、民衆の宗教は関係のないことであ
った。
いわば「奴隷の宗教」として下から入って上を変えたのでなく、まず上が受容して下へと浸透
させようとしたわけである」(本書)
様々な説があるとされているが、仏教は渡来人によって六世紀の初頭に日本に入っていたとさ
れ、仏教の受け入れをめぐって、賛成派の蘇我氏と反対派の物部・中臣氏の間で争いが起きる
(最近では、仏教の導入をめぐってというより、朝廷内での権力闘争の側面が強かった、という
指摘もある)。
それが、落ち着くのが用明天皇の二年(五八七年)というのが普通の見方とされている。
そして、山本七平は、日本が受容した中国仏教の概観に少し触れている。
「いずれの国であれ外来宗教の導入は民族固有の信仰と対立して激しい論争を起こし、時には
戦争まで起こる。
仏教が中国に入ったころ、これと対立したのが民族宗教としての道教であったのは当然であろ
う。
だが仏教が中国社会で一応の地歩を築き、道教も民間信仰を集大成して宗教としての体制を整
えはじめる三世紀ごろ、両者は思想的融合に向かおうとする傾向を生じはじめた」(本書)
さらに儒教も取り込んで、性格を異にする儒釈道の三教を調和して折衷統一しようという方向
に向かう。三教合一論。
日本が受容した仏教は、儒教も道教も含まれていた、この三教合一論的な仏教。
「仏教の受容とは、実は中国の宗教文化のすべての導入であった」(本書)
さらには道教に影響され形を整えつつあったのが神道だとして、
中国的に編集された仏教とその神道が結びつく背景(本地垂迹説)を説明されているのだけれど
も、そこは説明が弱かったので別の著者でその時に。
そして仏教を、氏族間の私的信仰から国家的な統一の共有しうる宗教へと舵をきったのが聖徳
太子で、仏教国家の創建へと目指したのが聖武天皇であり、天平十三年(七四一)の国分寺創建
の詔、天平十五年(七四三)の東大寺大仏建立の詔、諸国に国分寺と国分尼寺を建立し、大仏に
よって国家万民の上に利益を与えようという一大計画を押し進める。
本章では、その後の日本人によって創出された独特の仏教にも触れているが、そこも割愛し
て、本章のまとめは以下の通り。
第一に、仏教は「鎮護国家」の宗教として正式に国家に採用されたが、やがてそれが貴族の宗
教となり、さらに武士から民衆へと浸透して行ったこと。
第二に、それは浸透とともに変質していき、日本独自の仏教となって行ったということ。
それは、漢字から「かな」を発明した方法を繰り返しているといえるのかもしれない。
松岡正剛氏はそれを、アワセ・キソイ・ソロエ・カサネとして日本の情報編集の最重要な方法
のひとつだとしているが、山本七平も、ある意味そこを問いかけているといえるのかもしれな
い。外来コードをつかって、内生モードをつくりだす方法。
今も問われ続けているその方法を。