遠くから届く声。内声の文字。文字は時代を映す鏡である。古賀弘幸の『文字と書の消息――落書きから漢字までの文化誌』がそれを伝えてくれる


文字の発明とともにメディアの前史は終わり、技術メディアの歴史が始まるのである・・・

文字の発明は人類史上唯一のメディア革命というわけではないにせよ、

どれほど評価しても評価しすぎるということはない。

あるいは一歩譲って現代風に述べると次のようになるだろう。

文字の発見は、年代史的にそして論理的に考えても、

人類史上の三大メディア革命のうち第一位に位置する。

『メディアの歴史』ヨッヘン・ヘーリッシュ

「文字は自らに対してすら距離を保つことができるほどまでに抽象度を備えたメディアであ

る」とも述べていたヘーリッシュだが、本書では文字とメディアの関係は当然のことだが、そ

の文字の場所や風景、遊戯性や身体性など対象を広げ、さらに掘り下げられている。

勿論、メインとして論じられている文字は“漢字”だ。

「文字や記号によるコミュニケーションは、技術によって支えられている。

技術は、主に人間の能力を拡張することにかかわっていて、文字そのものも技術にほかならな

いし、筆や墨、鉛などもそうしたものの一つである。

技術は歴史とともに大きく変わるし、それに依存している文字のあり方も変化する。

現代のパソコンや携帯による文字コミュニケーションは、人工的な技術への依存度がより高

く、人間との関係の歴史は筆や墨に比べるとまだ驚くほど短い」(本書)

わたしたち現代人は、何となく無意識の内に文字を使っているが、

社会空間の中で人の目にさらされる文字は、社会の状況や変化を反映する。

文字の現れ方は、社会を考えるための一つの指標ともなる。

言葉・文字(書物)は、政治権力と強い関わりを持ち、国民国家の意識、共同体意識を担う。

歴史上でも、始皇帝が小篆=単一の字形と書体を中国全土に公布したことなども、

文字のスタイル(書体)と政治の強い結びつきを示しているし、標準字形は、権力の象徴でもあ

る。

七世紀の日本でも、列島に住む雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないた

めに、倭国王家の天智天皇のもとに結集して日本国を作りあげたが、その過程において、大急

ぎで新しい国語を発明していった。

かつてはつながっていた大陸からやってきた漢字は、日本にとってハイテクノロジーでもあ

り、ピジン・チャイニーズになってもおかしくなかったが、倭人は外来の漢字を受け入れながら

も、その読みについては自分たちでプロトコルを決めていった。

もともとあった和語を漢字にあてはめて読み、日本語の従来の音も残していった。

そして、その先に独自の文字である、音訳漢字を草書体にした平仮名と、筆画の一部だけをと

った片仮名が出現した。松岡正剛や山本七平が評価している特異な“日本の方法”でもある。

嫌でも国字としての文字を意識せざるをえないような状況は、西欧列強諸国に独立を脅かされ

た近代でも同じである。

当時の知識人は漢字教育の効率の悪さが、西欧列強との国力の差となって現れたのではないか

と考えていた連中もいた。

郵便事業の創始者として知られている前島密(ひそか)は慶応二年(一八六六)に「漢字御廃止之

議(かんじおんはいしのぎ)」を徳川慶喜に建白し、明治期には漢字廃止論を含む、国語国字に

ついての発言が活発に行なわれた。

森有礼や志賀直哉の公用語を英語やフランス語にしてしまえ、という提案は有名だが、

大正時代には片仮名の左横書きを日本語の表記にしようと提案する「カナモジカイ」も出現し

ている。

さらに、興味深くて面白いのが、明治後期から昭和にかけてさかんに発表れた「新国字」の存

在。

これらの活動は、日本語の文字を主に表音化を指向した「合理的で理想の文字」を開発しよう

とし、彼らの中には平仮名、片仮名、ローマ字をそれぞれ元にして新しい文字の大系を作ろう

とするものだった。しかし、これらの中には独善的で奇矯な文字が見られたという。

日本語の近代化においては、日本語文字の全面的な表音化、あるいは標準化・簡略化が大きな課

題であり、具体的には、書き文字と印刷文字の「楷書化」、仮名字体の整理だった。

近世末期まで社会一般では「往来物(おうらいもの)」の手本を通じて御家流と呼ばれた行草書

が書かれ、一般的には印刷書体もこれに準じていた。

ところが、学制施行(明治五年)とともに、習字の手本や公文書などは「唐様」(中国風)の楷書

となり、教科書にも採用された。印刷書体の明朝体も中国風の楷書の一バージョンであった。

これが社会に広く流通する一般的な文字の「楷書化」で、またそれまで同じ音でも複数あった

仮名字体は一種に標準化され、それ以外は「変体仮名」とされたという。

これらに関しては、四民平等による階級制度の撤廃、義務教育制度の施行、開国による国際化

への対応、印刷技術との関連(画数の多い漢字は活字鋳造などに負担を強いる)といった社会状

況が深く影響していたと専門家は指摘している。

また行草体の連綿は活字では表現しにくいことも関連があった(連綿活字が開発されなかったわ

けではない)と著者は見ている。

この時期には、楷書化、漢字の簡略化や平仮名、片仮名の統一だけでなく、新しい標準文字と

して神代文字、明盲共通文字、視話文字、速記文字などの採用や改作、または先述のようにロ

ーマ字や仮名を参考にした新作文字(新国字)などの提案がさかんに行なわれていた。

政府でも明治三十五年に、漢字の全廃を想定して「文字ハ音韻文字ヲ採用スルコトトシ仮名羅

馬字等、得失ヲ調査スルコト」を方針とした国語調査委員会が発足し活動を始めていたとい

う。

こうした動向に対して、伝統的な漢字の教養を持ち、書家としては健筆会を創設して、古文な

どを素材にした書を発表してもいた前田黙鳳は、漢字の簡略化を提案している。

日本に伝えられた明朝体は印刷書体として短期間に広く普及し、明朝体活字は築地活版所をは

じめとする印刷所でさかんに鋳造されるようになった。

今でも標準書体として使われている明朝体活字は、もともと唐代の欧陽詢や柳公権らの楷書体

に起源を持っている。

この書風の楷書体が宋代からさかんになった木版印刷の書体に使われるようになり、手書きの

風を多少なりとも残したその書体は、書物文化の普及に伴って、次第に筆致の抑揚が整理さ

れ、定型化され、木版印刷の標準書体となっていったもの。

さらに加えれば、十七世紀以降、ヨーロッパ人キリスト教宣教師たちは、中国語に翻訳した聖

書を印刷するために、活版印刷術を中国に持ち込み、中国の版本書体を参考にして、十九世紀

には漢字活字を鋳造するようになり、この書体のデザインが、活字鋳造の方法や印刷術ととも

に明治初期の日本に伝えられたもの。

イエズス会は、漢語による聖書を印刷するために、十九世紀には上海に活版印刷所さえ持って

いたという。

「文字は、個人に属しているものではなく、公共に属している。

書(手書き文字)特徴的なのは、文字の公共性を前提としながらも、歴史的な変化と個人の手の

中で生まれる書きぶりの振幅が、書表現のバリエーションを可能にしている点である。

一方の活字は、文字を工業技術によって、大量に複製したもの。

活字のデザインは、工業製品として扱いやすいよう、また多くの文字を並べたときに、

なるべく均一で読みやすいものとなるように、そして社会の広い嗜好に受け入れられやすいよ

うに、文字の点画のデザインや線の太さは整理されている」(本書)

短歌は〈私〉の文芸だともいわれるが、文字が活字化されて均質で非人称的なものになること

は、文字が人称的な〈私〉を託すことのできる、夾雑物のない〈透明な器〉となったことを意

味した。

言葉は〈私〉を十分に語ることのできる形式を得たのであり、これが「近代短歌」というもの

だと著者は指摘する。

文芸評論家の前田愛は、近代文学について、明治期における音読から黙読への移行が、

孤独な密室を作り出し、「近代的な読書人」を作り出したことを書き、著者は「本来〈声〉を

伴っていたはずの短歌も例外ではなかっただろう」と述べ、「明朝体活字によって記されるよ

うになったことで、〈和歌〉は〈短歌〉に変貌した」と論じている。

明治二十一年(一八八八)に、林甕臣が「言文一致歌」を『東洋学界雑誌』に発表し、その二年

後には、「万葉集」「八代集」を含む『日本歌学全書』が刊行されている。

明治二十三年(一八九二)には、尾崎紅葉が「二人女房」で言文一致体を使い始め、その翌年に

は、落合直文らが初の短歌結社「あさ香社」を結成し、三年後には、佐佐木信綱が初の短歌雑

誌『いささ川』を刊行、明治三十六年(一八九八)には、正岡子規が「歌よみに与える書」を

『日本』に発表している。

明治三十九年(一九〇六)には、青山霞村が最初の口語歌集『池塘集』を刊行し、大正八年(一九

一九)には口語短歌雑誌『カラスキ』を創刊している。

この時期には、短歌結社が結成され、短歌がメディア化されるとともに、「万葉集」などの過

去の和歌史を冷静に見れるようになった。

そして言文一致運動が盛り上がり、それと関連して「口語短歌」が登場していった。

「手書きの文字を「捨てる」ことで、逆説的に〈声=私〉が発見され、明朝体活字がその器と

してもっともふさわしいものとなった。

その一つの帰結が〈私〉と言葉を直接結びつけることができると信じられた口語による短歌だ

った。おそれくこれは短歌だけでなく、近代文学全般の条件として働いたに違いない」(本書)

欧米の速記術を改良して日本語を表音的に記録するシステムを考案したのは、盛岡生まれの鉄

道測量士、田鎖綱紀(たぐさこうき/一八五四~一九三八)だった。

普及のきっかけになったのは三遊亭円朝の「牡丹灯籠」の口演が、田鎖の門人・若林玵蔵(かん

ぞう/一八五七~一九三八)の筆録によって刊行され人気を博したことによる(明治十七・一八八

四)。

これが落後や講談の速記本の流行を生み、二葉亭四迷や山田美妙の小説の文体にも影響して、

言文一致運動を促進したというのが定説。

一方、明治初年度に欧米の学術や政治制度に刺激されたかたちで、自由民権運動とも連動して

政談や演説が流行し、記録・刊行されるようになっていた。

一八九〇年に始まった国会や地方議会などでも、討論を記録する必要が高まり、日本の速記術

を発達させたとされている。

日本において、速記は近代の言葉の変化と深く関連し、速記文字は近代日本の言葉を変えてい

った。

演説や落語といった〈声〉を再現するために導入されたのが速記だったが、蓄音機が日本には

じめて商品として輸入されたのは明治二十九年であった。

明治十年代から末期にかけて口語短歌などが登場したことを考え合わせると、日本語において

「〈声〉の直接性(とその復元)」が問題になった時期だと著者は見なしている。

ただ、速記それ自身は、言葉によって定着させ、視覚化・均質化しようとする試みであって、声

の抑揚や話者の癖まで完全に再現できるものではなかった。

田鎖は必ずしも速記に利便性や効率性のみを求めていたわけではなく、当時の完全な口語をそ

のまま書き写すことで口語を反省し、口語を文語と同じ程度の文体に改良し、口語の平易さと

文語の精度が一致した新しい文体=言文一致体が生まれることを目指していた。

速記は、口語と文語を止場しようとする実験であり、言文一致が目指していたのも完全な口語

ではなく、ある意味では文語的に整序された言葉であったという。

日本の速記は田鎖の他に、衆議院式、中根式、早稲田式などさまざまな方式があり、それらに

は属さない独自の方式もあった。

中でも先に触れた林甕臣の考案した『速記大日本字』(明治二十年)や『早書き新字いろは』(明

治二十年)なども存在している。

林のものは田鎖のように普及しなかったが、林は口語短歌の創始者としても短歌史に名前を残

している。そんな林は文字(仮名)は単なる音を担っているだけではないと考えていた。

林はそれぞれに深甚な意味を担っていると考えた「言霊派」の国語学者でもあり、祖父は本居

宣長に師事した国学者でもある林国雄であった。

林は「言文一致速記字会」という速記の普及団体を設立してもいる。

林にとっては言文一致と速記は別々のものではなく、車の車輪のようなものであり、速記にお

いて言(喋り言葉)と文(書き言葉)が完全に一致した“純粋で理想的な日本語”が完成されること

を目指していた。短歌においても口語短歌は「言文一致歌」と呼ばれ、真に近代的な日本語に

おいては旧来の雅語や古典文法は不要と考えられていたという。

そのような近世から近代への時代の流れを著者は石碑の書体にも見いだしている。

それが冒頭の章で書かれていることであり、著者独自の視点でもあり瞠目させられた。

東京の石碑が集まっている場所を俯瞰すると、東京の東部(下町)から西部(山の手)に向かっ

て、石碑の書風が時代の変化を反映しているように見えるという。

現在は東京都管轄の公園である向島百花園は、文化元年(一八〇四)に開かれている。

百花園と近辺の墨堤の石碑の多くは、文化・文政から明治・大正にかけて寺社が建てられ、

書風は唐様・和様が多いという。書き手である文人墨客や儒者の清遊ぶりを伝える内容が中心

で、どこかのんびりしていて、こじんまりした碑が多いと。

一方の、山の手で多くの石碑を見ることができる青山霊園は政府によって明治五年(一八七二)

に神葬墓地として開かれている。

西南戦争(一八七七)、日清戦争(一八九四)、日露戦争(一九〇四)前後に建てられた、政治家や

軍人の墓を見ることができる。巨大な碑も多く、墨堤とは違って、緊張感の高い隷書・楷書によ

る書が多いという。

書き手としては〈山の手派〉の書家、日下部鳴鶴(めいかく)、巌谷一六が中心だった。

鳴鶴や一六に関しては、若き日の北大路魯山人が門を叩いたが、早々と去ってもいる。

青山霊園が開かれた少し後、明治十三年(一八八〇)には清国から楊守敬が来日する。

楊守敬が持ち込んだ石碑の原拓の書風に鳴鶴や一六が影響された結果、日本書道史は大きく変

化したと位置づけられ、日本の書は「北碑(ほくひ)」の書風に席巻されていった。

魯山人は楊守敬に対しても、かなり批判的だった。要約すると中身が無いといっていた。

社会一般で書かれる書体もすでに行草書から楷書中心へと大きく変わっていたが、より主知的

で緊張感の高い楷書が流行していた。

しかし、青山霊園の碑がすべて北碑風に変わってしまったのではなく、旧時代の唐様、「幕末

の三筆」の流れにある書家もたくさん碑を書いているという。ただ、大きく見ると、石碑の東

(向島)から西(青山)への空間の移動と近世から近代への時代の流れが、その書体や書風の変化

に密接な関わりをもっていた。

和様(近世書)から近代書へと、書は移動しながら変化していった。

石碑に関しては、著者のサイトの中でも詳しく紹介されている。

石碑は私たちが現在考えている以上に、流行(形式や書風の変遷)を映し出すメディアだった。

「石碑は東アジアの漢字文化圏の時空間の中での指標である。

石碑は、人々の行為を記録することによって、東アジアの時間と空間を秩序づけていると考え

てよい」(本書)

道教は文字(漢字)そのものに対する信仰の比重が高い宗教であるといわれている。

また、文字を書いた紙(字紙)を特別のものと考えることは古代からあった。

聖賢の教えが書かれたものだかという儒教的な側面と、文字を創始した学問の神様・交昌帝君に

失礼に当るからという道教的な要素が影響しているともされる。

そうした信仰は、「敬惜字紙」と呼ばれ、明代ごろからさかんに信じられるようになったとい

う。

そんな中国では、十九世紀に清国が西欧列強と本格的に接触したとき、当時の知識人は漢字教

育の効率の悪さが、西欧列強との国力の差となって現れたのではないかと考えたと著者は述べ

る。魯迅も漢字に対して批判的な発言をしていたのは有名だ。

著者によれば、中国が国家として本格的に漢字の簡略化に取り組み始めたのは一九二〇年代か

らで、一九三五年には中華民国教育部から「第一批簡体字表」が発表されたという。

これは実施されなかったものの、国民党の蒋介石もこの方向に理解を示していたと指摘する。

そして、これを受け継いだ形で、中華人民共和国成立後、毛沢東は「漢字は表音化の方向に進

まなければならないが、まず漢字は簡略化されなければならない」という方針にのっとって、

共産党政府は、一九五六年から「漢字簡化方案」を数回に分けて公布した、と著者は説明して

いる。

国共内戦によって台湾に遷った(侵略)国民党も一九五三年には漢字簡略化の議論を始め、蒋介

石はこの時点でも簡体字には積極的だった。

しかし、戦後の国民党の簡体字計画は共産党とは異なるものとなり、教育普及のための漢字の

簡略化は必要だが、固有の漢字を廃止せずに簡略化するべきだ、と考えていた。

ところが、台湾の簡体字は「六書にそぐわない」「民族文化の象徴である中国文字を保存しな

ければならない」とする人々によって批判され、数度の論争が起こる。

その結果、簡略化推進派が敗れ、一九五六年には教科書などに簡体字使用を禁止する法令が出

された。その理由は、大陸の共産党が簡体字を推進しているからとされた。

台湾が現在も繁体字(正体字)を使っている事情はこのような経緯がある。

話を大陸中国に戻すと、日本に伝えられた明朝体は印刷書体として短期間に広く普及し、明朝

体活字は印刷所でさかんに鋳造されるようになったのは先に触れた。

ところが、中国では十九世紀末の段階で活版印刷は行なわれていたものの、いまだに自前の活

字鋳造をするまでには至っていなかった。

そのため、漢字活字を日本から輸入していた(明朝体活字は中国では「宋体」と呼ぶ)。

しかし、一九一二年に中華民国が成立する前後から、中国でも洋装本が普及しはじめ、自前の

活版印刷が行なわれるようになり、中国人自身による活字デザインも始まったと著者は述べて

いる。

そして、その動機は、中国の近代化の過程でヨーロッパ人や日本人によって奪われた漢字書体

を「取り戻す」ところにもあった。

明朝体=宋体はすでに中国社会にも普及していたが、当時の中国人自身による活字の見本帳な

どには「中国の古い伝統を好むものにとっては、日本の明朝体は輪郭だけを強調しており、嫌

われている。上品ではなく、精神性がない」と書かれていたという。

中国人にとっての「美しい書体」は、唐代の楷書や宋代の木版印刷の書体を指していた。

このようにして、一九一〇年代には、複数の印刷所で木版の印刷書体を模した「倣宋体(ほうそ

うたい)」「楷書体」などが開発されるようになったと著者は説明している。

しかし、中国の漢字の近代化については、岡田英弘氏の指摘が正しいと感じる。

日本は明治維新以来、欧米の新しい事物を表現する文体と語彙を開発していた。

それらの基礎となったのは、日本で新たにつくられた漢字の組み合わせだった。

こうした新しい文体と語彙は、日清戦争の敗戦とともに増えていった清国留学生によって学ば

れ、吸収され、中国人の言語のなかに大量に侵入し、科挙の試験にともなって普及していた、

古典に基礎をおいた文体と語彙を追放し、それにとってかわった。

日本以外の欧米諸国に留学した中国人にとっても、日本式の文体と語彙だけしかなかったとい

う。

こうした新しい漢語は、中国全土におびただしく設立した新式教育の学校において、日本人教

師と日本留学帰りの人々によって広められた。

このようにして、まず文法は旧来の古典的文法、語彙は日本製熟語の借用という、中間的な

「時文」と呼ばれるものが発生し、官庁用語や新聞用語として使用されるようになった。

中国人が読むマルクス文献は、ことごとく日本語版からの重訳だった。ロシア語からの直接の

訳は、一九五〇年代になるまで現れなかった。

周恩来も鄧小平もフランス帰りだが、フランス語をそのまま持ち込んでも誰にもわからないの

で、日本語の翻訳語を利用するしかなかった。

毛沢東も陝西北部の横穴住居のなかでエドガー・スノウに語った、若い頃に読んだマルクス主義

の文献は、大正時代に翻訳された日本語の文献だった。

中国の共産主義ですら、日本の大正デモクラシー時代の社会主義の産物だった。

岡田氏によれば、現代のある中国人研究者は、和製漢語が現代中国語で書かれた文章の延べ七

〇パーセントを占めると嘆いていたという。

「文字や書を支える媒体(石・板・紙・書物・・・そして人間の皮膚)、そうしたいわば「書写材料」

は必ずしも永久不滅のものとは限らない。

石碑も毀れるし、紙や板は朽ちてしまうこともあるし、書物が焼かれてしまうこともある。

そして、文字や書は書かれると同時に“消される”ものである」(本書)

本書をわかりやすく表現すれば、「松岡正剛氏が好みそうな書物」といえようか。

やはり出版元は工作舎だ。

今回触れなかったが、工事現場の文字「修悦(しゅうえつ体」や言語景観である看板、西夏文字

の過剰性や漢字のエキゾティズム性、イエズス会士でもあったドイツ出身のキルヒャーの漢字

への関心とその影響、文字と遊び、文字が秘める身体性と入れ墨と文字、書のアウラなども論

じられている。内容やまとめ方も巧みで、読んでいて爽快だし、また愉快で痛快だった。

本書みたいなものが巷で話題にならないのは少し残念で不愉快だが、多くの人に本書をお薦め

したい。

遠くから届く声。内声の文字。文字は時代を映す鏡である。

文字は神話と歴史との接点に立つ。

文字は神話を背景とし、神話を承けついで、これを歴史の世界に定着させてゆくという役割を

になうものであった。

したがって、原始の文字は、神のことばであり、神とともにあることばを、形態化し、現在化

するために生まれたのである。

『漢字』白川静