カール・アードルフ・アイヒマン。一九六〇年五月十一日の晩ブエノスアイレス近郊でモサドに
拉致され、九日後空路イスラエルに運ばれ、一九六一年四月十一日にエルサレム地方裁判所で
裁判されることになった。アイヒマンの起訴理由は十五項にわたっていた。
「他の人々とともに」アイヒマンはナチ体制全期間を通じて、特に第二次世界大戦中、
ユダヤ民族に対する罪、人道に対する罪、ならびに戦争犯罪を犯した。
告発は一九五〇年のナチおよびナチ協力者(処罰)法に基づいて行われたが、
この法律は「これらの・・・犯罪行為・・・の一つを犯した者は・・・死刑に処せられること
もある」と定めている。
起訴理由のいずれについてもアイヒマンは、「起訴状の述べている意味においては無罪」と答
えている。
アーレントは『ザ・ニューヨーカー』誌のために、エルサレムでアイヒマン裁判について取材を
行い(傍聴を含む)、その報告は少々縮めて最初一九六三年二、三月に掲載された。
エルサレムでのアイヒマン
『人間の条件』や『全体主義の起源』と違って、『エルサレムのアイヒマン』(1963)はハン
ナ・アーレントの代表作と呼ぶのに躊躇われていた。
エピローグでアーレント自身も書いているが、『エルサレムのアイヒマン』は『ザ・ニューヨー
カー』誌に連載された段階で既に激しい論争の渦中に巻き込まれている。
それは政府要人を含むイスラエルからの、それと共闘したアメリカのユダヤ人諸組織やメディ
アからの声高な非難という形で行われた。
「悪の陳腐さについての報告」という副題が象徴的に示しているように、アイヒマンの罪を軽
減し、ユダヤ人をナチの犯罪の協力者に仕立て上げようとする有害な悪書であると大々的に宣
伝されている。
さらには、この裁判の立役者であったギデオン・ハウスナー検事が『エルサレムの裁き』
(1966)を書いて反芻を試みている。
その結果、アーレントは交友関係の主要な位置を占めるユダヤ人の友人をほとんど失うという
代償を支払った。この一連の流れは映画『ハンナ・アーレント』で描写されていたかと思う。
『Eichmann_in_Jerusalem』(1963)とハンナ・アーレント(1906-1975)
「裁判の対象はこの男の所業であって、ユダヤ人の苦難でも、ドイツ民族もしくは人類でも、
反ユダヤ主義や人種差別主義でもないのである」(本書)
上の一文がエルサレム裁判のあらましを示し、アーレントが伝えたいことの一つでもあった。
この裁判の主導権を握っていたのはランダウ判事だった。
ユダヤ人でもあるアーレントの目から見ても、この判事は芝居かかったことの好きな検察官の
趣味に影響されてこの裁判が見世物裁判になるのを防ぐため全力を注ごうとしていたことは、
そもそものはじめから疑いを容れなかったという。
裁判は新たに建てられた〈民衆の家〉なる所で行われたが、この裁判所に関してもアーレント
は、設計したものは、平土間席も座敷も、額縁舞台も本舞台も、俳優の出入りのための脇扉も
備えた劇場を頭に描いていたのであると映っていた。
時のイスラエル首相はダヴィド・ベン・グリオンだったが、そのベン・グリオンがアルゼンチ
ンでアイヒマンを誘拐し、〈ユダヤ人問題の最終的解決〉にアイヒマンの果たした役割につい
て裁判に付するためにエルサレム地方裁判所に引き出させようと決定したとき考えていた見世
物裁判に不適当な場所ではなかった、ともアーレントは述べている。
独特の言い回しなので翻訳には苦労されたと思う。翻訳者は大久保和郎氏。
「イスラエル建国の父」と称されるベン・グリオンとギデオン・ハウスナー
ベン・グリオンはこの裁判に一度も顔を出さなかったが、正当にも〈国家の設計者〉と呼ば
れ、この裁判の見えざる舞台装置だった。法廷でベン・グリオンは検事総長ギデオン・ハウス
ナーの声で語った。政府を代表するハウスナーは全力を注いで主人の命令に従っていた。
その検察の主張は、ユダヤ人の苦難の上に組み立てられており、アイヒマンの行為の上に組み
立てられているものではなかった。
ハウスナーによれば、「ほとんどのユダヤ人問題にのみ専念し、その任務はユダヤ人の絶滅で
あり、あの非道な体制の中で果たした役割がそれのみに限られていた人間は一人だけしかいな
かった。それはアードルフ・アイヒマンだった」と主張していた。
しかし、ニュルンベルク裁判では被告たちは「いろいろの国の国民に対する犯罪を告発されて
いた」が、アイヒマンがそこにいなかったというだけの理由で、ユダヤ人の悲劇は問題にされ
ていなかった。
もちろんアーレントも、ユダヤ人の苦難の事実は争う余地のないものだったと表明している
が、アイヒマンが被告席にいたとすれば、ニュルンベルク裁判はユダヤ人の運命にもっと注意
を払っていたのだろうか?と疑問を投げかている。
そしてアーレントはこの疑問に「NO!」と答え、次のように述べている。
「イスラエルのほとんどすべての人と同じく、彼も、ユダヤ人のために正義を行ない得るのは
ユダヤ人の法廷のみであり、ユダヤ人の敵を裁くのはユダヤ人の仕事であると信じていたの
だ。
それだから、〈ユダヤ民族に対する〉罪のためではなく、ユダヤ民族の身を借りて人類に対す
る罪のためにアイヒマンを告発する国際法廷などということがちょっと言われただけでも、イ
スラエルではほとんど全員一致の敵意に満ちた反応が見られたのだ」(本書)
当時のイスラエルでは、ユダヤ教の律法がユダヤ人市民の身分を定め、その結果ユダヤ人は非
ユダヤ人との結婚を認められず、外国で行われた結婚は承認されはするが、通婚によって生ま
れた子供は私生児と見なされ、非ユダヤ人を母とする子供には法律上結婚も埋葬も認められて
いなかった。
それなのにイスラエルでは、「われわれはいかなる人種的差別も行わない」という奇妙な豪語
が行われてもいた。特派員の中には、こうした事情に詳しい人々は気づいていたが、彼らは記
事の中ではそれに触れなかった。
そして、アーレントはこのアイヒマン裁判に対する異議は三つの種類があったと指摘する。
第一は、ニュルンベルク裁判に対して唱えられ、今また繰り返されているもので、アイヒマン
は遡及的な法のもとに、しかも勝者の法廷によって裁かれているという異議。
第二は、エルサレム法廷のみに向けられた異議で、この法廷の裁判資格を問題にするか、もし
くは拉致という事実をこの法廷が無視したこと。
第三は、最も重大なものであり、アイヒマンが〈人道に対して〉ではなく〈ユダヤ人に対し
て〉罪を犯したという起訴理由そのものに対する、したがって彼がそれによって裁かれる法律
に対する異議。
この異議はこれらの罪を裁くにふさわしい法廷は国際法廷のみであるという論理的な結論に導
いた。
カール・アードルフ・アイヒマン(1942)
アイヒマンは一九〇六年三月十九日、ドイツのラインラットの町ゾーリンゲンで生まれてい
る。アーレントと同じ歳だ。
電気関連会社や石油関連会社で働くが、一九三二年はアイヒマンの転換点となる。
この年の四月にアイヒマンは国民社会主義ドイツ労働者党に入党し、その後すぐ、エルンス
ト・カルテンブルンナーの勧めによりSS隊員となる。
アイヒマンは党やSSに入る前から、何らかの組織に入ることを好む人間だった。
カルテンブルンナーは当時リンツの若い弁護士であり、後に帝国保安部(以下、RSHA)の長官と
なっが、アイヒマンは最後にこのRSHAの六の局の一つ、ハインリヒ・ミュラーの指揮下の第
IV局の中でB-4課の課長となる。
そして、一九四一年十月にはSS中佐に昇進することになるが、アイヒマンはヒトラーの意向を
最初に知らされるような人々の部類には入っていなかった。
SS隊員となった数年後のアイヒマンは、アルバート・シュペーア(最近中公文庫から『回想
録』が再刊されている)のトット機関に所属し、そこで道路建設の仕事に当たっていたこともあ
る。
そのシュペーアからアイヒマンはシオニズムの古典的著作である、テオドール・ヘルツルの
『ユダヤ人国家』を読むことを勧められ、これを読んだアイヒマンはたちまち、しかも永遠に
シオニズムに心酔してしまったという。
シオニストはパレスチナでイギリス当局と対立しつつユダヤ人国家独立を目標に活動する勢
力。アーレント自身もフランスへ亡命したときに、パレスチナへユダヤ人青少年を入植させる
シオニズムの活動に携わったこともある。
この本はアイヒマンの読んだ最初の真面目な書物でもあり、アイヒマンに決して消えることの
ない印象を与えたという。
アーレントによれば、これ以来アイヒマン自身も繰り返し語っているように、ユダヤ人問題の
〈政治的解決〉(これは後の〈肉体的解決〉と対立する、前者は追放を、後者は絶滅を意味す
る)と、いかにして〈ユダヤ人に住むべき土地を与えるか〉ということ以外はほとんどアイヒマ
ンの念頭にはなかったという。
さらにアーレントによれば、「ユダヤ人政策の初期の段階にあっては、親シオニスト的姿勢を
とることが時宜を得ていると国家社会主義者が考えていたことは明白な事実である」というハ
ンス・ラムの言葉を紹介し、アイヒマンがユダヤ人について学びはじめたのはこの初期の段階
であったと指摘する。
そして、アイヒマンは二つの能力に優れていたという。それは組織能力と交渉能力。
しかし、ほらを吹くことや紋切り型の表現でしか話すことのできない人物でもあり、より決定
的な欠陥は、ある事柄を他人の立場に立って見るということが、ほとんど全くできないという
ことだった。
アイヒマンは、RSHAの第IV局に所属する前の一九三八年には、ヴィーンのユダヤ人移住セン
ター長に就任し、翌年にはプラハのユダヤ人移住センター長に就任している。
ヴィーンでのアイヒマンは奮闘し、複雑なユダヤ人組織やシオニスト政党を含むユダヤ人問題
の専門家としてだけでなく、移住や強制退去の権威、人々を移動させる〈名人〉として認めら
れていた。
アイヒマンは反対尋問の際、ヴィーンにいたことを次のように語っている。
「ユダヤ人を、われわれの敵であるが、しかし彼我双方にとって受け容れ得る、双方に公正な
解決をつけねばならぬ相手であると見なしていました・・・
この解決は、彼らに住むべき土地を与え、彼らが自分の場所、自分の土地を持てるようにする
ことにあると私は考えました。そして私はこの方向にむかって喜び勇んで働いていたのです。
このような解決に達するために私は嬉々として協力しました。なぜならそれはユダヤ人自身の
あいだに起こった運動が賛成していた解決策だったのですから。そして私はこれをこの問題に
ついての最も適切な解決法だと見ていました」
ユダヤ人内部でのシオニストの第一の敵であったのはドイツ国民ユダヤ教徒協会だったとい
う。
当時ドイツの組織されたユダヤ人の九五パーセントが属しており、この団体はその規約によっ
て〈反ユダヤ主義に対する闘い〉を主要目的と規定していた。ところがそういう性格からし
て、この団体は一夜にして〈反国家的な〉組織となっていた。アーレントによれば、実際には
追害されはしなかったが、その任務とすることをあくまで行おうとしたとすれば追害されるこ
とになったろうと指摘している。
それゆえ最初の数年のあいだ、シオニストの目にはヒトラーの政権掌握は〈同化主義の決定的
敗北〉として映っていた。したがってシオニストは、少なくともしばらくのあいだ、ナチとの
犯罪的ではない協力をある程度行うことができていたという。
シオニストたちはまた、ユダヤ人青少年および(彼らの希望するところでは)ユダヤ人資本家を
パレスチナへ移住させながら〈異化〉を推進することは、〈双方にとって公正な解決策〉とな
ると信じていた。
当時のドイツの多くの官僚も同じ考えであり、しかもこの種の空言は最後までごく一般に行わ
れていたという。
ナチのお偉方が公式に発言したことはなく、終始一貫してナチのプロパガンダは執拗なまでに
明確に非妥協的に反ユダヤ的であったが、ナチの考えも、シオニストは「〈民族的〉な考え方
をするから〈立派な〉ユダヤ人だ」としていたという。
ちなみに、ドイツのユダヤ人たち自身も、〈異化〉という新しい過程を通じて〈同化〉を解消
してしまえば事足りると考え、シオニスト運動に加わろうとして殺到していたという。
最初の数年間はナチ当局とパレスチナ・ユダヤ機関とのあいだの双方にとって甚だ満足する協
定、−いわゆるハヴァラー、すなわち振替協定−が存在し、パレスチナの移住者は自分の金を
ドイツの商品に替えてパレスチナへ送っておき、到着後、その商品をポンド貸に替えることが
できたという。これはまもなく、ユダヤ人が自分の金を持ち出す唯一の合法的な方法となっ
た。
アイヒマンに話を戻すと、アイヒマンにとってはるかに重要だったのは、ドイツのシオニスト
からもパレスチナ・ユダヤ機関からも命令を受けずに、彼ら自身のイニシアティヴでゲスター
ポやSSと接触しようとするパレスチナからの密使だった。彼らは英国の支配するパレスチナへ
のユダヤ人の非合法的な入国への援助を得るためにやってきた。そしてゲスターポもSSも彼ら
に協力的だったという。
彼らはアイヒマンとヴィーンで交渉したが、アイヒマンは「礼儀正しく」「人をどなりつけた
りするタイプ」ではなかった。それどころかアイヒマンは移住予定者の職業教育訓練所を設け
るため農場や便宜を提供したと彼らは報告しているという。
ユダヤ人組織の役員たちが〈理想主義者〉、つまりシオニストであれば、彼らはそれらの人々
を尊敬し、「対等に扱い」「彼らの要求、苦情、援助の要請」のすべてに耳を傾け、できるか
ぎり「約束」を守っていたという。
「彼らは「しかるべき人材」を選び出そうとしていたのであって、絶滅計画がまだ始まってい
ない段階での彼らの主要な敵は、ドイツやオーストリアという昔からの故郷でのユダヤ人の生
活を脅かしている者どもではなく、ユダヤ人の新しい故郷への道を遮っている者であった。
つまり、その敵は明らかにイギリスであって、ドイツではなかったのである。事実また、彼ら
はドイツ国内のユダヤ人とは違って、委任統治国の保護下にあったから、ナチ当局とほとんど
対等に交渉できる立場にあった」(本書)
そして、ヴィーンにおける仕事がアイヒマンにおける出世の本当のはじまりだった。
一九三七年から一九四一年のあいだにアイヒマンは四回も昇進している。
一四ヵ月のうちにアイヒマンはSS少尉からSS大尉に、次の一年半のあいだにSS中佐に進んだ。
中佐になったのは一九四一年十月で、最終的解決で彼の演ずべき役割−結局そのためにアイヒ
マンはエルサレム地方裁判所に引き出されるの−を与えられた直後のことであった。
そして、アイヒマンはその階級に釘付けにされた。しかし、アイヒマン自身も気がついていた
みたいだが、アイヒマンの働いている課では中佐より高い位には進み得なかった。
アイヒマンが最大の勝利を味わったのは、一九三八年十一月、〈水晶の夜〉の直後、ドイツの
ユダヤ人たちが今度こそ本気になってドイツから逃げ出そうと思いつめたときだった。
ゲーリングはベルリンに帝国ユダヤ人移住センターを設置することに決めたが、それに関する
指令を与えた手紙には、アイヒマンのヴィーンの事務所がセンター設置のさい参考とすべき手
本として挙げられている。
一九三九年三月、ヒトラーはチェコスロバキアに軍を進め、ボヘミア・モラヴィアを保護領と
した。アイヒマンはただちにプラハにまたユダヤ人移住センターを設けるように命じられた。
戦争は一九三九年九月にはじまり、その一ヵ月後にアイヒマンはベルリンに呼び戻され、ミュ
ラーの後を継いで帝国のユダヤ人移住センターの所長になる。
〈ユダヤ人に住むべき土地を与え〉ようとするアイヒマンの第二の試みはマダガスカル計画だ
った。
四百万のユダヤ人をヨーロッパからアフリカ東南海岸のフランス領の島に強制移住させるとい
うこの計画は外務省が生みの親であり、その後RSHAに移管された。
しかし、アイヒマンはマダガスカルとウガンダと混同していて、自分の夢は「ユダヤ人国家の
理想の主唱者だったユダヤ人テーオドル・ヘルツルがかつて描いていた夢」と同じものだとい
つも主張していたという。だが、それを最初にそれを抱いていたのはポーランド政府だった。
それはともかく、アイヒマンは彼の国外移住業務が完全な停止に立ち入った一九四〇年夏、四
百万のユダヤ人をマダガスカルへ強制移住させる具体案を練るように命じられている。
そして、一年後にロシア侵入が始まるまではこの計画にほとんどかかりきりだったという。
「マダガスカル計画が一年後に〈時代遅れ〉になったと宣言されたとき、誰もが心理的に、と
いうよりも論理的に次の段階への準備ができていた。〈強制移動〉させられる土地がない以
上、残る唯一の〈解決〉は絶滅であった」(本書)
アイヒマンに関するかぎり、強制移動や移送はもはや〈解決〉の最終段階ではなくなったとい
うことが一番重要だったという。アイヒマンの課はもはや道具でしかなかった、とアーレント
は見切っている。
一九四一年六月二十二日にヒトラーはソ連攻撃を開始するが、その三ヵ月前には、「ユダヤ人
が絶滅されることはすでに党上層部では秘密ではなかった」と、総統官房にいたヴィクトール
・ブラックはニュルンベルクで証言している。しかし、アイヒマンは決して党の上層部に属し
ていなかった。
総統の命令をはっきりと聞かされた者は単なる〈命令受領者〉ではなくなり、〈秘密保持者〉
に昇格して、特別の宣誓を行わせられたという。
東部の殺戮センターを最初に公式に視察してからまもない一九四一年九月に、アイヒマンはド
イツおよび保護領からの最初の大量移送を組織している。これは帝国をできるだけ早くユーデ
ンラインにしたいとヒムラーに語ったヒトラーの〈願望〉に沿って行われたものであった。
第一回の輸送はラインラントの二万人のユダヤ人と五千人のロマだったが、このときある奇妙
なことが起こっている。それは、必ず命令で〈守られる〉ようにひどく気をつかっていたアイ
ヒマンが、命令に背いて自分の意思で行動したこと。こんなことは最初で最後だったという。
アイヒマンはこれらの人々を、行動部隊によってただちに射殺される運命の待つロシアの占領
地域内のリガもしくはミンスクに送らずに、ロズのゲットーに差し向けている。
アイヒマンはロズでは絶滅の準備ができていないことを知っていたという。
ロズのゲットーは最も早く設けられたものであり、解体されたのは一番最後であった。
このゲットーの居住者は病気や飢えで死んだ者以外は、一九四四年の夏まで生きていたとい
う。
ヴァンゼー会議の開かれたヴァンゼー別荘
一九四二年一月、悪名高いヴァンゼー会議が開催されている。
この会議が必要となったのは、〈最終的解決〉が全ヨーロッパに適用されねばならぬとすれ
ば、帝国の国家機構の単なる暗黙の承認を得るだけでは明らかに不充分であり、全省庁および
全官吏の積極的な協力がなければならなかったからだという。
ヴァンゼー会議の目的は、最終的解決の遂行を目指してあらゆる努力を調整することであっ
た。論議はまず、半ユダヤ人や四分の一ユダヤ人の取り扱い、彼らを殺すべきか断罪すべき
か?というような者だった。それにつづいて、〈問題解決のいろいろなタイプ〉−いわゆる殺
害方法−について率直な討議が重ねられ、ここでもまた〈参加者の心からの同意〉という以上
のものが寄せられたという。アイヒマンはこの会議に書記として働いていた。
絶滅機構は、戦争の恐怖がドイツ自体を襲うよりもはるか以前に計画され、細部にわたって仕
上げられ、その複雑な官僚組織は安易な勝利によっていた年月にも敗北の予想される最後の年
にも同じ精確さをもって動いていたという。
各国内にも国際的にも、ユダヤ人共同体組織やユダヤ人党派や福祉団体は存在していた。
そして、ユダヤ人が暮らしているところではどこでも、一般に承認されたユダヤ人指導者が存
在した。しかし、これらの指導者はほとんど例外なく、何らかの形で、何らかの理由で、ナチ
と協力していたという。
さらにアーレントの指摘で驚いたのは、東方のユダヤ人に対する措置は、単に反ユダヤ主義の
結果ではなく、それは包括的な人口政策の部分をなすものであって、ドイツが戦争に勝ってい
たならばこの制作の進行につれてポーランド人はユダヤ人と同じ運命、−ジェノサイド−を蒙
っていたということ。
これは単なる推測ではなく、ドイツ国内のポーランド人はすでに、ユダヤ人の星の代わりにP
という文字のついた識別票を着用することを強制されていた。
これは警察が破壊の仕事を始める場合つねにまず第一に取る措置だったという。
「もしユダヤ民族が本当に未組織で指導者を持たなかったならば、混乱と非常な悲惨は存在し
ただろうが、[西から東へとユダヤ人を(間引く)のにあのように複雑な官僚機構が必要だった
ことを考えれば、ああまで怖ろしい結果は東部地域(ここは元来最終的解決の担当者の管轄地域
ではなかったのだ)だけにとどまっただろうし]犠牲者総数が四百五十万から六百万に上るよう
なことはまずなかったろう」(本書)
ユダヤ人でもあるアーレントだからこその指摘でもあるだろう。
そして、なぜユダヤ人のアーレントはこれらの苦々しい記憶のことを取り上げたのか。
その理由は、この問題こそナチが尊敬すべきヨーロッパ社会に−それも単にドイツだけではな
くほとんどすべての国の、しかも単に追害者の側だけでなく被害者のあいだにも−惹き起こし
た道徳的崩壊についての、最も衝撃的な認識を与えるからだという。
アーレントはそれぞれ一章を割いて、ライヒ−ドイツ、オーストリアおよび保護領−、西ヨー
ロッパ−フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、イタリア−、バルカン諸国−ユーゴス
ラビア、ブルガリア、ギリシャ、ルーマニア−、中欧−ハンガリー、スロヴァキア−などでの
ユダヤ人への対応や差別の歴史、その移送された背景などを取り上げている。
なかでもルーマニアが酷く、一例を挙げると、
「ルーマニア式の移送というのは、五千人の人間を貨車に詰め込み、その列車が何日も何日も
目的地もなしに地方を走りまわっているうちに彼らを窒息死させることだった。
この殺害の後で彼らが好んでやってみせたのは、屍体をユダヤ人の肉屋の店頭にならべること
だった。
東の移送が不可能だったために、ルーマニア人自身によって設置され運営されたルーマニアの
強制収容所の残虐さもまた、われわれがドイツで見たどんなものにもまさって手の込んだ惨た
らしいものだった」(本書)
というような悲惨な状況だった。
ルーマニア人はドイツ人の援助なしに三十万近いユダヤ人を殺してしまっていたという。
東方はユダヤ人の受難の中心的な舞台であり、すべての移送の恐るべき終点、ほとんどいかな
る脱走もあり得ない、生き残った者の数が全体の五パーセントを上回ることはめったになかっ
た場所だった。
のみならず東方は戦前のヨーロッパにおけるユダヤ人人口の集中地だった。三百万以上のユダ
ヤ人がポーランドに、二十六万人がバルト海諸国に、推定三百万のロシア・ユダヤ人の半数以
上が白ロシア、ウクライナ、クリミアに住んでいた。
上述のように、一九四二年一月二十日に「最終的解決」をめぐるヴァンゼー会議が開かれてい
るが、その翌月の二月には、アウシュヴィッツ絶滅収容所への大量移送が開始されている。
そして三月にアイヒマンは、各地の強制収容所に集められたユダヤ人をアウシュヴィッツをは
じめとする絶滅収容所へ移送する実務の責任者を務めている。
アーレントによれば、アイヒマン裁判には四つの点が主として問題になっていたという。
第一は、一九四一年三月に開かれたアイヒマンも出席しているある会合でハイドリヒがお膳立
てをととのえた、東方における行動部隊による大量虐殺にアイヒマンが加わっていたかどう
か。
しかし、行動部隊の隊員は犯罪者か懲罰労役から引き上げられてきた一般兵士だった(誰も志願
することはできなかった)。
その指揮官はSSの中での知的エリートであり、アイヒマンは最終的解決の重要な面とは、殺し
屋どもの報告をうけて上役のためにその要約を作る以外に関係していなかった。
だが、判決はアイヒマンが実際に参加したていたことの証拠とするに充分であると結論した。
第二の点は、ポーランドのゲットーから近くの収容所へのユダヤ人の輸送に関するもの。
一九四四年一月にアイヒマンはロズのゲットー(東方で最大の、そして最後に一掃されたゲット
ー)を視察しているが、ロズ・ゲットーの一掃を命じたのはヒムラーだった。
アーレントによれば、アイヒマンはヒムラーに命令を発させることまでできたという検察側の
馬鹿げた主張を受け容れないかぎり、アイヒマンがユダヤ人をアウシュヴィッツへ送り出した
という事実だけでは、アウシュヴィッツに到着したユダヤ人はすべて彼によって送り出された
のだという証明にはならない、としている。
この点について判決文の結論は不幸にして〈疑わしき場合は被告の不利に〉の判例を構成する
ように見えたという。
第三の点は、殺戮収容所で行われたことについてのアイヒマンの責任。
検察側によれば、殺戮収容所の中でアイヒマンは非常な権威を持っていたし、収容所には二種
類のユダヤ人がいたことを説明することから始めている。
収容所の大部分をなし、ナチの目から見てすら何らの罪をも犯していない〈輸送ユダヤ人〉
と、何らかの法律違反のためにドイツの強制収容所に送られた〈予防拘禁中〉のユダヤ人で、
この後者は帝国内の強制収容所をユーデンラインにするために東方へ送り出されてからも、ほ
かの者よりもはるかに楽だった。
アウシュヴィッツについて見事な証言を行ったラヤ・カガン夫人によれば、「犯罪のために捕
らえられた連中がほかの者よりも優遇されていた」という。この連中は選別されず、一般に彼
らは生き残った。
アイヒマンは拘禁ユダヤ人とは何らの関係もなかった。
しかし彼の専門である輸送ユダヤ人は、いくつかの収容所で労働に運ばれることのできた二五
パーセントの特別強健なものを除いては、そもそものはじめから死を運命づけられていた。
アイヒマンはもちろん、自分の手にかけた者の圧倒的多数は死を運命づけられていることを知
っていた。
しかし労働のための選別は現地のSS軍医によって行われているし、被移送者の名簿はそれぞれ
の国のユダヤ人評議会もしくは通常警察によって作られ、誰が死に誰が死なないかを決定する
権限はアイヒマンになかった。
第四の問題は、ゲットーで人々が耐え忍ばねばならなかった名状しがたい悲惨さ、そしてたい
ていの証人がその証言で語ったゲットーの最終的な一掃についてのアイヒマンの責任の問題。
これについてもアイヒマンは充分知らされていたが、こうしたことはすべてアイヒマンの仕事
とは全然関係がなかった。
アーレントは、この四点についてアイヒマンを完全に無罪としたとしても、判事たちは別の判
決を下さなかったろうし、アイヒマンは極刑を免れなかっただろ。しかし判事たちは検察側の
組み立てた主張を完全に、徹底的に覆したことであろう、と説明している。
結局アイヒマンとは、ナチ運動内の他の分子とは反対にいつも〈上流社会〉に威圧され、アイ
ヒマンが最後まで熱心に信じていたのは成功ということであり、それがアイヒマンの知るかぎ
りでの〈上流社会〉というものの第一の価値尺度であった。
アイヒマンのすることすべては、アイヒマン自身の判断し得るかぎりでは、法を守る市民とし
て行っていることであり、アイヒマン自身言葉でも法廷でもくり返し言っているように、アイ
ヒマンは自分の義務を行った。命令に従っただけでなく、法律にも従った。
以上のことを踏まえると、以下のアーレントの有名な一文に辿り着く。
彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと−これは愚かさとは決して同じではない
−、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。
このことが〈陳腐〉であり、それのみが滑稽であるとしても、またいつか努力してみてもアイ
ヒマンから悪魔的なまたは鬼神に憑かれたような底の知れなさを引き出すことは不可能だった
としても、やはりこれは決してありふれたことではない。
死に直面した人間が、しかも絞首台の下で、これまでいつも葬式のさいに聞いてきた言葉のほ
か何も考えられず、しかもその〈高貴な言葉〉に心を奪われて自分の死という現実をすっかり
忘れてしまうなどというようなことは、何としてもそうざらにあることではない。
このような現実離れや思考していないことは、人間のうちにおそらくは潜んでいる悪の本能の
すべてを挙げてかかったよりも猛威を逞しくすることがあるということ−
これが事実エルサレムにおいて学びえた教訓であった。
しかしこれは一つの教訓であって、この現象の解明でもそれに関する理論でもなかった。
『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント
この有名な一文は、初版刊行から二年後の改訂増補版で付け加えられた「追記」の中に出てく
る。アイヒマンみたいな人間は現代日本のそこら中にいるということだ。
夜半しばらく前にアイヒマンは絞首され、屍体は焼却され、その灰はイスラエル領海外の地中
海に撒き散らされた。刑の執行はアイヒマンが自分の恩赦請願がしりぞけられたことを知って
から二時間もたたないうちに行われた。
あと二時間しか生きられなかったアイヒマンは、ワインを一本所望し、その半分を飲んだ。
一緒に聖書を読むことを申し出たプロテスタントの牧師の助力は謝絶している。
絞首台の下、アイヒマンの最後の言葉もまた紋切り型の文句だった。
「もうすこししたら、皆さん、われわれは皆再開するでしょう。
それはすべての人間の運命です。ドイツ万歳、アルゼンチン万歳、オーストリア万歳!
これらの国を私は忘れないだろう」
アーレントはこの最後の数分間の出来事について、人間の邪悪さについてのこの長い講義がわ
れわれに与えてきた教訓ー恐るべき、言葉に言いあらわすことも考えてみることもできない悪
の陳腐さという教訓を要約しているかのようであった、と述べている。
先述したように、アーレントはこの裁判の正当性について疑問を感じていた。
エルサレムの法廷が人種差別、追放、ジェノサイドの三者のあいだに差異が存することを理解
していたとすれば、自己の直面する最高の罪、すなわちユダヤ民族の肉体的絶滅というもの
は、ユダヤ人の身において為された人道に対する罪だったこと、ユダヤ人憎悪と反ユダヤ主義
の長い歴史から説明し得るのは罪の性格ではなくその犠牲者の選択のみであることが、たちま
ち明らかになったことだろう。
犠牲者がユダヤ人だったというかぎりで、ユダヤ人の法廷が裁判を行うことは正しく適切であ
った。だが、その罪が人道に対する罪だったかぎりでは、それを裁くには国際法廷が必要だっ
た、と糾弾している。
さらには、この裁判は先例にはならず、それ以下であろうと予言しても差し支えない、とまで
言い切っている。
そしてもう少し具体的にいうと、追放とジェノサイドとは、二つとも国際的犯罪ではあるが、
はっきりと区別されなければならない、とアーレントは説明している。
前者は隣国の国民に対する犯罪であるのに対して、後者は人類の多様性、すなわちそれなしに
は〈人類〉もしくは〈人間性〉という言葉そのものが意味を失うような〈人間の地位〉の特徴
に対する攻撃であると。
アーレントは本書の中で、ナチとシオニズムの親密な間柄について赤裸々に語り、ユダヤ人諸
組織やメディアからの声高な非難を浴びせられた。
しかし、一九四四年に執筆された「シオニズム再考」(『アイヒマン論争――ユダヤ論集2』
2013)で、すでにこの関係(ナチとシオニズム)について痛烈な批判がなされていたという。
その他にも『反ユダヤ主義――ユダヤ論集 1』や『全体主義の起原』の第一巻では 反ユダヤ主
義を扱っている。個人的にはアーレントの”ユダヤ論”に興味がある。そこに衝撃を受ける。
アーレントは末尾の中で、ジョージ・ケナンに通じるような解釈で、未来に対して懸念を抱
き、次のように書いている。両者ともに洞察力に恐れ入るし、達見だ。現代にはいないよ。
ナチが犯した罪がくり返される可能性を支持する特殊な理由のほうはもっとはっきりしてい
る。
現代人の人口の爆発的増加と、オートメーションによって人口の大きな部分を労働力の点から
言っても〈余計なもの〉にする技術手段の発見とは時を同じくする。
しかもこの技術手段は核エネルギーによって、ヒトラーのガス殺設備もそれにくらべれば子供
のおもちゃみたいに見える道具を使ってこの〈余計な〉人口の脅威を解決することを可能にす
る。この恐るべき一致はわれわれを戦慄せしめるに充分であろう。
『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』ハンナ・アーレント
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