『レーガンとサッチャー: 新自由主義のリーダーシップ』ニコラス・ワプショット



レーガンとサッチャーの思想は、当初は広範囲の人々に疑念を持たれ嘲笑されたが、

彼らの政策は八年後には母国の政治情勢を変え、世界地図をも一変させていた。

レーガン大統領の二期にわたる任期中とサッチャーが共有した価値観は、

ソ連の束縛から一刻も早く逃れようとしていた人々に刺激をもたらした。

冷戦は彼らの勝利に終わった。

レーガンによる記録的な軍事支出と、米国を核攻撃から守るミサイル防衛システムの構築とい

う脅威を目の当りにして、ソ連の指導部は全面的に退却した。

彼らはしぶしぶながら東欧の衛星国に対する支配力を放棄し、米国への敵対的な姿勢も捨て去

った。

ロナルド・レーガンがずっと前から予見していたように、ソビエト共産主義は「人類史上奇妙な

一章」として退けられ、マルクス・レーニン主義は「歴史の灰の山」に打ち捨てられたのだ。

『レーガンとサッチャー』ニコラス・ワプショット

ロナルド・レーガンとマーガレット・サッチャー

さらにレーガンとサッチャーは、両国が目的意識を失っていた時期に、明確な政治的リーダー

シップを示し、国を誇りに思う気持ちを国民に取り戻させた。

アメリカはベトナム戦争の敗北から生じた無力感によるあきらめの気持ちから立ち直り、

イギリスは往年の帝国への健全な執着を断ち切った。

二人の性格は正反対であり、レーガンは快活で社交的であり、サッチャーは現実的でまじめ一

筋。なのでいつもレーガンがサッチャーの意見を進んで受け入れていた。

そんな対照的な二人だが、子どもの頃の生活環境の面では、国の首都や政治活動の中心地から

遠く離れた場所で育ち、商売人と縁のつかない生活を送り、プロテスタントの労働倫理観に傾

倒し、自分の役割を果たす義務があると考えていた。

サッチャーは子ども時代から保守派一筋だったが、レーガンは父親にならって民主党を支持し

ていた。

若きレーガンは、ラジオのアナウンサーとして職歴を開始し、イデオロギー面での信念はほと

んどなく、政界入りなどまったく考えていなかった。

ハリウッドの世界に入ったレーガンは、民主党のリベラリズムに苛立ちを募らせ、この党は共

産主義のシンパだらけだと考え、リベラル派は物事を大衆に有利に解釈しようとするあまり、

全体主義者をみずからの仲間として容認しかねないのだ、と思うようになった。

「共産主義者はその敵意に満ちた信条をたんなる若気の至りであり、一種の前衛思想、つまり

抽象絵画やコーヒーハウスでつくる詩のようなものだとして多くの人々をうまく攻め込んだ」

(レーガン)

一方のサッチャーも共産主義に対して次のように述べている。

「共産主義の力の拡大はわれわれの生き方全体を脅かすものである。いま必要な対策を講じれ

ば、この拡大を押し戻せないわけではない。

だが、生き残るための手段をむざむざ減らし続けるほど、遅れを取り戻すのは難しくなるだろ

う」(サッチャー)

この演説によって、ソ連側はサッチャーを「鉄の女」と呼ぶようになる。

サッチャー自身も、この呼び名を大変面白がり、満足していたみたいだ。

サッチャーの首相時代のハイライトは、ソ連を潰したこととフォークランドを奪還したことだ

ろう。

そのフォークランド紛争は、レオポルド・ガルチェリ将軍率いるアルゼンチンの軍事政権が、

自国での経済政策の失敗をごまかすために起死回生の機会を求め、フォークランド諸島へ侵攻

したことにはじまる。

ガルチェリは、軍隊に入隊する前はパナマの米州学校で土木技師になる勉強をし、共産主義か

ら自国を守ってくれる防波堤としてアメリカを頼っていた。

アメリカ側の多数の保守主義者たちも、ガルチェリを将来有望であり、南米での共産主義の影

響力拡大を阻止する戦いで盟友になり得る人物だと考えていた。

この時のレーガンは、アメリカの影響を強く受けていた独裁体制下の同盟国と、もっとも親し

い友人であるサッチャーとの板ばさみになっていた。

イギリスの味方をするべきだと考えていたレーガンだったが、この結論をだすのに二ヵ月以上

もかかってしまい、優柔不断なレーガンの態度をみたサッチャーは、何度となくレーガンに国

際電話をかけ、のちに後悔するほどの口調で苛立ちを直接ぶつけたという。

フォークランド奪還を検討するにあたりサッチャーや閣僚等の頭に浮かんだのは、アンソニー・

イーデンの前例だった。

イーデンはアメリカの事前承認なしに軍事力を行使を断交した最後のイギリス首相。

スエズ運河はエジプトのガマル・アブデル・ナセルによって一方的に国有化されていた。

一九五六年に、イーデンはフランスとともに、イギリスとフランスが共同所有するスエズ運河

を武力で解放することを決断する。

だが、当時のアメリカ大統領だったドワイト・アイゼンハワーに軍事行動の中止を求められ、

さもなければアメリカはイギリス通貨を意図的に切り下げると宣言され、脅された。

これを機会に第二次世界大戦中にイギリスとアメリカのあいだに築かれていた特別な関係は大

きく変化し、転換点になり、それ以降イギリスの立場は下降し、完全に回復しなかった。

サッチャーと閣僚等は、アイゼンハワーの最後通牒はイギリスの国家的屈辱を招いただけでな

く、イーデンが政権を追われ、健康状態も悪化した原因にもなったことを承知していたとい

う。

サッチャーはフォークランド紛争のあいだ、一歩間違えば首相の座を失うことを自覚してい

た。

だがしかし、イギリスがアメリカに頼らずに自国の利益を守ることを示し、イギリスがアメリ

カの傀儡ではないことを世界に知らしめることも国家再建の目標のひとつだった。

「サッチャーがレーガンに相談せず、彼の承認や同意も求めないままフォークランド諸島を軍

事力で奪い返す決断を下したことは、サッチャーとレーガンのあまりに親しい関係を批判し、

彼女を「レーガンの腰巾着」と酷評していた人々に対して重大な意味をもった」(本書)

サッチャーは、フォークランド紛争を次のように回想している。

「あのようなありふれた独裁者が女王の臣民を支配し、不正と暴力によって勝利を収める。

私が首相であるあいだは、そんなことは許されなかった」

サッチャーとレーガンは、自分たちが第二次世界大戦を直接知っている最後の指導者となると

考え、ヤルタ会談で承認されたヨーロッパの分断が残した問題について、解決を図るべきだと

いう思いを互いに伝え合っていた。

その問題とは、ソ連の衛星国になった東欧諸国の民主化を促進することだった。

ソ連の共産主義体制の崩壊はレーガンとサッチャーにとって大きな勝利であり、永続的な遺産

となった。

彼らは早くから、もし冷戦を終結させようとするならば、西側諸国はソ連に歩み寄るのではな

く、彼らと対決しなければならないと明確に見通していた。

それは西側諸国の首脳のあいだでは決して一般的な考え方ではなく、この二人が成功するかど

うかも明らかではなかった。

とくに、ヨーロッパでは、レーガンとサッチャーはあまりに好戦的すぎるというのが一般的な

評価だった。

彼らは悪の体制と自分たちが考えるものに対峙し、決して譲歩しないことが冷戦の終結をもた

らすと期待していた。

しかし、彼らのいずれも、ソ連のような一大帝国の全体がこれほど急速に解体するとは考えて

いなかっただろう。

『レーガンとサッチャー』ニコラス・ワプショット

レーガンとサッチャーを通して、本物のリーダーシップとは何か、ということを学べる。

ちなみに本書の中で、日本の首相の名前が一回も出てこない。それだけリーダーシップも無く

存在感が薄いということであり、ヘンリー・キッシンジャーが言うように

「日本の指導者は概念的に考えられず、長期的ヴィジョンがない」

ということも関係しているのだろう。

本書は、レーガンとサッチャーを比較し、相互関係を書いている。

著者のニコラス・ワプショットは、イギリスのジャーナリストであり作家。

その他の著作に『ケインズかハイエクか資本主義を動かした世紀の対決』などがある。