特定のイデオロギー関係なく、基地機能の面からみても「辺野古」はまずいのかもしれないね



日本側が危険性の除去を直ちに実行できなかったのは、まず、外務省も防衛省も担当者が海兵

隊航空部隊の運用に関する基礎知識を備えていなかったためです。

だから交渉など望むべくもなく、外交官にすぎない米国政府の担当者に「そんなことは不可

能」といわれただけで、唯々諾々と従ってきたのです。

危険性を除去できなかったのは、官僚機構にすべてを丸投げしてきた結果です。

政治が、官僚機構の能力を発揮させる取り組みをしてこなかったからでもあります。

『この1冊ですべてがわかる 普天間問題』小川和久

本書は、1996年(平成8年)4月、日米首脳会談に際して普天間飛行場の返還が合意された前後

から、当事者として普天間問題に関わりを持っていた(現在も持っているのかもしれない)、

軍事アナリストの小川和久氏が著したもの。出版は2010年。

現在でも選挙の争点になるくらい、迷走続きの米軍普天間飛行場の移設問題。

先の翁長雄志・前沖縄県知事の死去に伴う選挙でも、名護市辺野古への移設反対を掲げた玉城デ

ニー氏が、移設容認の立場に近い与党候補を破り当選したのは記憶に新しい。

その沖縄県知事に就任した玉城デニー氏だが、一番大きな問題は普天間をどうするのかなの

に、辺野古への移設反対を一生懸命唱えているだけで(最近では県民投票をしようとしているら

しい)、新しい案を提示することもない。

その証拠に宜野湾市長の松川正則氏も「(埋め立てに賛成か反対かという)二者択一では、普天

間の危険性(除去)という原点がない」と県民投票のあり方を批判している。

この先もさらに混迷を深めるのは目に見えているし、近年のメディアなどの論調でも、辺野古

に基地を造らせることが是が非かという話だけになってしまっているのも気懸かりでならな

い。

余談だが、ぼくの生まれは沖縄(育ちは関東)で、親戚も多く沖縄に居るので、小さい頃から米

軍基地(嘉手納基地など)を目にし、親戚や母親の知り合いなども米軍基地などで働いていた経

験もある。

米軍関係者(主に白人)だらけのプールにも、伯母さんに連れられて遊びに行った経験もしてい

るので、基地やアメリカの軍人に対しては、メディアが報じるようなネガティブなイメージは

抱いていない。ただ、ここまで迷走が続いているので、一旦自分の頭の中を整理しようと思い

本書を手にした。

米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)
2880mの滑走路を持ち、嘉手納基地と並んで沖縄における米軍の拠点となっている。

米海兵隊普天間飛行場(U.S. Marine Corps Air Station Futenma)は、沖縄本島中部の南よ

り、宜野湾市のほぼ中央を占めるアメリカ海兵隊の基地で、面積は480.5ヘクタールで、東京

ドーム(建築面積)の約100倍で、成田空港のほぼ半分の広さ。

戦争が始まる前は、村役場や小学校といくつかの集落があるだけであり、サツマイモなどを栽

培するのどかな農村風景が広がっていたという。

戦争末期の1945(昭和20)年4月1日、米軍は宜野湾村の北隣の北谷村の海岸に上陸し、1週間ほ

どで現在の宜野湾市域をほぼ制圧した。

その後、米陸軍工兵隊が宜野湾村中央部の平らな場所に、日本本土への出撃基地として使う飛

行場を建設する。これが普天間飛行場のはじまりとなっている。

戦争が終わり、避難先や収容所から住民たちが家に帰ると、一帯は強制接収され、米軍の滑走

路ができあがっていて、立ち入り禁止となり、54年には2400メートル滑走路が2700メートル

に延長され、地対空ミサイル・ナイキの基地が建設される。

60年には米空軍から海兵隊に移管され、海兵隊の飛行場となり、69年には海兵隊第36海兵航

空群のホームベース(根拠地)になり、72年(昭和47年)には沖縄が日本に返還されるが、このと

き飛行場、陸軍補助施設、通信所が統合され、現在の普天間飛行場となった。

ちなみに、沖縄県の面積は国土の0.6%にすぎないが、在日米軍専用施設面積の74.2%が集中

し、県内にある米軍基地の広さは県面積の10.2%(自衛隊基地は0.3%)、沖縄本島面積の

18.4%を占めている。(08年3月時点)


沖縄県外にある米軍基地の多くは国有地だが、県内にある基地の大半は民有地や市町村有地で

占められている。

普天間飛行場も面積の92%以上が民有地で、軍用地料(貸借料)は年間約65億円。

アメリカ側の負担を肩代わりして、国が地主約3000人に支払っている。

普天間飛行場は、海兵隊第3海兵遠征軍第1海兵航空団に所属する第36海兵航空群のホームベー

ス。

長さ2800m×幅46mの滑走路、格納庫、通信施設、整備・修理施設、倉庫、司令部、管理事務

所、部隊事務所、将校宿舎、消防署、教会、PX(売店),クラブ、バー、ボウリング場、診療所

なども備え、ほとんどの航空機を支援できる機能を総合的に備えているという。

この辺りのことは、沖縄県のホームページでも同様の内容で掲載されている。

普天間飛行場を使う部隊は、普天間飛行場部隊、第1海兵航空団、第18海兵航空管制群、第36

海兵航空群、第17海兵航空支援中隊など。

このうちの第36海兵航空群は、普天間に各中隊を配備し、上陸作戦支援、対地攻撃、偵察、空

輸などの任務にあたる部隊として、普天間飛行場で頻繁に離着陸訓練をおこなっているとい

う。

普天間飛行場に配備されている航空機(常駐機)は、ヘリコプターが36機、固定翼機が16機で合

計52機(08年時点)。

この辺りのことも、宜野湾市のホームページに詳しく掲載されているし、本書での小川氏の指

摘とほぼ同じ内容となっている。

アメリカの海兵隊は、国防総省内の海軍省に属し、予算や装備調達などは海軍省が担当してい

る。しかし、組織としては海軍から独立しているという。

海兵隊の総兵力は、2010年時点で18万7000人で、このほかに10万4000人の予備役がいる。

予備役を除けば、第1から第3まで三つの「海兵遠征軍」があり、第1と第2がアメリカ本国の東

西両岸に飛行場とセットで配置されている。

第1海兵遠征軍(カリフォルニア州・キャンプ・ペンドルトン)

第1海兵師団(同)、第3海兵航空団(カリフォルニア州ミラマー航空基地)、第1海兵兵站群(キャ

ンプ・ペンドルトン)

第2海兵遠征軍(ノースカロライナ州キャンプ・レジューン)

第2海兵師団(同)、第2海兵航空団(ノースカロライナ州チェリー・ポイント航空基地)、

第2海兵兵站群(キャンプ・レジューン)

第3海兵遠征軍(沖縄県うるま市キャンプ・コートニー)

第3海兵師団(同)、第1海兵航空団(沖縄県北谷町キャンプ・瑞慶覧(ずけらん))、第3海兵兵站群

(沖縄県浦添市キャンプ・キンザー)

海兵隊予備役部隊(ルイジアナ州ニューオーリンズ)

第4海兵師団(フロリダ州ほか)、第4海兵航空団(テキサス州ほか)、第4海兵兵站群(ジョージア

州ほか)

アメリカは第3海兵遠征軍だけを常時、海外に出し、唯一の有事即応部隊としていて、これが

沖縄にいる海兵隊。

中心となる部隊は、第3海兵師団、第1海兵航空団、第3海兵兵站群、第31海兵遠征部隊となっ

ている。

第3海兵師団の主力は、ハワイにいる第3海兵連隊、沖縄のキャンプ・シュワブにいる第4海兵連

隊と第12海兵連隊(砲兵)。

第1海兵航空団は、ヘリコプターと空中給油機を中心とする第36海兵航空群が普天間飛行場

に、戦闘機が主力の第12海兵航空群が岩国飛行場に、大型ヘリコプター部隊の第24海兵航空群

がハワイにいる。

第3海兵兵站群は、整備、補給、輸送、医療、工兵支援などをおこなう部隊。

第31海兵遠征部隊は、多種多様な任務や特殊作戦をおこなう部隊で、キャンプ・ハンセンに司

令部がある。

この辺りのことも、宜野湾市がPDFでネットにあげている。

第3海兵師団はほかの海兵師団と大きく異なっており、UDP(Unit Deployment Program)とい

う部隊配備プログラムを採用している。

この制度によって、沖縄にいる歩兵部隊、砲兵部隊、軽装甲車・水陸両用車部隊は、アメリカ本

土の基地との間で、ほぼ半年のローテーションで入れ替わっているという。

第3海兵遠征軍の定員は2万1000人だが、その司令部が沖縄にあるからといって、全員が沖縄

に駐留しているわけではないという。

さらに、有事の際には沖縄の海兵隊の人員が、(日本にいる海兵隊は1万2402人・08年時点)の2

~3倍以上に膨れあがる可能性があるとされている。

なので、これは、普天間基地の移設問題を考えるうえで、決して欠かせない視点だ、と小川氏

は指摘されている。

そして、もう一つ忘れてはならないのは、海兵隊は命懸けの勇猛な部隊で、海兵隊を頼りに

し、また誇りにしているアメリカ人が少なくないということ。

小川氏が接触してきたアメリカの当局者、とくに国務省の人たちは、海兵隊に対してたいへん

気を遣い、負い目すら感じているという。

その普天間飛行場が返還合意に至った大きなきっかけは、1995年9月4日に沖縄県北部で起き

た米兵による「女児拉致・強姦事件」。

小学生の女の子が、沖縄に駐留する米海兵隊員3人に手足を縛られ、車で連れ去られてレイプ

された。

容疑者らは、他の米兵を犯行にさそったり、レンタカーを借りて襲う女性を物色しており、

かなり悪質な犯行だった。

当時のモンデール駐日大使(副大統領経験者)は、「3人のけだもの(アニマル)による、言語道断

の、いまわしい事件」と言い、犯行を非難し、謝罪した。

クリントン大統領も謝意を表明し、日米地位協定の見直しを含む日本側の提案に応えることを

明らかにし、さらには、ぺリー国防長官、ナイ国防次官補、シャリカシュビリ統合参謀本部議

長などを相次いで訪日させた。

しかし、沖縄の人びとの怒りは一向に収まらず、沖縄復帰後最大規模といわれる県民総決起大

会が開かれることになった。

そこで日米両政府は95年11月、日米安全保障協議委員会の下に、

「沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会」(Special Actions Committee on

Okinawa 略称SACO)を設置し、沖縄にある米軍基地の整理・統合・縮小などについて検討する

ことになった。

この過程で日本側は、かねて危険性や騒音が問題になっていた普天間飛行場の返還を要求した

が、アメリカ側に拒否される。

しかし、翌96年4月の日米首脳会談の直前に、一転して返還合意に至ることになった。

その合意した内容はここでは端折るが、その後、代替施設の建設候補地はキャンプ・シュワブの

ある名護市東海岸に絞られたが、地元の反対が強く、自治体の同意がなかなか得られなかっ

た。

反対だった地元が動くのは、小渕恵三政権の99年4月、2000年7月に沖縄県名護市で沖縄サミ

ットが開催されると決まったときのことで、99年11月には稲嶺恵一知事が候補地を「キャン

プ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域」として受け入れを表明し、翌12月には名護市の岸本

健男市長が移設受け入れを表明する。

政府は、その見返りとして「北部振興策」を提示し、名護市を含む沖縄本島の北部市町村に10

年間で1000億円の特別振興予算をつけることを約束にした。

これとは別に、基地がある市町村には、10年間で1000億円の特別振興予算が計上されてもい

る。

そして、小泉純一郎政権の2006年には、移設先の名護市辺野古の海を埋め立てV字形滑走路な

どを建設することでも一致し、22年度以降の移設完了を目指した。

しかし、09年の衆院選後に発足した民主党の鳩山由紀夫政権は、同飛行場の「県外移設」を模

索したが頓挫する。(本書はこの頃に出版されている)

13年12月に、仲井真弘多知事が辺野古沿岸部の埋め立てを承認するが、15年10月には、翁長

雄志知事が埋め立て承認を取り消す。

16年12月には、最高裁が翁長氏の承認取り消しを違法とする判決が出て、17年4月、政府が移

設先で護岸工事に着手。

18年3月、県が国を相手取り、移設工事差し止めを求めた訴訟で、那覇地裁が訴えを却下。県

が控訴。

同年8月に翁長氏が死去し、県が埋め立て承認を撤回、政府は移設工事を中断する。

9月に翁長氏死去に伴う沖縄県知事選で、辺野古への移設反対を掲げる玉城デニー氏が初当選

する。

以上が本書と新聞などをまとめた、現在までの普天間飛行場に関する一連の流れなのだが、

96年に返還合意されてから20年以上が経つのに、まだ解決できていないのは、さすがにまずい

だろう。

その辺野古への移設に対してアメリカ政府は、海兵隊の辺野古の移設先が狭くて有事の使用に

耐えないという意見を、無理やり押さえ込んだという背景がある。

ちなみに、グアムに沖縄の海兵隊8000人、その家族9000人を移転するという話も、インフラ

が整っていないグアムが不評だったのも押し込んでいる。

在沖縄海兵隊元幹部だったロバート・D・エルドリッヂ(もともとは日米関係を専門とする歴史学

者)の『オキナワ論』の中でも、

「辺野古は普天間と比較すると基地機能という面では問題だらけで、少なく見積もっても四十

~五十ぐらい問題点があると思われます」

と書かれているし、勿論その基地機能の面も重々把握していると思うが小川氏も本書の中で、

「美しい海を埋め立てて普天間代替施設の建設を強行しようとすれば、反対派は世界中から環

境保護団体を沖縄に集め、一大反対運動を繰り広げることすらできるでしょう。

つまり、辺野古の埋め立て案は、つぶれる怖れが大きく、現実的な案とは考えにくいのです」

(本書)

と指摘している。さらに別の箇所では、

「日本としては国防総省や海兵隊自体とも率直かつ高度な戦略的視点からの話し合いを同時に

進めておく必要があるということです。

このあたりの事情を、私たちは視野に入れて、海兵隊の許容できるレベルの移設案を提示し、

最終的に沖縄におけるすべての米軍基地問題の解決につなげていく必要があります」(本書)

とも指摘されている。


辺野古では、有事に必要な面積の40%ほどしかなく、滑走路も1800mで海側にせり出してい

る。

普天間の滑走路は約2800mあり、世界最大級の飛行機を使うことができ、海抜は95mとなっ

ている。

海兵隊の基地機能の事情や沖縄県民が心配する環境面を考慮すれば、辺野古(海側)ではない場

所のほうがよいのかもしれない。

小川氏は、96年(平成8年)までに普天間飛行場の移設構想を独自にまとめ上げている。

第1の柱として、普天間と同じ規模の海兵隊専用飛行場をキャンプ・ハンセンの陸上部分に建

設、第2の柱として、キャンプ・シュワブの陸上部分に軍民共用空港を建設、嘉手納基地のアジ

アのハブ空港化などの振興策によって沖縄を経済的に自立させるという2本立ての構想。

ハンセンとシュワブを合わせて普天間の15倍の広さがあり、この広大な敷地を利用し、海兵隊

専用飛行場と軍民共用空港を建設、あわせて嘉手納基地の性格をハブ空港へと変えていけば、

沖縄本島北部を中心に、巨大な雇用と新しい産業が生まれ、沖縄県全体が経済的に自立する大

きな足がかりとなるでしょう、としている。

その構想を進展させる条件も3つあげているが、

条件1 普天間からの危険性の除去 条件2 日米地位協定の改定

条件3 沖縄経済の活性化

現在も辺野古で移設工事が進められているが、最初にやらなければならなかったことは、現在

の危機を取り除く作業をすることだった。

そして、そのときどきで違っている、米軍による地位協定の改定であり、犯罪容疑者の米軍人

を日本の当局が逮捕・取り調べできるようにする。

有事は除き航空法を厳密に適用して低空飛行訓練を土、日、祝日にやらせないようにし、環境

面で事前の立ち入り調査を認めさせること。

沖縄経済の活性化に関しては、建設業の米軍関連施設への参入条件を緩和するなど、

を指摘されている。

ただ、先述したエルドリッヂ氏によれば、

「普天間では航空機と地上部隊が同じ場所に配置されているため、

米軍の「海兵空陸任務部隊(MAGTF)ドクトリン」に則して、海兵隊と共同で訓練することが可

能です。

配備されている航空機は多くが常時発進できる態勢にありますが、実際には運用日程や時間、

飛行ルートまで様々な規制がかけられています」

「米軍関係者の犯罪発生率は年々低下しています。

また、日米地位協定などの取り決めでは日本の捜査当局は基地外での犯罪の被疑者を逮捕・拘留

することができる上、日本側が起訴するまで米国の管轄下に置かれる被疑者については自由な

接見が認められています」

「日本に来る米軍関係者は犯罪には非常に敏感になっています。

日本の法律とルールを最大限で守らないといけなし、守れなかった者に対しては大きな罪が待

っている。ですから中には、沖縄には行きたくない、という隊員もいるほどです」

「基地内であれ基地外であれ、問題を起こしたら簡単に逮捕される。

彼らは沖縄に来る前からそう教え込まれていますから、支配者どころか、本当に気を付けて行

動しないと大変なことになりかねない、という意識を皆持っています」

という指摘もあるし、小川氏の『中国の戦争力』の中で海兵隊を論じている章があるが、その

中でも具体的なデータに言及しつつ、

「海兵隊が「荒くれ」だから「犯罪を犯す」のではなく、平均的なアメリカ国民が犯罪を犯す

のと変わらないか、むしろ低い比率であることを知る必要がある」

としていて、アメリカ側もかなり気を遣っているとういうことも理解しておく必要あるだろ

う。

「海兵隊の普天間飛行場の問題をうまく解決すれば、沖縄の至るところにある広大な海兵隊の

基地をかなり整理・統合・縮小することができます。

海兵隊は、シュワブとハンセンを最後まで手放さないでしょうが、その他の基地は何年後、あ

るいは「このような段階に達したら」返還交渉を始めると、書き込めばよいのです。

普天間の代替施設を無理矢理狭いところに押し込めてしまえば、海兵隊は「もうほかの基地に

関する交渉には応じない」と態度を硬化させるかもしれません。

だからこそ私は、普天間返還合意を沖縄の米軍基地問題解決の「突破口」とせよと主張してき

たのです」(本書)

無理矢理狭いところに押し込んだ辺野古では有事の際にも対応できないし、その他の米軍基地

問題解決の「突破口」にはならないのではないのか。

もう一度頭の中を整理し、考え直すのに本書は最適。

東京外国語大学教授で国際関係論、平和構築がご専門の篠田英朗氏が、

『現代ビジネス』のウェブで「日本人の多くが目を背けてきた「沖縄の運命」とはなにか」

と題して、次のように述べているのも印象深く、本書の中で小川氏が指摘しているのと同じよ

うな論調だ。

「第二次世界大戦では激しい陸上戦が行われ、20万人とも言われるおびただしい数の人命が沖

縄で失われた。

沖縄戦のあまりの激しさは、アメリカの戦略に影響を与え、結局は本土侵攻が回避された大き

な要因となった。

1951年サンフランシスコ講和条約によって日本が主権を回復した際、沖縄は取り残された。

小笠原諸島の返還よりも遅く、沖縄の返還は1972年までずれこんだ。その間に、沖縄にはさら

に特別なアイデンティティが刻まれることになった。

1972年に「沖縄返還」が果たされた後も、沖縄は過剰な米軍の存在に悩まされてきた。

こうした特別な歴史を沖縄が持つのは、なぜか。

それは、沖縄が、地政学的に特別な性格を持っているからある。

朝鮮半島と中国本土を封じ込める形で日本列島から台湾につらなる南西諸島の中央部に位置

し、南西諸島で最大の面積と人口を持つのが、沖縄本島だ。

その地政学的な重要性は、地図を少し見るだけで、誰でも簡単にわかるだろう。

もちろんその重要性は、人類の技術力が低く、海軍力や空軍力がこの地域にほとんど存在して

いなかった時代であれば、違うものであった。

しかし19世紀以降、沖縄にふりかかる運命は、非常に苛烈なものになった。

特別な重要性を持つからこそ、沖縄は西太平洋と東アジアの覇権をめぐる太平洋戦争で激しい

戦場となり、アメリカは沖縄から撤退しようとはしないのである。」

さらに集団的自衛権とからめながら、次のように論じている。

「戦争時まで日本の一部であり、むしろ戦中に激しい陸上戦を繰り広げた沖縄は、当時まだ日

本に戻ってきていなかった。

それにもかかわらず、極東全体の安全をにらむ米軍の巨大なプレゼンスを受け入れ、日本の安

全保障にも大きく貢献し続けていた。」

最後に沖縄の未来についても言及している。

「沖縄が持つ地政学的な運命を、一部の人々は「自分だけは見ない」と宣言し、無視するかも

しれない。

しかし、あたかもそれが存在していないかのように振る舞うことは、残念ながら、問題の改善

にはつながる態度ではない。

沖縄が背負っているものを認知し、大きな構造的な見取り図を持ちながら、一つひとつの課題

に対する対応策を検討していかなければならない。

それこそが、沖縄という特別な運命を持つ地域について語るために、必要な態度だ。」

アメリカにとって沖縄は非常に重要で「太平洋の要石」(Keystone of Pacific)であり、

小川氏の言葉に直せば、沖縄だけでなく日本列島全体がアメリカの「戦略的な根拠地」(戦力投

射のための根拠地)であり、非対称ながらもっとも対等に近い同盟関係が日本とアメリカである

ということ。これは小川氏のその他の著作でも必ずといっていいほど言及されている。

そのことも理解せずに、勝手にアメリカに対して負い目を感じているようでは、うまく交渉で

きないし、何時まで経っても問題は解決できないだろう。

まず、そのことを改善すべきではないのか、と思っている。


本書は、軍事アナリストの視点、普天間問題の当事者の一人だったという視点から、

アメリカ側の戦略、海兵隊の運用面、日本政府や官僚の認識不足による不手際さ、

沖縄の未来に対して、などが論じられている。

特に、アメリカ側の戦略や海兵隊の運用面などに関しては、著者以外の日本人による「普天間

問題」を扱った本では言及されることはないだろう。

私は琉球放送の番組で

「当事者である米海兵隊を除けば、第一の責任は政府にある。しかし、責任は沖縄県民にもあ

ります。

危険だ、危険だと言いながら、普天間問題を政府に丸投げしたまま、8年あまりも危険から逃

れようとしなかったのですから、これを機会に沖縄県民自らの力で政府を動かし、危険の除去

を実現しなければ、当事者意思に欠けると言われても仕方がありません」

とお話ししたことを記憶しています。

『この1冊ですべてがわかる 普天間問題』小川和久

基地問題は日本の安全保障に深く関わるだけに、負担軽減は一気呵成にできない。

日米同盟に一定の評価をしたうえで、沖縄が引き受けるものと引き受けられないものを時間を

かけてちゃんと整理していく。

そういう作業なしには沖縄の基地負担は解決に向かわないだろう。

高良倉吉 琉球大学名誉教授 2013年4月から14年12月まで副知事

私がしばしば「NOKINAWA」(『反対』しか言わない沖縄)と呼ぶのは、

沖縄では何かにつけて日本政府やアメリカに「反対」するのが、一つの文化になっているから

です。

『オキナワ論』ロバート・D・エルドリッヂ

大戦略は、政治的、経済的、軍事的資源を動員し、死活的な国益をも保障するものでなければ

ならない。

『日本防衛の大戦略』リチャード・J・サミュエルズ