「最初に宗教・思想、つぎに商売、あとから外交、最後に軍隊」
ポルトガル・スペインを中心とした世界征服事業の時代(大航海時代)、
アフリカや南北アメリカ、アジアの大半が植民地にされたにもかかわらず、
なぜ日本は植民地にされずに生き残ったのか。
そして、なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか。
ポジティブな意味での「鎖国」を徳川幕府ができたのはなぜなのか。
さらに、家康がキリスト教禁教令を発布していたのにもかかわらず、なぜ伊達政宗は自国領に
於いて布教を認め、宣教師の派遣を要請したのか。
「本書では、秀吉・家康・政宗という、この時代を代表する三人の人物をとおして、
戦国時代から江戸時代への大転換を、外交関係を軸に描き出している。
こうした視点はこれまでの歴史学にはなかった」(本書)
日本に於いて、この時代に関しては、内と外がセパレートして語られる傾向が強いと感じる。
著者も「こうした視点はこれまでの歴史学にはなかった」と記しているが、
本書では、当時の国際情勢と国内情勢を切らないで繋げて綴られている。
なので内外の参考文献の量の多さに驚くし、ダイナミックに論を展開されている。
著者がこの時代に関心をもつようになったのは、仙台市史編纂事業として『慶長遣欧使節編』
の編集委長を委嘱されたことに始まるという。
平川氏の著作は『開国』(小学館)をパラパラと覗いたことがあるが、
本格的に目をとおすのは初めて。
秀吉の征明プランは、甥である関白秀次と侍女に書き送っている有名な二十五カ条の書状(朱印
状)がある。
1、このたび大明国を残らず支配し、秀次を大唐関白として都廻り一〇〇か国を渡す。
2、後陽成(ごようぜい)天皇を明後年、北京に移し、都廻りの一〇か国を料所とする。
3、日本帝位は良仁(ながひと)親王か智仁(としひと)親王のいずれかとする。
日本関白は羽柴秀保(ひでやす)か宇喜田秀家のいずれかとする。
4、高麗は羽柴秀勝か宇喜田秀家に支配させ、九州は羽柴秀秋をおく。
5、秀吉自身は「日本の船付き寧波府」に居所を定める。
6、先鋒の衆には天竺近くを与える。以後は天竺を切り取るべし。
(著者の要約)
後陽成天皇を北京に移し、大唐の関白には秀次を就任させる。
日本の帝位は良仁親王(若宮)か智仁親王(八条宮)に継いでもらい、関白職には羽柴秀保(秀次の
弟)か宇喜田秀家を就かせる。
朝鮮には羽柴秀勝か宇喜田秀家らに統治させ、九州は羽柴秀秋に任せる。
秀吉自身は寧波に移住する。天竺(インド)も支配におけと。
それに加えて南蛮(東南アジア)やフィリピン、台湾や琉球も征服しようとし、朝鮮出兵とフィ
リピン(スペイン人総督)に対する服属要求は、ほぼ同時並行でもあり、インド副王(ポルトガル
人)にも威嚇的な書簡を送っている。
なんとも腰を抜かしそうな、だいそれた構想で、従来の理解では、
全国の統一を成し遂げ、私戦を禁止し、褒賞として与える土地が不足して、そのために海外に
新たな領土を求めた領土拡張説、政権内部や国内統治の矛盾を対外的緊張の創出で解消しよう
としたとする説、明国との勘合貿易の復活をねらったものとする説、明国が構築している冊封
体制からの自立を指向したとする説、明皇帝に代わって中華皇帝になろうとした野望説など
が、唱えられているが、著者は、たしかにこれらは、なぜ朝鮮や明国を征服するのかという理
由にはなっている。だが、なぜ南蛮や天竺までもが征服の対象になっているのかが説明されて
いるわけではないとして、当時の国際情勢と突き合わせて考察し、次のように述べている。
「秀吉がめざしたのは、世界最強国家スペインと対抗し、アジアを日本の版図に組み込んでい
くことだった。
言葉を換えれば、世界の植民地化をめざすスペインに対する東洋からの反抗と挑戦だともいえ
るだろう」(本書)
秀次に書き送っている書状に、秀吉自身は寧波に移住するとあるが、著者は、
「明国を押さえてシナ海交易を掌握し、ポルトガルの支配領域にまでにらみを効かすことがで
きる港市が寧波だったのである」(本書)
としている。さらに、
「秀吉の朝鮮出兵は、たんに日本と朝鮮との関係、あるいは日本と明国との関係だけで考える
べきではないということになる。
北京は天皇に預けて、みずからは寧波を居所とする。それが秀吉が明らかにしたアジア支配構
想の眼目であった。いわば寧波からアジアを支配するということである。
そのアジアの海には、デマルカシオン(世界領土分割)を国是として世界支配をねらうポルトガ
ルとスペインが姿を現していた。秀吉は、両国の野望を知っていた。
秀吉は生前に信長に、ポルトガルとイエズス会は日本を征服しようとしている、と話していた
からである」(本書)
結果的に秀吉の朝鮮出兵は失敗に終わるが、
「こうした秀吉の振る舞いは、スペインの前線基地マニラに恐怖感を与えた。
朝鮮出兵や明の征服計画を誇示し、さらにマニラ服属要求などを突きつけてくるのだから、
スペイン側はメキシコやペルーなどのように簡単に日本を征服できないことを次第に認識して
いくことになる。
つまり秀吉の国際的な軍事行動や強硬外交は、スペインの日本征服計画を強烈に牽制し、抑止
する効果を発揮したのであった。
秀吉以前までは、ポルトガルとスペインの勢力では布教・武力征服論が盛んだったが、秀吉段階
ではそれが不可能であることを悟った」(本書)
当時、世界最強を自負していた覇権国家であるスペイン(後にポルトガルも併合)に対して抑止
になり、朝鮮出兵後は秀吉を“Emperador”「皇帝」と呼ぶようにもなり(家康も)、
日本を“Imperio”や“Empire”「帝国」と国家の最上格として呼ばれるようになっていった。
そして、一五九八年に秀吉が亡くなると、国内で覇権を確立した家康は諸外国との関係を修復
するため全方位外交を展開する(山本七平はそこを褒めている)。
朝鮮に対しては、一六〇九年に慶長条約(己酉条約)を結び、明国とは勘合貿易の復活を求めた
が拒否され、正式の国交関係は結ばれなかったが、商人同士の通商関係は復活する。
また、東南アジア諸国とも積極的に通商関係を展開し、スペイン人が運航するマニラ船の関東
誘致にも積極的な姿勢をみせる。
家康はマニラのスペイン人が毎年、江戸湾浦賀に来航して貿易をし、日本人もメキシコに赴い
て通商をし、その航海用の帆船を造るために造船技師や職人を派遣してほしいと、フィリピン
総督に要請していたみたいだ。
さらに、遅れてやってきたオランダやイギリスとの関係も積極的に模索する。
一六〇〇年(慶長五)、オランダ船リーフデ号が豊後沿岸に漂着すると、家康はすぐに使者を現
地に派遣し、船長や乗組員を保護する。
そして、離日する時にオランダ総督宛の親書を渡し、これに応えて一六〇九年(慶長一四)にオ
ランダ東インド会社の船が入港し、平戸にオランダ商館が設置される。
イギリスとの関係は、そのオランダ船リーフデ号にイギリス人航海長のウィリアム・アダムスも
乗船していて、そのアダムスの仲介により、イギリスも平戸に商館を開設する。
後に家康が、イギリス人のウィリアム・アダムスとオランダ人のヤン・ヨーステンを外交顧問に
しているのは有名な話。
上述のように家康は、多国間通商を構築し、全方位外交を展開していた。
ただ、家康は秀吉と同様に、スペイン人が日本を侵略するのではないかと危険視していて、
さらには、いくつもの要因が重なり、スペイン人やポルトガル人、イエズス会などに対する嫌
悪感を強めていた。
そして、一六一二年(慶長一七)にキリシタン禁止令を出し、幕府領における教会の破壊とキリ
シタンの摘発に着手していく。
家康がスペインを冷遇し、両者の関係が険悪化したところに登場したのが伊達政宗だった。
政宗は、訪日していたメキシコ大使ビスカイノとフランシスコ会の宣教師でスペイン人のルイ
ス・ソテロに急接近する。
メキシコへの帰国船を提供するとともに、支倉常長をスペイン国王とローマ教皇のもとへ派遣
する。慶長遣欧使節(一六一三~二〇年)。
政宗は、仙台・メキシコ間の太平洋貿易の実現をはかろうとしていたらしい。
スペイン側は、貿易に応じる条件として日本におけるキリスト教布教の保障を求めていた。
そのため政宗は、仙台領の布教を容認し宣教師の派遣も要請して、スペインとの貿易交渉を成
功させたいと考えていたという。
このとき家康は、キリスト教禁令を発布していたが、スペインの植民地であるフィリピンやメ
キシコとの通商にもまだ期待を抱いていた。
家康が政宗の使節派遣と宣教師の招請を容認したのは、貿易が実現した場合、江戸湾にもメキ
シコ船(スペイン船)を誘致することが可能になるからである、と著者は指摘している。
それに加え、大阪に豊臣家が存在し、基盤が安定していたわけではなかったことも大きいと
し、さらには、地政学的な理由で、大阪と仙台に挟まれるのを回避するため、政宗の離反を防
ぐために、政宗の要望を入れざるをえなかった、ともしている。
ところが、支倉常長が通商交渉に失敗し、帰国した途端、政宗はキリスト教禁制を領内に布告
する。大阪の陣が終結したあと、謀反の噂が流れていたので、幕府の疑いを晴らすためでもあ
ると。政宗は以後、徳川将軍家を支えていくことになる。
「政宗の遣欧使節、すなわち政宗の外交の失敗こそが幕府による外交権の一元的掌握を可能に
したということができる。
その意味で伊達政宗の慶長遣欧使節は、戦国大名型外交の最後の事例であり、その失敗が近世
的徳川外交体制の確立に大きな契機を与えたといってよいだろう」(本書)
幕府がスペインと断交したのは、支倉が帰国してから四年後の一六二四年(寛永元年)のこと。
「日本に戦国時代が存在して大名たちが軍拡競争をおこない、それを信長・秀吉・家康が統一し
て巨大な軍事大国を一気に創出したからこそ、西洋列強からの侵略と植民地化を防衛できた、
という解釈も十分に成り立つ。
戦国期における国家権力の分散状況を信長・秀吉・家康の三代で克服できたからこそ、
日本は植民地にならなくてすんだのではないか、ということである」(本書)
武装中立で管理貿易(鎖国)を実現できたのも、軍事力が強かったから。(予想はつくが)
いつの時代も軍事力を過大評価してはいけないが、軽視してもいけないということだろう。
この時代にヨーロッパ(ポルトガル・スペイン中心)の連中が、外に飛び出してきた経緯は、
ルシオ・デ・ソウザ『大航海時代の日本人奴隷』の所で載せたが、本書も大筋同じ。
歴史の解釈は固定的でないほうがよい。歴史に対しては多様な解釈が可能だからである。
で綴じられているのも愉快だった。
本書は、第31回和辻哲郎文化賞【一般部門】(2018)を受賞されたみたいだ。