本書は、講談社選書メチエから二〇〇六年から二〇〇八年にかけて出版されていた『ブッディ
スト・セオロジー』(Ⅰ~Ⅴ)を全面改稿して一冊にまとめ、KADOKAWAから「完全版」として
出版されたもの。
第1章 宗教の構造―聖なるものと俗なるもの
第2章 世界について―マンダラ
第3章 ブッダについて―如来の誕生
第4章 空について―言葉のよみがえり
第5章 実践について―「否定の手」
本書は、「現代において、仏教思想はこれまでのものとは大幅に変わらざるを得ない。
今日の時代状況は急激に変化しており、伝統的な教説と相容れないことを取り入れる必要も生
まれてこよう・・・」などという書き出しから始まり、これらの現代の諸問題を考えながら、仏教
思想を総合的・体系的に捉えようとしている。
そして「行為の三要素(現状認識[世界観]、目標、手段)」という観点から仏教史を眺め、
仏教史を総括的に論ずるために「聖なるもの」と「俗なるもの」、「個人的宗教行為」と「集
団的宗教行為」、「浄なるもの」と「不浄なるもの」という基本概念を設定している。
私見だが、全体を端的にいえば、現代の問題に対して仏教は何ができるのか。これからの仏教
はどうあるべきなのか。ということを仏教史を踏まえながら示している。
かといって単純に断言するわけではなく、強引に強制しているわけでもない。
なので少々回りくどいようにも感じるが、本書の帯びに書かれている「思考の集大成」という
言葉には納得する。
断片的になりわかりづらいかもしれないが、以下、簡単に掻い摘んで載せた。
【宗教の構造―聖なるものと俗なるもの】
「聖なるもの」と「俗なるもの」の関係(オットー、エリアーデ、カイヨワ、デュルケム、
モースに触れている)と、宗教の類型、個人と集団の宗教行為、浄なるものと不浄なるもの、
儀礼の内化、「聖なるもの」の形などが述べられている。
いかなる宗教も「聖なるもの」と「俗なるもの」という二つの極の関係を、その構造の一つの
軸としている。領域を完全に二分するようなものではなく、両者の間には動的な関係が存在す
る、と著者はいう。
「聖なるもの」とは崇高、清浄なものだけではなく、死体に代表されるような不気味な非日常
的なものも意味し、非日常的で力があり不気味で、しかし魅惑的な時間や空間を含む。
逆に「俗なるもの」とは、非日常な状態のない平凡な時間や空間。
この二つの領域の間で宗教行為が行われている、と著者は指摘する。
インドの宗教、バラモン教思想史、ヒンドゥー哲学においては見解の相違があり、いくつかの
分派が生まれたが、一般に「聖なるもの」と「俗なるもの」の二極は、本来同一であるという
側面が強調されてきた。仏教でも、とくに大乗仏教においてはこの二極の同一性が強調されて
きた。
さらに「聖なるもの」という概念の他に「聖性」という概念の必要性も訴えている。
聖性(sacredness)という概念は、モノが「聖なる」意味を持つ場合に、「聖なる」力や「聖な
る」意味を、形のあるモノから引き離して特質や特徴として指し示す時に用いられるという。
「ヒンドゥー教や仏教の場合には、「聖なる」力と、神像とを明確には区別しないのである。
ところがユダヤ・キリスト教的伝統にあっては、神像を眼にした場合、この神像に「聖なる」特
質(聖性)が存在し、その性質を「聖なるもの」と呼ぶことはあっても、この神像自体は「聖な
るもの」ではない、と考えるのが一般的だ。
つまり、「聖性」と「聖なるもの」は違う、と考えられる。
一方、ヒンドゥー教や仏教や日本的な考え方では、究極的には区別されるものではないのであ
る」(本書)
この距離間によって、ヒンドゥー教徒たちは、この世界をシヴァ神が踊っている姿、クリシュ
ナ神が牧童女たちと戯れている姿、を考え、仏教徒たちは、世界が大日如来に姿に他ならない
と考えることができた。
この場としての世界そのものが「聖なるもの」に他ならないと考えるのは、仏教的な世界観に
おいては一般的なことで、古来「諸法実相」といわれてきた、と指摘する。
「仏教神学」(ブッディスト・セオロジー)においても聖性と聖なるものとの区別は明確ではない
という立場に立つ、としている。
【世界について―マンダラ】
ハイデッガーの「世界=内=存在」の世界の構造と仏教の世界、近代ヨーロッパにおける世界
やキリスト教の世界、ヒンドゥー教や仏教の世界、マンダラの世界を論じている。
「重要なことは、自分が世界の構造をいかに了解するかではなく、自分が他者の存在の意味を
いかに了解するかである。
ブッディスト・セオロジーにおいては世界が「浮かび上がる」のではなく、他者が浮かび上がり
世界は「沈む」ことが求められているのである」(本書)
仏教は人間の主体性とか尊厳をユダヤ・キリスト教伝統におけるように主張はしない。それでも
なお「聖なるもの」との交わりが可能である。そのような立場が、現代において具体的な力を
持ち得るか否かがわれわれに問われているのである、と著者は主張する。
「実在する何ものかではなく、神と呼ぶ必要もなく、世界の第一原因でもなく、しかも聖なる
ものの働きを可能にする立場こそ、ブッディスト・セオロジーが求めるものなのである」(本書)
神を伝統の中に持ち込もうとしたスピノザも、神について沈黙を守ったハイデッガーも、ヒン
ドゥー教や仏教の伝統に比べるならば、世界の外側に人格を持った聖なるものを見たいたと
し、仏教は世界の中にブッダを見ようとするのであると。
「ブッディスト・セオロジーは、近代科学が獲得した知の集積を取り込んだうえで、龍樹の空思
想や世親の唯識思想の現代的意味を探ろうとしている。
それは可能なことであろうし、またそうでなければならないのである」(本書)
「一五〇〇年の歴史の中で普遍的なマンダラの特質とは「そこに聖なるものの顕現があり、
しかも実践者としての自分がその中に入り得る世界であること」だといえよう。
「聖なるもの」の顕現とその顕現が存する場とが「縁起する」マンダラにおいて実践者(行者)
は行為をなすのである・・・」(本書)
「空なるもの」であるという前提に立ってマンダラという世界が成立し、永遠の根本実在とか
実存する神の姿というような考え方とは異なる立場に立つ。
「現代の仏教思想における重要課題の一つは、現実社会における人間の行為(生産活動、経済行
為、政治、教育等)を仏教が求める宗教的「財」(悟り、救い)とどのように関連づけるかという
ことである。
悟りや救いにとって、行為はいかなる意味で否定され、どのような意味で評価されるのかを明
確にすることはブッディスト・セオロジーの課題の一つである」(本書)
【ブッダについて―如来の誕生】
ブッダのイメージや行為、供養(プージャー)と帰依(バクティ)、ジャータカ物語と仏の三身、
死と浄土などが語られている。『ブッダからほとけへ』で論じられていたことでもある。
「仏教において行為(業)は一般に否定されるべき「俗なるもの」であった。だが、行為こそ
「聖なるもの」を生む力を持つものなのである。
少なくとも仏教においては人間の行為の他に「聖なるもの」を生むものは考えられていない。
もちろん日常の「俗なる」行為がそのままで、つまり、何らかの宗教行為的行為もなく「聖な
るもの」となることはない。
「俗なるもの」の否定によってこそ「聖なるもの」は可能となるからだ。
仏教において行為(業)の否定が強調されるのは、行為を完全に無くしてしまおうというのでは
なくて、俗なる行為を聖なる行為として蘇らせたいからに他ならない。
その意味では行為は潜在的に「聖なるもの」である」(本書)
仏教がインド亜大陸から消滅した理由の一つは、仏教が「行為」に対して社会的に積極的な評
価を打ち出すことができなかったことにあろう、とも指摘する。
「・・・人々は、危機の時代に遭遇すると、自らの宗教実践や儀礼の刷新のエネルギーを「聖なる
もの」の意味の泉である図像や儀礼から汲み取ろうとする。
今はそのような時代だと思う。人々はブッダのイメージを追い求めている」(本書)
【空について―言葉のよみがえり】
空については前回『空の思想史』をとり上げたが、ここでも龍樹や「自性」の重要性について
説明されている。
「インドから中国・日本に至る空思想の歴史は、おおまかにいえば「過程(手段)としての空」か
ら「結果(目標)としての空」へという道筋を辿ったということができる。
実践(手段)の過程を主として示す概念であった空が、むしろ実践の結果(目標、果)を示す言葉
となったのである」(本書)
【実践について―「否定の手」】
マックス・ウェーバーの方法から宗教的倫理における否定を考察し、空思想のおける「否定の
手」が現代に対して延びるべきか、未来の展望などが論じられている。
「現代の仏教―わたしのいう「ブッディスト・セオロジー」は、プロテスタンティズムとは別の
型の「世直し」を目指しているのである」(本書)
「空思想の有する「否定の手」は、単に個人的行為に延びるのではなく、空思想は集団行為に
も「否定の手」を延ばし、さらにその再生をうながす、と考えられないだろうか。
つまり、企業、自治体、国家などの集団が行う行為にも疑問をつきつけ、批判し、そして社会
の中でよみがえらせる作業もまた空思想の目指すところであると、思われる」(本書)
「わたし自身は、今日の人類の行為にかんしてもっとも必要なことは自分たちの有している欲
望を抑制することだと思っている。
そのような抑制に際しては仏教が培ってきた思想が重要なヒントを与えるであろうと考えるの
だ」(本書)
人間の欲望をいかにコントロールするかということが空思想さらには仏教の根本的な考え方で
あったが、その考え方が今日の世界において必要なのではないのか、というのが著者の主張。
さらには、空の思想は個人的なものだったが、それを集団の営みに対しても「否定の手」を延
ばすべきである、としている。
「「聖なるもの」とは人間が歴史の中で形成してきた意味であって、神などが人間に与えたも
のではない。その聖なる意味は「否定の手」によって人間たちの行為が浄化されたときに成立
する。このように仏教は禁欲的であるが実践的なのである」(本書)
なんでもかんでも市場の論理で決められることが多い昨今だが(「市場の手」)、それに対して
疲れることも多い。
巷では、強欲資本主義が云々と聞こえてくることもあるが、「否定の手」を延ばして見直す
べき時期にきているのかもしない。
本書の「はじめに」は二〇一九年二月六日に書かれたものだが、その日の朝に奥様を亡くさ
れ、その直後に書かれている。
「俗なる」世界が否定されたわずかな瞬間にかの目標は己のすがたを見せ、
そして再び否定行為の「向こう側」へとすがたを消してしまうのである。
この意味では、仏教徒には安住する「聖なる」場所は存在しないのである。
『仏教原論 ブッディスト・セオロジー 完全版』立川 武蔵