アメリカ人が思い描く日本は、この八十年間、カレードスコープのようにめまぐるしく変わっ
た。残虐で侵略的で軍国主義、人を平気で裏切る敵国だったのが、敗北すると従順で、茶道や
菊に彩られた魅力的な国に変わり、さらに、わが国の重要な権益や産業を脅かす陰険な略奪者
「ジャパン・インク(日本株式会社)」となり、さらにその後は、十年間の景気後退と政治腐敗に
まみれて、経済が機能不全の国に変わった。
この本は、こうしたカリカチュア(戯画)とステレオタイプの裏を見通し、「本当の日本」を理
解するよう、同胞のアメリカ人を導いた、一人の人間の努力をたどったものである。
ケネディ政権の駐日大使を務めた一九六一年から六六年まで、彼の使命は、懐疑的な日本国民
にアメリカを説明することだった。
そのために力を尽くしたがゆえに、エドウィン・O・ライシャワーは太平洋の両端で、賞賛さ
れ、嘲笑され、罵倒され、あげくのはてに無視された。
しかし、一九九〇年のその死後に起きたさまざまな出来事は、彼が最初から、ものを正しく見
ていたことを証明している。これが本書の主張である。
『ライシャワーの昭和史』ジョージ・R・パッカード
エドウィン・O・ライシャワー 元駐日アメリカ大使(1961年~1966年)
ライシャワーは、アメリカ人の宣教師の両親のあいだに一九一〇年に東京で生まれた。
十六歳まで日本で育てられ、アメリカのオバーリン大学とハーバード大学で学び、一九三〇年
代には、唐から日本に仏教を伝えた円仁の研究に勤しんだ。
第二次世界大戦では、陸軍将校として暗号解読者・翻訳者たちの養成にあたり、政策助言では、
天皇を保持しながら民主化するという占領計画の指針策定を補佐した。
戦後は、読みやすいと定評のあった歴史書『日本―過去と現在』(Japan:Past and Present)を
著し、数十年にもわたりアメリカの一般人の日本観を左右することになり、日本で影響力があ
ったマルクス主義の歴史学者たちの定説にも異を唱えた。
ハーバード大学に戻ると、ジョン・K・フェアバンクとともに、数世代のアジア研究者にとって
必須の教科書となる『東アジア―その偉大な伝統』(East Asia: the Great Tradition)と
『東アジア―その近代化』(East Asia:the Modern Transformation)を書き、ハーバード大学
でライシャワーが教えた学生の幾人もが、世界各地の大学におけるアジア研究の指導者とな
る。
ライシャワーのハイライトともいうべき業績は、一九六一年にジョン・F・ケネディ大統領から
駐日アメリカ大使に任命され、冷戦、キューバ・ミサイル危機、ベルリンの壁で多忙だったケ
ネディ大統領から米日関係の再構築を全面的に任され、その任務にあたり、日本の指導的なマ
ルキシズムの学者に正面から異議を唱え、 日本のオピニオン・リーダーたちと新たな対話への
道をひらいたことであり、二番目の妻であるハル・松方(松方正義の孫)とともに、「勝者」と
「敗者」という占領時代のメンタリティーを取り除き、対等で尊敬し合える関係へと変容させ
たこと。
さらには、沖縄施政権の返還に向けて環境を整え、アメリカの植民地みたいな状況になってい
た絶対的な支配を終わらせ、日韓関係の修復にも陰で支え、緊密な対中国関係の重要性も訴え
たこと。
しかし、大使時代の後半は、三つの不気味な出来事が暗い影を投げかけた。
ケネディ大統領暗殺。ベトナム戦争のエスカレーション。刺傷事件。
刺傷事件というのは、一九六四年三月二十四日に当時十九歳だった塩谷功和(しおたに・のりか
ず)に、錆びたナイフで脚を刺され、大量出血したこと。
近くの病院にすぐに運ばれたが、治療の際の輸血によりC型肝炎に感染してしまう(後年はその
後遺症に苦しみ、肝不全により七十九歳で亡くなる)。
ライシャワー大使は仕事に復帰するが、ベトナム戦争を拡大させていくホワイトハウスの政策
の誤りを確信していたが、公には戦争を支持しつづける苦しい状況に追い込まれる。
そして、一九六六年に大使の職を退いた。
その後は、ハーバード大学にもどり、日本について教え、執筆生活に入る。
日本については、つねに楽観論を示し、日本は安定した民主主義国であり、アメリカにとって
信頼に足る重要な同盟国であるという主張をくずさなかった。
ただ、日本のマルクス主義の歴史家やアメリカの新世代の学者たちからは、一斉に非難を浴び
る(前者は反米的なスタンスからで、後者はベトナム戦争反対の立場から)。
そして、一九八五年ごろまでに日本は、奇跡の経済を成し遂げ、アメリカの経済的な覇権を脅
かす規模にまで成長したが、ちょうどその頃、ゴルバチョフの改革のもと、ソ連の脅威は薄ら
ぎはじめていたのもかさなり、日本はアメリカの次なる敵だ、とアメリカのメディアに書きた
てられる。ジャパンバッシング。
そんな影響もあり、少人数のグループが、ライシャワーやその支持者たちは、日本政府につい
てキレイごとを言いすぎていている、などと批判し始める。
ライシャワーは最初はおもしろがり、とりあわなかったが、しかし、死の一年前の一九八九年
に、そのライシャワーを批判する(日本批判)カレル・ヴァン・ウォルフレン(『日本/権力の構造
の謎』で著名)と、ハーバードのラジオ局で対話し論破する。
その後、カレル・ヴァン・ウォルフレンは息巻いて書きまくるようになったという。
そして、日本のバブルがはじける二、三ヵ月前の一九九〇年にエドウィン・O・ライシャワーは
亡くなった。
ライシャワーの望みどおりに、家族は太平洋に近い丘に集まり、小型機で日本とアメリカを結
ぶ太平洋の海に灰をまくのを見守ったという。
以上が駆け足で眺めたエドウィン・O・ライシャワーの生涯。
著者は、大学院でのライシャワーの教え子であり、一九六三年~六五年まで東京のアメリカ大
使館でライシャワーの特別補佐官(カバン持ち)を務めていたジョージ・R・パッカード。
二〇〇七年には、旭日重光章を叙勲。
ジョージ・R・パッカード
何といっても、ライシャワーの生涯で一番輝いたのは、五年半務めた大使時代の前半であり、
本書の中でも「光り輝いたひととき」という章にしている。
そんなライシャワーは駐日大使に就任してから明確な目標を掲げていた。
日米関係から人種偏見と戦時中の憎しみを一掃し、文化的ギャップをなくし、二国間の不平等
を払拭しようと考えた。
「米日同盟は両者のためになると彼は確信した。
アメリカはそれにより、東アジアにおけるコミットメントを維持することが可能になる。
日本は、経済を立てなおし、あらたに民主的制度を強化する余裕をもつことができる、と思っ
た。しかし、彼のビジョンは安全保障条約の範囲をはるかに上回るスケールにおよんだ。
二国が、強力な文化的絆をきずき、東アジアにおける平和を維持し、地域における民主主義拡
大と繁栄を確保するために協働する、「イーコール・パートナーシップ」というビジョンを掲げ
たのである。ささやかな夢で満足できる人ではなかった」(本書)
ライシャワーは、在日米軍と米軍基地は、日本の軍国主義的傾向を抑制するために置かれてい
るという一部のアメリカ人の論には、同意していなかった。
日本国民が自分たちで民主的政府を運営していくことは間違いないとして、うまく機能するに
は時間と経験が必要だろうと考えていた。
アメリカの指導者たちには、日本を甘くみてはいけない、と教えようと心に決め、アメリカの
高官を日本の同等のクラスの人間と会わせるために努力をかさね、ケネディ大統領の来日も計
画していた。当時は現職のアメリカ大統領が日本を訪問したことは、まだ一度もなかった。
一方で、日本に対しては「インテリ層」に接触して、戦後、大学や知識人向け雑誌や、一部
マスコミにも浸透していたマルクス主義思想にとって代わる案を提示しようと決意していた。
(左前)ジョン・F・ケネディ大統領 (右前)池田勇人首相 (後ろ右から二番目)ライシャワー
さらにライシャワーは、日本にいるアメリカ人で軍人や外交官だけでなく、企業やジャーナリ
ズムの世界にいる人たちにもみられた「オキュペーション・メンタリティー」を取り除くことも
考え、行動した。
占領が正式に終了して九年が経っていた、一九六一年の時点でも、アメリカ人は依然として征
服者のごとく、日本人は被征服者のようにふるまう慣習が残っていた。
都市部には、在日米軍四万七千百八十二人おり、あいかわらず目立つ存在であり、上級の将校
は、最上の家に住み、豪華なホテルにわが物顔で出入りし、ホテルなどの施設を運営し、ゴル
フ・コースや郊外の行楽地を好きなようにしていた。
そんな状況に対して、ライシャワーは、一度も占領されたことのない誇り高い国に外国の軍隊
が駐留し、基地を置くのであれば、敬意と公平さをもって日本人を扱わないかぎり、摩擦を引
き起こし、同盟の終結を招きかねない、と考えた。
それからの五年半、なによりも力を入れたのは、双方に同格のパートナーであると説得するこ
とだった。
そして、沖縄にも着手し、ワシントンから正式の許可を得ずに、沖縄が日米関係における刺激
物になる前に、日本に返還するのが賢明である、と米軍の最上位の指揮官に説得する運動を独
自にはじめた。
当時の沖縄は、琉球列島弁務官のポール・W・キャラウェイ中将が大名のごとくふるまってい
た。著者は「軍事独裁体制」が敷かれていたと指摘している。
(左) ポール・W・キャラウェイ高等弁務官 (右) 大平正芳外相
それもそのはずで、八十二日間の沖縄戦で、アメリカ人の死者一万二千五百人、負傷者三万七
千人を出しており、米陸軍は征服して得たこの領土に対する支配権を手放す気がなかったとい
う。
「”おとなしい”人びとだと自分たちが感じている沖縄人を恐れる必要はないし、
緊密・友好的な対日関係が失われた場合の後退拠点として、米国は沖縄を確保しておくべきだ」
という言い分が今よりも強かったという。それは現在にも多少影響している見方だろうが。
ただ、ライシャワーの見方は違っていて、キャラウェイ中将には次のように苦言を呈してい
る。
「[キャラウェイは]ひじょうにユーモアがあって賢い人だが、どちらかというと、啓発されて
いないタイプで、政治的に、正式の教育を受けていないし、世なれしていない点はとびぬけて
いた。
自分が犯しているひどい間違いに気づかず、ただ、現地の人たちを怒らせて、結果として、状
況を悪化させているばかりだ」
ちょうどその頃に、来日した兄JFK政権の司法長官のロバート・F・ケネディ(ボビー)と親交を深
め、ライシャワーはケネディに、沖縄の自治拡大と、最終的に日本へ返還する方向へ米軍をプ
ッシュする必要性を説明した。
ケネディはそのことを理解し、直接ケネディ大統領に伝え、このことが、ライシャワーがワシ
ントンで影響力をもつ端緒になったという。
その一ヵ月後、ケネディ大統領は、琉球列島高等弁務官の統治下にある沖縄はいずれ日本に返
還されることを明らかにし、一歩を踏み出した。
ところが、高等弁務官のキャラウェイは、大統領の方針を公然と無視した。
だが、ライシャワーは国務省の支援を受けて反撃し、退けた。
一時、沖縄はベトナムの米軍を支える死活的に重要な基地とみなされ、返還は棚上げにされて
いたが、一九六八年十一月、地位を去るリンドン・ジョンソン大統領が、アメリカは沖縄を日本
に返還するという意向を発表する。
そして、リチャード・ニクソン大統領は、一九六九年十一月の佐藤栄作首相との会合で、日本の
繊維の対米輸出制限との引き換えに、沖縄返還に同意した。
一九七二年五月十五日、沖縄は日本に統合された。その為に環境を整え、尽力したライシャワ
ーの貢献度は計り知れない。ライシャワーは、
「日本の民主主義は・・・・・・米国製でもなければ、英国製でもなく、メイド・イン・ジャパンであ
る」
と一九六七年に書いてもいる。江戸時代に関しても当時の日本でマルクス主義者の見解とは反
対に、近代化の揺籃期であり、ゆるやかながら前向きの変化の時期で、静寂と秩序のある状況
下で、近代日本の経済的、社会的、知的基盤が敷かれたという見方をしていた。
この期間に日本には、かなり高度に発達した法律制度と、法的権利の観念、統合された複雑な
機構の社会、政府の搾取から保護されている比較的自立した商業共同体、企業家精神、長期的
な企業投資の奨励がみられると指摘して、心から日本を信頼していたのが理解できる。
一部のアメリカ人の中には、米軍と米軍基地は「ビンの蓋」として、日本の軍国主義や侵略に
対する抑止の役目を果たしている、との見方に対して、ライシャワーはこうした考えに異を唱
え、もしその姿勢をあらためなければ、日本国民からの抵抗で、同盟の未来が脅かされかねな
い、と主張してもいる。
そして、ライシャワーが駐日大使として、ワシントンにおける日本の重要性を高めたことで、
ライシャワーの後に東京へ派遣されたアメリカ大使は、いずれも格段に大物で有能な人物が選
ばれるようになる。
著者は、これほど豪華な顔ぶれのアメリカのリーダーを迎えた国はほかにない、としている。
そんなライシャワーだが、日本人へ三つのメッセージを残している。
第一は、英語学習の点での日本の弱さ
第二は、「日本人論」、ナショナル・キャラクターに対する病的なこだわりが根づよいこと
第三は、日本政府が、東南アジアで、その富と強さが保障するリーダーシップを発揮すること
「日本のことを外の世界に向けて代弁したり、他国民が日本について言ったり書いたりしてい
ることを直接知ることができるのは、ごくわずかな男女だけである。
・・・・・・これは世界の指導的な国としては耐えがたい状況である。
多くの日本人は基本的に、言語の高い壁のうしろで生活しており、たいていは他国民はその声
を聞くことはないし、海外から聞きたいと思うことだけにしか耳を傾けない。
これでは、易々とやりとりして、世界の他の地域と真の知的接触をするというにはほど遠い」
(ライシャワー)
最近では、アメリカの外交政策のコミュニティーの九十パーセント以上は、日本を「当てにな
る同盟国」とみているという。
その礎を築いた代表的人物がライシャワーだ、と言っても過言ではなく、これからの同盟を考
える上でも参考になるのが本書。
日本列島は米国の本土同然の戦略的根拠地(パワープロジェクション・プラットホーム)である。
日本の代わりに役割を果たせる同盟国は存在しない。
日本列島を失えば、米国は世界のリーダーの座から転落することになる。
だからこそ、日米同盟は米国にとって死活的に重要であり、
何があっても維持したい関係なのだ。
「同盟」は、大戦略を遂行し、勝利を獲得する上で不可避な選択である。
あらゆることには限界があるからだ。
どんな大国も、軍事力のみで勝ち続けることは不可能だ。結局は、世界すべてを敵として戦う
羽目に陥るからである。
今後の日本がどのような戦略を取るにしても、「同盟」の有効性は無視できないだろう。
それも、かつての日独同盟のようななばかりの「同盟」では意味がない。
そして、もうひとつ忘れてはならないのは、「同盟」という戦略は、しばしば不快で苦難を伴
うものでもある、ということだ。
著者は、ライシャワーの東アジア問題に関する功績を、ソ連問題に関するジョージ・ケナンに
匹敵するものだ、と指摘している。