夜桜を眺めれば大観。紅葉を眺めれば大観。不二を眺めれば大観が去来する。
振り返れば生々流転の横山大観が立っている。
本書の副題も「近代と対峙した日本画の巨匠」。
2018年は、横山大観生誕150年、歿後60年の節目の年。
それに伴い、東京や京都で大回顧展『横山大観展』が開催される。
最近、NHKBSプレミアムで再放送されたドキュメンタリー番組『天才画家の肖像 横山大観』
(2004)を観ていたら、最晩年(昭和20年)の大観が煙草を吹かし、酔っ払いながら飄々と次の歌
を口ずさんでいた。
♪ 谷中うぐいす初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい
錦小路ににしきはなひよ 錦の綴もきれきれに
たとひきれても錦は錦 よられよられてあやそ織る
そのドキュメンタリー番組の中では、最初の一節を歌った場面しか放送されなかったが、
この歌は、岡倉天心(大観の師)が東京美術学校校長を失脚させられ、
新しく日本美術院を創設するが、その日本美術院の院歌で、30代後半の天心がつくった
もの。
下谷の芸者たちの間でも歌われ、越後や京都でも歌われるようになったらしい。
大観は生涯この歌を愛していた。
横山大観 1868年(明治元年) ~ 1958年(昭和33年)
ぼくは、この大観が歌っている場面(数年前にも再放送されていた)を初めて観たときは、
背後に悲哀も感じたが、驚きと同時に腹を抱えて大声で笑ってしまった。
大観が滑稽にみえたのではなく「堂々男子は死んでもよい」と、飄々とこのフレーズを
口ずさんでいることに、戦前の教育と戦後の教育の隔たりを感じ、現在「人権、人権」と
やかましく唱えている連中がみたら、顔を赤くして憤慨するだろうと、想像すると非常に
可笑しくてたまらなくなったのだ。(バカにしているわけではない)
ぼくには、明治・大正・昭和の激動の時代を、気概をもって駆け抜けた、
大酒飲みの横山大観が魅力的に映る。
著者の古田亮氏(番組にも少し出演されていた)は、東京藝術大学准教授で、
専門は近代日本美術史。
2008年の「横山大観展」、2013年の「夏目漱石の美術世界展」などの企画展を担当され、
著作も『狩野芳崖・高橋由一』(2006年)、『特講 漱石の美術世界』(2014年)などがある。
最近では『日本画とは何だったのか』(2018年)を出版されている。
横山大観は、攘夷運動の最先端に立っていた水戸藩の酒井家で、
江戸を東京と改称した年の慶応四年/明治元年(一八六八)に生まれた。
酒井秀松、幼名は秀蔵、のち秀麿。
大観は後年、床の間に藤田東湖の書を掛けていた。
祖父は勘定奉行を務め経済に明るく、祖父の善熙(よしひろ)は大番組頭を務め、
父の捨彦(すてひこ)は、十代の頃に天狗党の鎮圧に保守派として参戦し、
下級武士として活躍した。
祖父の善熙は地図制作者としても活躍し、父捨彦も測量や地図製作の技術を身につけ、
維新後には、この道で生計を立てる。
明治三年(一八七〇)に、常陸太田に知行所をもつ親戚横山家の在所に居を移すが、
数年後には水戸に帰住している。
明治十一年(一八七八)五月、捨彦は内務省衛生局の雇となり、一家をあげて上京する。
大観、数え歳十一歳。
明治十四年(一八八一)に、大観は湯島学校を卒業し、東京府中学校に入学する。
このころに秀麿と名乗る。
明治十八年(一八八五)には、成績優秀により飛び級で半年早く卒業している。
十八歳になった大観は、父が工科系に進むことを期待し、自身も建築設計の道に向かおうと
考えていた。
だが、不手際が重なり、私立東京英語学校(現・日本学園)に入学し、
上野の図書館で英字新聞を読むことに熱中していたという。
「英語が当時の流行であり英語でもやっておけばいつかは役に立つと考えたからだ」
と大観は語っている。
後年、岡倉天心に連れられてインドやアメリカに行った際にも英語に不自由することなく
過ごし、晩年まで英語の雑誌を傍らに置いていたぐらい達者だった。
明治二十年(一八八七)十月四日、勅令により日本で初めての美術学校が創設される。
東京美術学校。
文部省専門学務局長の浜尾新(はまおあらた)が校長となり、岡倉が幹事に任命される。
明治二十一年(一八八八)、大観は母方の親戚である横山家の養子となり、横山秀麿となる。
そしてこの頃、英語学校を卒業してからの次の進路を模索していた大観に、
父の友人であり美校の書記だった今泉雄作(いまいずみゆうさく)から、
東京美術学校創設の話を聞き、画家になる決心をする。父は反対だったみたいだ。
大観は、英語学校在学中から半年間、洋画家の渡辺文三郎のもとに通い、
趣味の範囲で鉛筆画を学んでいたが、受験準備のため、
大観は神田小川町にあった日本画家の結城正明(ゆうきまさあき)の塾に通う。
結城は狩野芳崖や橋本雅邦などと共に木挽町にあった狩野家に学んだ画家で、
父の捨彦とも親交があった。
この受験準備中の時期に大観は、
小石川植物園内の一室で『悲母観音』を制作中だった狩野芳崖を訪ねている。
大観は後年、この一度だけの芳崖との時間を回想している。
明治二十二年(一八八九)、東京美術学校が開校。
前年に行った入学試験に無事受かり、第一期生として東京美術学校に入学する。
大日本帝国憲法が発布、教育勅語が発令され、日本で初めての金融恐慌が起こった年。
同期には、下村晴三郎(観山)、西郷規(弧月)、木村信太郎(武山)、
一歳下の菱田三男治(春草)らがいた。
絵画科の実習は、臨画、写生、新案などを行い、
「古画模写と新案による基礎教育が、その後の画家大観の目と手と頭とを培った」
と著者は指摘している。
大観は、晩年に『対談 回想の画業』と題して、文学博士の坂崎坦と対談しているのだが、
そこでは
「岡倉さんが、私共習っていた頃からよくお話になった言葉の中にね、いっさいの芸術は、
あらゆる芸術というものは、無窮を追う姿だ。
殊に絵画は感情を主とするのだから、世界最高の容姿を表わすのでなくてはいけない、
とおっしゃった。
世界一の絵をつくれというんです。ただつくる方法は、
岡倉さんもどんな方法をしてもよいから、古人の真似なしに創造でやれ」
と語っている。
大観は生涯「無窮を追い」、「世界一の絵」を目指した。
最晩年に外国人が大観のもとに訪ねた際には「世界一の絵をつくりたい」とも語っている。
それは師の岡倉天心に培われたものであり、その言に忠実だったと言えるのかもしれない。
著者も
「大観は、誰よりも岡倉の理想、岡倉の美の世界を語り、自らの制作態度の根本とした」
と記している。
さらに岡倉から「飛んでください。飛んだください」とよく言われていた。
「飛躍しろ」という意味。
古画を模写する時には
「三日間位はもう毎日それに向かってじーっと見つめているだけで、目をつぶっても、
目の中に原本がちゃんと出来てしまうまで三日はおろか、ものによっては一週間もかかる。
それから初めてあげ写しをする」
という方法を大観はとっていた。
ちなみに、この方法は、岡倉天心の考えか橋本雅邦の考えかは定かではないとしているが、
酒の飲み方は岡倉から学んだのは確かで、最晩年に作家の吉川英治に語っている。
学生時代の大観は、父から学費を出してもらえず、学費と教育費を捻出するため、
ペン画による理化学系の挿絵を描き、アルバイトもしていた。
そして、明治二十六年に東京美術学校を卒業する。卒業制作は『村童観猿翁』。
猿廻しの翁を橋本雅邦になぞらえて、童たちは同期の生徒の幼な顔を想像して描いたという。
村童観猿翁 1893年(明治26)
著者はこの絵を
「橋本雅邦から学んだ狩野派的な筆法というよりも、人物や彩色法は大和絵風を思わせ、
また牛や自然描写には図様の引用ではなく写生の基礎を感じさせる」
としている。
実技は優秀だったが、学科の成績が悪く、下から二番目という順位だったので、
橋本雅邦が助教授に推薦しようと思っていたが、学校に残ることはできなかった。
やむなく、新設された東京美術学校の予備校「共立美術学館」の館主となって、
初めての指導者として仕事し、糊口を凌ぐことになる。一ヶ月程だったが。
明治二十八年(一八九五)四月、今泉雄作が校長を務める京都市美術工芸学校の
予備科教論に呼ばれる。
学校での授業は竹内栖鳳に任せきりで、京都での大観は古社寺を巡り古画の模写に熱中して
しまう。この京都時代に「大観」と名乗る。
一説では『法華経』の観世音菩薩普門品にある「広大智慧観」によるとしている。
色々と問題もあったが、明治二十九年(一八九六)に岡倉の招きによって、
東京美術学校の図案科の助教授の職につく。大観二十八歳の時。
そして、翌年には、信州上田の儒学者滝沢規道の末娘、滝沢文子と結婚する。
この頃の大観は、『四季の雨』や『夏日四題』などの竹を多く描き、
日本絵画協会第二回共進会に初期の代表作『無我』を出品する。
無我 1897年(明治30)
著者は
「近代日本画の誕生が狩野芳崖の《悲母観音》にあるとすれば、この《無我》は第二の
誕生といってよい。それだけ日本画の近代化にとって、インパクトがある作品である。
ある意味では、芳崖の描いた嬰児が成長してこの童子になった、ともいえようか」
と芳崖との繋がりを強調して評価している。
明治三十一年(一八九八)三月十一日、岡倉は帝国博物館理事兼美術部長の辞職願を提出し、
さらに三月二十九日には、東京美術学校の校長も辞任する。いわゆる美校騒動。
この美校騒動から半年後、谷中初音に日本美術院を創設する。
冒頭で紹介した歌が、この時に岡倉がつくった歌で、初音とは研究所を建設した谷中初音町と
鶯の鳴声をかけたもの。
その流れで、日本美術院創立第一回展が開かれ、
そこに大観は『屈原(くつげん)』を出展する。
屈原 1898年(明治31)
屈原とは、中国戦国時代の楚の国の国政にもたずさわった政治家で、同僚から妬まれ左遷させ
られた人物。
その後は、長江や洞庭湖をさまよい、南下して汨羅の淵で投身自殺をしてしまう。
大観は画想をねるにあたって、島村抱月を訪ね、屈原に関する知識を学んだという。
言うまでもないと思うが、大観はこの屈原に岡倉を重ねて描いている。
さらに、この作品は、高山樗牛、坪内逍遥らが展開した歴史画論争を巻き起こす。
樗牛は『太陽』でこの作品を、
「時宣を得た画題、統一のとれた画面、感情描出の表現に成功した」と褒め、
「日本画の将来に一生面を開く」と評価したが、逍遥は「写実的ではない」と批判している。
尾崎紅葉は、
「たしかに〈奇怪な念〉を起こさせるが〈想〉をあらわそうとしている点に〈成功の緒〉を
見出し得る」と苦しい評価を下している。
そして、明治三十年代の半ば、西洋画を強く意識した朦朧体(無線彩色描法)の時代に入る。
浮世絵に顕著だが、従来は雨を線で描いていたが、大観らは空刷毛を用いて空気を描く描法に
到達する。
夕立 1902年(明治35)
岡倉天心が「空気を描く方法はないか」と投げかけ、大観らが相談して新しい技法に取り組ん
だと、大観は言っている。
著者は「大観と春草が率先して試みた無線描法は、日本美術院が世間に新しさを訴えかける
ひとつの方法だったことはたしかである」と記している。
「矢張此の展覧会での呼物になるやつは、院の中堅画家大観、観山、春草等の作だろう。
名をつければ縹渺體とか朦朧體とか言ひたいやうな作ぶりだけれども、
西洋画の所謂全体の色の根調といふものをやろうとして居る所と〈イムプレッション〉の
或る一面の現されて居る所とは感心する」(東京日日新聞)
世間にも最初は好評だったが、明治三十三年(一九〇〇)の展覧会あたりから
空気が変わっていく。
「線を離れて見やうといふ考えが余り応用され過ぎて居りはせぬか。
朦朧体などといふ批評の見えるのも畢竟急進主義より起こった欠点を批難したのであろう。
固より線を離れて見るのは宜しい。又是が日本画の一進歩を現す段階であらうが、
是と共に色彩の研究が必要である」(読売新聞)
「大いに印象派の油画を取りたる意ならむ。
波のさま空のいろ、実に白馬会的に遣りたる手際…」(報知新聞)
「人をお茶にしたような、ごまかしたような、とぼけたような、乙に意味深長なような、
考えたような、なぐったようなものばかり。
自分の一生の芸ならば、じっくりまじめに考えたらどうだ」
「雑種画を描き散らす」「化け物画」「泥画」「怪画」
などと罵詈雑言のオンパレード。
朦朧体・無線描法は風景画とは相性が良かったが、人物、花鳥などの表現には向かなかった。
世間からの風当たりが強くなり、悪循環に陥っていった。
それと並行して、明治三十五年(一九〇二)に、孔子、キリスト、釈迦、老子に囲まれている
『迷児』を描き、近代化に舵を切った新生日本の混乱していた思想・信仰状況をあらわして
もいる。
迷児 1902年(明治35)
その技法は、絹地の裏側から金箔を貼る「裏箔」で画面に微妙な光を与え、墨ではなく檜で
作った木炭を使い、洋画的な描法を試みている。
著者は「典型的な朦朧体とは言い切れない、特殊な作品である」としている。
大観も次のように述べている。
「当時の日本の思想界というか、信仰界というか、それはひどく動揺混乱しておりまして、
孔子の崇拝者もあれば、耶蘇信者もあり、仏教信者もあれば老荘信者もあるというふうで…」
そして、明治三十六年にインド旅行する。
それ以前の明治三十五年(一九〇二)春、大観、春草らは「真真会」という組織を作って、
会費一口二千円で作画するという募集を行い、集めたお金で西洋遊学しようと計画する。
新潟などに足を運び制作するが、朦朧体の悪評もあったのかもしれないが、
思うようにお金が集まらず失敗に終わる。
その年の暮れに、岡倉天心がインドから帰国し、
「横山さん、東洋を研究する気がありますか、それとも西洋をさきにしますか、
どっちですか」
と問われ
「できますなら東洋をさきに研究して、西洋はそのつぎにしたいと思いますが」
と申し
「それではインドへお出でなさい」
としてインドへ旅立つ。
当初の目的は、三年計画でティベラ王国の国王宮殿に壁画を描くことだったが、
その制作がイギリスの画家に依頼されキャンセルされてしまう。
失意の大観らは、コルカタやダージリンで展覧会を開催し(朦朧体やインド風の女性を多く
描いた)、資金ができると英国へ渡ろうと、ロンドンまでの切符も購入するが、日露関係の悪化
にともない日本に帰国することになる。約五ヶ月の滞在だった。
その間は、岡倉の友人でもあり、詩人のタゴールが大観らを世話してくれたみたいだ。
近年の研究では、インドの画家達が朦朧体に影響を受けて、真似た表現を試みていることが
わかってきたとしている。
このインド旅行のから帰国して数年後に、大観はインドを髣髴とさせる色彩豊かな
『流燈』(明治四十二年)を描いている。
流燈 1909年(明治42)
明治三十七年(一九〇四)二月十日、日本政府がロシアに宣戦布告した日に、
天心、大観、紫水、春草の四人は伊予丸に乗船し、アメリカを目指す。
有名なアメリカ遊学。
和服姿だったので、その様子はニューヨーク・タイムスでも報じられている。
物価も高く、懐が寂しくなってきたので、インドの時と同様に展覧会を開催し、資金を得よう
と試みる。
日本では朦朧体の画は、十円から二十円の値段でしか売れなかったが、アメリカでは二十倍の
値が付けられ、十数点が売れたという。
後年、大観がこの時のことを自慢げに語っている映像を観たことあるが、
嬉しそうで印象的だった。
その後はヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンでも展覧会を開催する。
西洋人に受け入れられたのは、朦朧体がホイッスラーなどの印象派のように捉えられていた
からだとしている。
月夜の波図 1904年(明治37)
明治三十八年(一九〇五)に帰国し、翌年には、日本美術院を茨城県の五浦に移転する。
大観、春草、観山、武山のそれぞれの家族も一緒に移り住み、世間からは都落ちと揶揄され
る。
「艱苦にみちた長いみちた長い歳月、特に私にとっては、
明治三十五年から大正二年までの十二年間というものは、
まことに苦しい、また語るに忍びない時代でした。
私はこの十二年間に八人の最も親しい者に死別いたしました」(大観画談)
明治三十五年(一九〇二)に妻文子が、三十七年に弟治楼が、三十八年には長女初音が、
四十年には父捨彦が、四十三年には妹なつ子が、四十四年には同志春草が、
大正二年(一九一三)には再婚した妻直子が、同じ年に、師の岡倉天心が相次いで亡くなる。
大観の九十年の人生のなかで、最も辛い時期にあたるのが、明治三十五年から大正二年まで
の十二年間。
著者は「春草の死から大観の特徴でもある『呑気さ』が次第に現れてくる」とし、
朦朧体から脱皮し飛躍した時期でもある。
明治四十年(一九〇七)から、お上が主催する展覧会「文展」などに出品し、
それらがあらわれている。
山路 1911年(明治44)
大正元年(一九一二)の第六回文展に出品された『瀟湘八景(しょうしょうはっけい)』は
夏目漱石が評論したことで有名。
「大観君の八景を見ると、此八景はどうしても明治の画家横山大観に特有な八景であるといふ
感じが出て来る。(略)
君の絵には気の利いた様な間の抜けた様な趣があって、大変に巧みな手際を見せると同時に、
変に無粋な無頓着な所も具へてゐる。
君の絵に見る脱俗の気は高士禅僧のそれと違って、もっと平民的に呑気なものである」
(文展と芸術)
瀟湘八景 漁村返照 1912年(明治45)
瀟湘八景 平沙落雁 1912年(明治45)
明治四十三年(一九〇一)に大観は中国を旅行し、湖南省の風景を実際に見ている。
そのとき描いたスケッチは、朝日新聞の一面に『清国所見』(明治四十三年七月二十二日~
八月二十三日)として、一ヶ月連載され評判にもなる。
個人的にもこの頃の大観の作品が好きだ。特に中国古典を題材にし、新しい技法で創発して
いるのがよい。
著者も「朦朧体以降の大観作品は、色彩、構図、筆到といった造型上の諸要素が音楽的リズム
をもって心に直接響くような、ある種の心地よさを随所に感じさせる」
と評価している。
大正二年(一九一三)、師であった岡倉天心が五十二歳で亡くなる。
四十代半ばの大観は、日本美術院を再び興そうと中心的なリーダーとして活動し、
岡倉の一周忌には、谷中に創建した研究所で開院式を行った。
そして、「再興記念展覧会」として、再興第一回展を開催し、そこで『荘子』「養生主篇」に
ある『游刃有余地(ゆうじんよちあり)』を出品する。
游刃有余地 1914年(大正3)
名人の包丁さばきを、道になぞらえたものであり、大観の理想をあらわしたものといえる。
後にこの画を、実業家の辰澤延次郎(たつざわのぶじろう)が高値で買い取っている。
この頃に大観は三度目の結婚をし(静子)、辰澤らが世話もしている。
大観が大きく飛躍する時期。
群生富士 1917~18年(大正6~7)
生々流転 1923年(大正12)
老子 1921年(大正10)
喜撰山 1919年(大正8)
夜桜 1929年(昭和4)
紅葉 1931年(昭和6)
「大正中期から昭和初期にかけて、大観芸術は実りの時期を迎えた。
この時期の大観は、《秋色》《喜撰山》《夜桜》《紅葉》など、日本の伝統的な彩色画に通じ
る系統と、《雲去来》《生々流転》《東山》《鸜鵒図(くよく)》《瀟湘八景》といった水墨画
の系統とを並行して制作している」(本書)
多くの人が大観といったら上述の作品を想起すると思うが、
それらの傑作や、富士もこの時期から少数だが描きあらわしている。
「東洋の絵には、それが名画である限り、東洋の哲学が示されて居る。
詩や禅や、さういふものを解せずして、古賢の画を評することは不可能である。(略)
葉末に結ぶ一滴の水が、後から後からと集まって、瀬となり淵となり、大河となり湖水と
なり、最後に海に入つて、龍巻となつて天に上る。
それが人生であらうかと思って、『生々流転』を画いた」(大観芸談)
『夜桜』は、昭和五年(一九三〇)ローマで開催された日本美術展のために前年に描かれた
もの。
その後は、皇室からも制作を請け負うようになり、彩管報国の時代に移り、敗戦まで国威発揚
の富士などを描く。
大楠公 1935年(昭和10)
神国日本 1942年(昭和17)
作品の売り上げを陸海軍に寄贈し、「大観号」と軍用機四機も製造され、
世間ではこのエピソードに批判的なのだが、個人的には戦争だったのでしょうがないと思って
いる。
毛沢東や蒋介石、フランクリン・ルーズベルトやスターリンも見てから判断しなければならな
い。
大観は、山梨県南都留郡の旭ヶ丘(旭日丘)で玉音放送を聞き、戦後の生活は熱海の別荘から
はじめる。負け戦となって戦犯容疑で取調べも受けるが無事だった。
マッカーサー夫人から制作依頼も受けるぐらい、GHQの連中とは良好な関係を築いていた
みたいだ。
敗戦から二年後に『四時山水』を描いているのが凄い。更に『生々流転』を再び描こうとして
いたらしい。八十歳近いのにそのエネルギーにも驚かされる。
蓬莱山 1948年(昭和23)
或る日の太平洋 1952年(昭和27)
戦後も『或る日の太平洋』などの富士を描き続け、米寿祝賀宴や記念展覧会が開催されたが、
昭和三十三年(一九五八)に九十歳の長い生涯に幕を閉じた。絶筆も『不二』だった。
そして、百日忌に谷中墓地に埋葬される。
大観も芳崖と同様「自己の志操を高尚にし、然る後、其技術を研究」
をモットーとしている。
「絵を描くには、筆でただ墨や絵具で描くだけでは駄目ですね。
人間ができないと。人間が表われるんですから」
と最晩年に語っているし、
「今の人には気魄がない」
と嘆いてもいる。
日本を背負って立ち、「無窮を追い」「世界一の絵」を目指し、
岡倉天心の理想を体現した、横山大観は近代の巨匠であった。
大観が示した方法や気概・気魄が現代人にも参考になるし、
継承しなければならないと思っている。
本書は
「大観が生きた時代、すなわち〈近代日本〉はすでに終わって久しい。
今、大観は懐かしみをもって迎えられ、また愛され続けてもいる。
しかし、時代はつねに動き、また繰り返されることもある。
大観作品は、これからの時代を映しだす鏡であるのかもしれない」
で綴じられている。
生誕150年、歿後60年の節目の年に大観が去来する。
目次
第一章 誕生 ― 明治前半期
第二章 苦闘 ― 明治後半期
第三章 躍動 ― 大正期
第四章 大成 ― 昭和初期
第五章 不偏 ― 戦後・歿後