今天下五大州中、亜墨利加(あめりか)・亜弗利加(あふりか)・亜[鳥]斯太羅利(おうすたらりー)
三州は既に欧羅巴諸国の有と成。亜斉亜洲とへども、僅かに我国・唐山・百爾西亜(ペルシア)
の三国のみ。
其三国の中、西人と通信せざるものは、唯我邦存するのみ。
万々恐多き事なれども、実に杞憂に堪えず。
論ずべきは、西人より一視せば、我邦は途上の遺肉の如し。
餓虎渇狼の顧みざる事を得んや。
― こんにち、世界五大州の中で、アメリカ、アフリカ、オーストラリア三州は、
すでにヨーロッパ諸国の所有となっている。
アジアで独立を保っているのは、わずかに我が国、中国、ペルシアの三国のみである。
しかもその国の中で、西洋人と通信を断っているのは、ただ我が国のみである。
はなはだ恐れ多いことであるが、実に心配この上ない。
私が言いたいのは、西洋人から見れば我が国は路上に置き捨てられた肉のような
ものだということである。
餓えた虎、渇した狼が、これを放っておくだろうか。
英吉利斯は智謀ありて海戦を長じ、鄂羅斯(からし)は仁政にして陸戦に長ず。
各々其長を挟み私利を争ひ、之を以て英吉利斯我邦に事を生ずれば、急、鄂羅斯に有。
― 英国は智謀にたけ、海戦がうまい、ロシアは仁政を施し、陸戦がうまい。
おのおの自国の優れたところを生かして、互いに私利を争っている。
そこで英国がわが国と事を起こせば、それはロシアにとって大変なことになる。
オランダが両国の間に挟まって術策を弄すれば、わが国の内政に害を及ぼすことになる。
江戸後期の画壇を代表する、優れた文人としての渡辺崋山は有名だが、
上述のように、当時の国際情勢にも敏感に反応し、さらには、海のイギリス、陸のロシア
などの特徴を掴み、グレート・ゲームに言及しているのには驚かされる。
ちなみに、「グレート・ゲーム」とは、
ユーラシア大陸の中央部から南下政策をとって拡張する大陸国家ロシア帝国に対抗して、
海洋国家の雄でありユーラシア大陸の外周部分での交易に巨大な利益をもつイギリスが
ロシアを封じこめる政策を取るという国際政治の構造のことを指す。
『国際紛争を読み解く五つの視座 現代世界の「戦争の構造」』篠田英朗
その他にも、西洋諸国に対して、
「国内では人間の生命を金貨や宝石のように重んじているけれども、
国外の人間に対しては人道にもとるようなことを公然とやっている」
と指摘し、蛮社の獄で連座したときには、
「思うに今日憂慮すべきは海外事情です。
西洋の学説を閉鎖すると西洋諸国がますます文明開化されてゆくのに、
わが日本はますます海外事情に暗くなります。
社会の上級の者が海外事情に暗く下級の者が明るくなると、
上級の者は海外事情を忌み嫌い、下級の者は過激化します。
そのことは百年後には多くの人々が知ることになるでしょう」
と手紙に記している。佐久間象山と同様に予言的思想家でもあった。
崋山は象山と知り合いで、象山が第一次遊学を終えて松代に帰郷するときに、
墨竹画を贈り、象山も崋山が蛮社の獄で獄中にあったときに激励している。
『渡辺崋山像』愛弟子・椿椿山作
渡辺崋山(一七九三~一八四〇)は、寛政五年(一七九三)九月十六日、
江戸の三河田原藩上屋敷の長屋で生まれる。
幼名は源之助、のち藩主から虎之助、ついで登(のぼる)を賜った。
諱を定静(さだやす)、字を伯登または子安、号を三十五歳ごろ崋山、
斎号を寓画斎、寓会堂、のちに全楽堂と称した。
父定通(さだみち)は、田原藩士で下役から側用人のちに年寄役に出世するが、
病身で、二十年の大病をわずらい、医薬のために畳・建具をのぞくほかは、
ことごとく質に入れるというありさまだった。それに家族も多く、定通は八人の子に恵まれ、
祖母も健在だったので、十一人の大家族であった。母は河村氏、名を栄。
食い扶持を減らすため、兄弟の大半が幼いうちに奉公や養子に出され、
その大部分は貧死同様の死にかたをしている。
崋山は八歳で、藩主の世子のお伽役(とぎやく)となり、十二歳のとき、日本橋辺で、
備前池田候の行列の先供につき当たり、打ちのめされる。
この理不尽に憤慨し、学問を志して藩儒の鷹見星皐の門に入る。
だが、一家の貧窮を救うには学問よりも画師になることを進められ、
文化五年(一八〇八)十六歳のときに、白川芝山に入門するが、破門になる。
その後は、金子金陵につき、その師の谷文晁に学ぶ幸運に恵まれる。
そこでは、写山楼と呼ばれるアトリエで南画の構図、筆法を研究し、内職のため
百枚わずか銭一貫文で売る初午の灯籠画などを精力的に描いた。
その時を回想した崋山の言葉も残っている。
「寅(午前四時)に起き、丑(午前二時)に臥し、画を学び、これをひさぎ、以て生計を助く。
誰か知らん燈下に貧を救い、一に父母を希養せんことを念ずるを」。
十九歳以降は、幕府の林家塾頭だった佐藤一斎に学び(約三十年間)、
三十三歳からは同じ林家考証学派の松崎慊堂(こうどう)に師事する。
『佐藤一斎像』(文政四=一八二一) 渡辺崋山
『松崎慊堂像稿本』(文政十一=一八二八) 渡辺崋山
崋山は、かなりの読書家で、万巻の書を読みを理想に掲げ、
「知が浅ければ画も俗になる」として、
「蘇東坡が『画を作るに形似を事とす。見は児童と隣(ちか)し』と言っているのは、
このことを指しています。もっぱら風趣・風韻ばかりを目ざすと、非写実的な概念ばかりの
空虚な山水画を学ぶことに陥り、拙を雅となし怒気を韻と錯覚する過ちを犯すことに
なります」。
「おおよそのところ画作の基本は点と線、角と円、形と実質、平面と立体、横線と斜線、
曲と直、単浅と畳深(じょうしん)、遠と近、大と小などから構成されており、
一つの方法をもって万事を制し、少数の規則で多数を統御することを目ざします」
などと、後年の手紙に記しているが、明清画、宋元画をも研究し、文人として画業にも努め、
滝沢馬琴などの師友とも交わり、内職にも精を出して貧窮を救い、
両親を安堵させようと精を出す。
三十歳前後から西洋画の技法を研究し、陰影法や遠近法をとりいれて
『佐藤一斎像』や『四州真景図』などの傑作を描く。
三十六歳で御用人となり、
三十九歳のときには、蘭学者の高野長英、鷹見泉石、小関三英と親交を深め、
天文学・地理学・医学・本草学・兵学・政治学・教育学などの西洋の幅広い学問に開眼する。
ちなみに、幕府は寛政二年(一七九〇)に朱子学を正学と定め、他の学派を斥ける
「寛政異学の禁」の布告をだしているが、実際に禁止にされることはなかった。
天保三年(一八三二)四十歳で江戸詰家老に就任し、海防事務掛という役目柄、各地を旅し、
国外の情報も幅広く収集、考察し、天保七年(一八三六)の藩主三宅康直宛ての手紙も
残されている。
「上下の情が通じない身体では、手足がしびれて感覚のなくなる病気のような
状態になります。
このように民を虐げ苦しめる政治になるのは家老の不行き届きとは申すものの、
実は殿様の治政にお心がこもっていないことから生ずるのです」。
田原藩は、渥美半島のつけ根にあり、風害をうけやすく、痩地や砂地が多く、
生産力が低かった。
藩政を担当しながら「尚歯会」という有識者のサロンみたいなのも作り、
天保八年(一八三七)に起きた、モリソン号事件などを論じたり、政治や文化の
情報交換をしている。
危機感を抱いていた崋山は、
天保九年(一八三八)に『西洋事情書』『鴃舌或問(げきぜつわくもん)』、
有名な『慎機論』(機ヲ慎ム、「兆候に備える」の意味)を著す。
(刊行はされなかったみたいだが)
この頃の三宅友信宛に書いた、面白い手紙も残されている。
「見たこともなかったウェーンをいただき、有難く賞味させていただきました。
これは葡萄酒であると思いました。恐縮ながら少々水で割った品か、
もともとうす味の酒なのかは判断しかねますが、まだこれより少し濃いめの品もあり、
苦味もきつそうです。
私は非常にえり好みする傾向が強く、このまま飲むのは好きでないので、
砂糖を少し加えてかき混ぜ、沸騰した湯を適当量注ぎまずと、
第一に葡萄の味と香りがよく出て、すばらしいものになります。
西洋人も薬用や滋養のために飲む場合は、このようにするそうです」。
「とにかく私が葡萄酒を用いるのは、日長の夏の昼寝の前、寒い夜の読書に疲れた時などで、
大いにその効能を感じます。呼気や血流の循環がよくなり、まことに有難いものだと切に
思います」
と、ワインを口にしている。
そして、天保十年(一八三九)に崋山は、突然幕吏に逮捕される。
逮捕の容疑は、
(一)外国の学問を盲信している (2)無人島(小笠原諸島)密航の計画 (3)大塩平八郎との内通
取調べの結果、無実であることが証明されるが、
家宅捜査により押収された未定稿の『慎機論』と『初稿西洋事情書』に、
幕政批判の文言が見られることが、罪科の決め手とされることになり、蛮社の獄に連座する。
その『慎機論』の最後に、
「賄賂で立身した成り上がり者ばかりで、その中で分別があるのは儒臣だけであるが、
その儒臣もまた視野が狭く、大を捨てて小を取るような者ばかりである。
結局、誰もが事なかれ主義の世界となってしまった」
などと、幕府の体質を批判していた。
多くの友人や弟子たちが、救命に奔走し、死罪はまぬがれ田原に蟄居となる。
崋山は、その前年に、蔵書千四百五十冊、書画二十余幅、法帖を藩主に献上し、
退役願書を提出している。
理由は「心身ともに衰弱し、藩務に堪えがたい」としているが、
もしかしたら、自身に危機が迫っていたのを薄々感じていたのかもしれない。
獄中で、その時の心境を書いた、弟子の椿椿山に宛てた手紙が残されている。
「私自身は夢を見ているような気持ちです。何かの間違いとは思いますが、
真相はまったくわかりません。
どちらにしても(蘭学者弾圧のために)でっちあげた事件と推察されます」。
門弟の市野権平などに宛てた手紙にも
「私の入獄はまったく讒言(ざんげん)により生じた禍で、まず容疑の件の無実は
明らかになりました。
でも家宅捜査によりつまらぬ原稿を押収されたために、昨日その関係で吟味を受けました。
その結果、私の考えますに幕府政治の批判と外国崇拝の罪名を着せられることに
決まったようです。
そうなると軽くても遠島への流罪か、どこかの藩へお預けの身になるか、そのどちらかの
判決が下ると存じます。
事ここに到って私は本当に恐れています。妻子とは一生逢えなくなってもよいのですが、
老母にだけはせめて終生お仕えしたいと考えています。
それ故、どうか“お預け”の判決、それとも在所の田原藩への“お預け”となるよう
願っています。でも、それはたぶん難しいことで、老母と生き別れになりそうで、
そのことを一番恐れているのです。この胸中をお察しください」。
あさ縄にかかるうき身は数ならず 親のなげきをとくよしもかな
と、歌も残している。
そして、死罪はまぬがれたものの、田原幽居となる。
そこでは、
「その昔、吉田兼好が『徒然草』で『配所の月罪なくて見る』と書いたことを、
心の中で物語を聞くように思い浮かべ、庭先に見える月を見ています」。
として、
八月十五日夜、雨降りければ
名にしあ(負)ふ秋は今夜とま(待)つかい(甲斐)も 涙に似たる軒の村雨
十六夜の月を見て
なぐさむる雲ゐ(居)の月の影なくば 秋のこころにいかでた(耐)へまし
秋虫思
夕露の草葉にかかるほどばかり あ(在)りたる世とも思うべきかな
歌や漢詩、山水画などを残し、天保十二年十月一日の朝、自刃する。四十九歳であった。
『月下鳴機図』(天保一二年=一八四一) 渡辺崋山 (遠近法・陰影がみられる)
江戸の崋山宅に居候していた、愛弟子の金子健四郎に宛てた遺書が残されている。
「私がこのたび自殺を決意した理由は、福田半香が私の家計を援助するために開いた
画会が発端となって、ご公儀の取り調べを受ける形勢となったことです。
そうなると主人(田原藩主・三宅康直)の身にも危難が及ぶことになりますので、
自殺を決意した次第です」。
弟子の椿椿山宛ての遺書では、
「数年の後に世の中が一変すれば、私の死を悲しんでくれる人も居るでしょうが」。
崋山は、終生母のことを気にかけ律儀な人だった。
勝海舟も『氷川清話』のなかで、
「渡辺崋山。温順な男で、何もかもよく出来た人さ」
と、書画・俳諧・漢詩・儒学・博物学・蘭学などの分野に堪能だった崋山を評している。
江戸後期画壇を代表する、すぐれた画人であるばかりでなく、他方田原藩の家老として、
危機にひんした藩財政の建て直しをはかり、あるいはまた蘭学をまなび、
これを通じてアヘン戦争前夜の対外的危機状況を的確に把握し、
幕府の鎖国政策を批判して、蛮社の獄の悲劇を招いた。
『渡辺崋山』佐藤昌介
言葉は物よりも重く、一生かかっても使いきれないものです。
渡辺崋山