2017年の秋に東京国立博物館で、これまでで最大規模の特別展『運経』が開催され
大きな反響を呼んだ。
ぼくも知り合いに頼み、チケットを入手していたが、都合上、足を運ぶことが出来なかった。
昨年、一番後悔したことかもしれない。
本書は、興福寺国宝館館長、東京国立博物館に長年勤務した金子啓明氏が、
「これら運慶の活動のうち、本書ではとくに運慶が僧侶であり、
自分の私寺を創建するほどの強い仏教信仰者であったこと、
また具体的な造像活動を通じて、高僧などから影響を受けながら宗教体験を深めたと
考えられること、などに注目しながら、運慶の造形世界と宗教的な内実との関わりを
追求していきたい」
として著したもの。
それはタイトル通り、運慶の「まなざし」(内面)から考察されているので、
著者の独自の視点で、稀有な構成になっている。
(その他の運慶本はパラパラとしか眺めていないが)
なので本書は、対象を絞られているので、運慶の作品を網羅的には紹介されていない。
著者もそれを目的とはしていない、と述べている。
運慶が生きた時代は、殺伐とした時代であり、釈迦の法が消えた末法の暗黒時代であり、
戦乱が繰り返され、飢饉もあり、天災があり、政変もあった。
治承四年(一一八〇)十二月に平重衡(しげひら)の襲撃によって、
東大寺、興福寺などの奈良の寺院は壊滅的な被害を受けることになる。
この時、運慶は奈良にいたと考えられる。
彼は平城京以来の古典的な仏像の名作の数々が焼失したことに、
強い衝撃を受けたに違いない。
東大寺大仏も焼け、興福寺は主要伽藍の堂宇が全滅している。
『運慶のまなざし』金子啓明
運慶の生年は明らかでないが、
承安三年(一一七三)に長男の湛慶(たんけい)が生まれているので、
運慶が生まれたのは、一一四〇年~五〇年代としている。
父は康慶(こうけい)で、鎌倉時代の彫刻界を先導した仏師。
運慶には六人の子がいて、湛慶、康運(こううん)、康弁(こうべん)、康勝(こうしょう)、
運賀(うんが)、運助(うんじょ)、と娘の如意(にょい)をもうけ、
いずれも運慶の後を継いで仏師となっている。
その平重衡らによって燃やされた、東大寺の復興を康慶一門が中心となって担当し、
興福寺の復興事業では、康慶が南円堂諸像の担当仏師に選任されている。
康慶と運慶の前には、平安後期に活躍した「仏の本様」と呼ばれ、
「法橋」という名誉ある位を与えられた、定朝という仏師の祖がいる。
その「法橋」は運慶らにも後に与えられる。
定朝は有名な平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像の作者であるが、
彼の没年は弟子の長勢(ちょうせい)と嫡子の覚助という二人の仏師が造仏界を
率いることになる。
長勢の弟子には円勢(えんせい)、長円(ちょうえん)など、
名前に「円」の字がつく仏師が輩出することから、この系統の仏師を円派と呼んでいる。
また覚助の弟子には院助、頼助がいたが、「院」の字がつく仏師が多いので
これを院派という。
円派と院派は京都で活躍したことから京都仏師とも呼ばれている。
『運慶のまなざし』金子啓明
康慶・運慶親子は奈良仏師の系統から出る。
覚助には院助らとは別に、もう一方の弟子として頼助がいた。
頼助は奈良の興福寺を中心に活動した。
頼助の子息の康助とそれに続く康朝(こうちょう)や成朝(せいちょう)の系統を
奈良仏師とも呼ばれている。
院政期には京都仏師が天皇、貴族などの寺院の造像で優位を占め、
とくに円派の力が強かった。
それに比べて奈良仏師は、康助が白河院安楽寿院や後白河法皇の蓮華王院など
京都の仕事も行ったが、京都仏師に比べるとはるかに劣勢であった。
この奈良仏師の系統から康慶・運慶親子が出る。
『運慶のまなざし』金子啓明
さらに、慶派が誕生する。
康慶は奈良仏師の康助の弟子であるが、康朝の子の成朝よりも興福寺での信任は厚かった。
運慶は康慶の子で、快慶、定覚(じょうがく)、定慶(じょうけい)などの康慶の弟子であった
と考えられる。康慶以後の奈良仏師は「慶」の字がつく仏師が多いので慶派ともいう。
『運慶のまなざし』金子啓明
その流れの中で、運慶は若い頃から父の仕事を見習いながら仏像制作の経験を積んでいた
であろう、と著者は推考する。
そして、この頃に父が受注した奈良の円成寺の大日如来像の制作を、
安元元年(一一七五)から翌年にかけて行う。
円成寺の大日如来像は、現存する運慶の仏像の最も古いものだとされている。
これは映像で見たことあるが、運慶らしいダイナミックさがない。
円成寺の仕事を始めた頃、運慶は僧侶として『法華経』の写経(『運慶願経』)を
発願している。完成は寿永二年(一一八三)。
運慶にとって『法華経』の写経には、いま一つの宗教的に重要な意義があった。
それは『法華経』「法師功徳品」(第十八)に書かれている功徳である。
それによると、写経を実践した人の心は浄化され、目、耳、鼻、口(舌)、皮膚(身体)の
五官と意識が清められるとされている。これを「六根清浄」という。
そして、それらの感覚は心が浄化されることで、天上の宇宙(大三千世界)から地上、そして、
六道の地獄まで、すべてを人間の感覚によって認識できるとしている。
人間が肉体の感覚器官を通じて、それを超える超感覚的な世界をも認識できるとする
ものである。
『運慶のまなざし』金子啓明
当然なのかもしれないが、運慶は当時を代表する僧侶と関係を持っていた。
東大寺再興の重源、興福寺再建の信円、東寺の大覚、高山寺の明恵、金剛峰寺の行勝、
興福寺に大きな影響を与えた貞慶など。
さらには、朝廷と鎌倉幕府の中枢の双方と関係をもった稀な仏師でもあり、
運慶が関係した寺院の数も多い。
奈良の円成寺、東大寺、興福寺、正願院、京都の六波羅蜜寺、東寺、神護寺、高山寺、
法勝寺、和歌山の高野山金剛峰寺、東国の静岡の願成就院、神奈川の浄楽寺と金明院、
栃木の樺崎寺、鑁阿寺、鎌倉の大倉新御堂、勝長寿院、愛知の瀧山寺など。
本書は、
「運慶のまなざしの先にはいつも『かたち』に対する信頼があり、それに対する疑いがない。
彼にとって彫像を作るということは、宗教的な理想像を『かたち』として体現することで
あった」
として、僧侶としての運慶を強調して綴られている。
そこに焦点をあてているので、稀有な構成になっている。
たまには重い腰を上げて、和辻哲郎みたいに古寺巡礼でもしようかな、
と思わせてくれた著者に感謝。
奈良・東大寺南大門 金剛力士像
快慶、定覚、湛慶とともに建仁三年(一二〇三)に造像
運慶の時代には、彫刻として制作された仏像は、かたちの中に生命があり、
魂の宿る「生身」の存在とみなされた。
仏像は聖なるものであるが人間と同じように生きており、その意味では魂が実在する。
いわば仏像の心臓は鼓動しているのである。
『運慶のまなざし』金子啓明
この時代の芸術は、奈良時代の理想化された完成も、藤原時代の洗煉された繊細さも、
ともに欠いているが、しかし、その線への復帰による気魄の強さと、
その描写の雄渾と力強さとによって、その特徴を発揮している。