あまりにも中国的な孫子の兵法 / 『孫子』孫武・孫臏(ぴん)



戦略は、日常生活の常識的論理ではなく、

戦略自体の特別な論理によって支配されている。

エドワード・ルトワック


本書は一九七二年に、山東省臨沂県銀雀山の前漢時代の墓から、

竹簡に記された『孫子』が出土したものを底本としている。

それまでは、宋代以前には溯れなかったが、

この発見により、千年以上も溯れることが可能になった。

そして、『孫子』は春秋戦国時代に呉の将軍として仕えた孫武の兵書と伝えられてきたが、

その出土した竹簡の中から、戦国中期の斉の威王(いおう)に仕えた孫臏の兵書も

含まれていたとしている。

司馬遷の『史記』孫子呉起列伝によれば、孫臏は孫武の末裔だという。

孫子は二人存在している。本書の「解説」に詳しい。


当然のことだが、中国では古くから孫子に多くの注解が加えられている。

現存する最古の注で有名なのは、

『三国志』の英雄・魏の武帝(曹操・一五五~二二〇)のもので、

「吾れ兵書・戦策を観ること多きも、孫武の著(しる)す所は深し」

と記している。

唐の詩人の杜牧(とぼく)も注釈を施しているのが面白い。

宋代(一〇八〇年)になると、

『六韜』、『司馬法』、『孫子兵法』、『呉氏』、『尉繚子』、『三略』、『李衛公問対』

からなる『武経七書』の一つとして称されるようにもなる。(日本でも)

日本で孫子といえば、武田信玄が掲げていた、

第七章『軍争篇』「兵は分合を以て変を為す者なり」での

「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」

「風林火山」の軍旗が有名だが、

孫子の書は、早くから日本に伝来していた。


(武田軍の陣頭に押し当てた軍旗「風林火山」)

田中義行の『孫子』によれば、

淳仁天皇の天平宝字四年(七六〇年)十一月十日に

春日部三関(さんせき)・土師宿禰関成(はじのすくねせきなり)等六人が大宰府に使して、

吉備真備に諸葛亮の八陣・孫子の九地・経営の向背を習わしめられたと続日本記にある。

吉備真備は遣唐副使として中国に渡ったことのある学者。

これから百年程後の平安時代になってからできた藤原佐世(すけよ)の日本国見在書目録には、

呉将孫武撰の孫氏兵法二巻、巨詡撰の孫氏兵法書一、魏武解の孫氏兵書三、

魏祖略解の孫氏兵法一等々と、孫氏に関する書が十種類ほどあげてある。

そして、徳川時代になってから孫子十三編の注解書がしばしば作られるようになる。

それは、徳川家康が慶長十一年に官版『武経七書』を刊行させ、

儒者が競って『孫子』に注釈を施すようになったから。

林羅山の孫氏諺解(げんかい)、新井白石の孫氏兵法釈、荻生徂徠の孫氏国字解、

上野白水の国字孫義䟽、佐々木琴台の孫氏合契、平山兵原の孫氏衍義、孫氏諸説折衷等、

佐藤一斉の孫氏副詮、吉田松陰の孫氏評註、山鹿素行の孫氏句読、孫子口義、

伊藤鳳山の孫子詳解、佐野琴嶺の孫子講義、松井蝸庵の孫子集解等々枚挙に遑がない。

あと、幕末の先駆的思想家でもあった、佐久間象山などもその中に含まれるだろう。

そんな『孫子』は十三篇からなっている。

第一章『計篇』  第二章『作戦篇』 第三章『謀攻篇』  第四章『形篇』

第五章『勢篇』  第六章『虚実篇』 第七章『軍争篇』  第八章『九変篇』

第九章『行軍篇』 第十章『地形篇』 第十一章『九地篇』 第十二章『用間篇』 

第十三章『火攻篇』

そして、ぼくが心惹かれたのは、第三章『謀攻篇』と第十二章『用間篇』。


二〇〇三年には、中国人民解放軍はいわゆる孫子の兵法にいう、

心理戦、法律戦、興論戦からなる、いわゆる「三戦」を

公式ドクトリンとして取り入れています。

『世界史の逆襲』松本太 (駐シリア臨時代理大使)


上のことは主に、第三章『謀攻篇』と、第十二章『用間篇』のことをいっている。

あまりに中国的な孫子の兵法。


第三章 『謀攻篇』 

実際の戦闘によらず、計謀によって敵を攻略すべきことを述べている。

戦わずして人の兵を屈する

「孫子は言う。およそ軍事力を運用する原則としては、敵国を保全したまま勝利するのが

 最上の策であり、敵国を撃破して勝つのは次善の策である。

 敵の軍団を保全したまま勝利するのが最上の策であり、敵の軍団を撃破して勝つのは

 次善の策である。…

 実際に戦闘せずに敵の軍事力を屈服させることこそ、最善の方策である。」

上兵は謀を伐(う)つ

「そこで軍事力の最高の運用法は、敵の策謀を未然に打ち破ることであり、

 その次は敵国と友好国との同盟関係を断ち切ることであり、

 その次は敵の野戦軍を撃破することであり、

 最も拙劣なんのは敵の城邑(じょうゆう)を攻撃することである。……

 それゆえ軍事力の運用に巧妙な者は、敵の軍隊を屈服させても、

 決して戦闘によったのではなく、敵に城邑を陥落させても、

 決して攻城戦によったのではなく、敵国を撃破しても、

 決して長期戦によったのではない。

 必ず敵の国土や戦力を保全したまま勝利するやり方で、天下に国益を争うのであって、

 そうするからこそ、軍も疲弊せずに、

 軍事力の運用によって得られる利益を完全なものとできる。」

小敵の堅なるは、大敵の擒(とりこ)なり

「そこで軍を運用する原則としては、自軍の兵力数が十倍であれば敵軍を包囲し、

 五倍であれば敵軍に正面攻撃をかけ、二倍であれば敵軍を分断し、

 互角であれば必死に敵と力戦奮闘し、

 少なければ巧みに敵の攻撃圏内から退却・離脱し、

 全く兵力が及ばなければうまく敵を回避して潜伏する。…」

彼を知り己れを知らば、百戦してあやうからず

「勝利を予知するのには五つの要点がある。

 第一に、戦ってよい場合と戦ってはならない場合とを分別しているのは勝ち、

 第二に、大兵力と小兵力それぞれの運用法に精通しているのは勝ち、

 第三に、上下の意思統一に成功しているのは勝ち、

 第四に、計略を仕組んでそれに気づかずにやってくる敵を待ち受けるのは勝ち、
 
 第五に、将軍が有能で君主が余計な干渉をしないのは勝つ。

 これら五つの要点こそ、勝利を予知するための方法である。

 したがって軍事においては、相手の実情を知って自己の実情も知っていれば、
 
 百たび戦っても危険な状態にはならない。

 相手の実情を知らずに自己実情だけを知っていれば、勝ったり負けたりする。

 相手の実情も知らず自己の実情も知らなければ、戦うたびに必ず危険に陥る。」   


第十二篇 『用間篇』

五種の間諜(スパイ)を駆使し、敵の実情を事前に探知することの重要性を説く篇。

敵の情を知らざる者は、不仁の至りなり

「かくも莫大な犠牲を払い続けながら、ただ一度の決戦に敗北すれば、

 これまでの努力がすべてが一瞬のうちに水の泡と消えてしまう。……

 だから、聡明な君主や智謀にすぐれた将軍が、軍事行動を起こして敵に勝ち、

 抜群の成功を収める原因は、あらかじめ敵情を察知するところにこそある。……」

 
間を用うるに五有り

「間諜の使用法には五種類ある。

 因間があり、内間があり、反間があり、死間があり、生間がる。…

 生間というのは、繰り返し敵国に潜入しては生還して情報をもたらすものである。

 因間というのは、敵国の民間人を手づるに諜報活動をさせるものである。

 内間というのは、敵国の官吏を手づるに諜報活動をさせるものである。
 
 反間というのは、敵国の間諜を手づるに諜報活動をさせるものである。

 死間というのは、虚偽の軍事計画を部外で実演して見せ、

 配下の間諜にその情報を告げさせておいて、

 欺かれて謀略に乗ってくる敵国の出方を待ち受けるものである。」

反間は厚くせざる可からざるなり 

「必ず敵方の間諜がいないか探索し、潜入してきてわが方の様子を探っている者がいれば、

 手づるに逆用してその人物に利益を与え、誘い込んでその間諜を自国側につかせる。

 こうするから、反間を獲得して諜報活動に使用できるのである。…

 この反間を情報源にして敵情が判明する。

 そこで死間に虚偽の軍事計画をでっち上げさせ、敵方に通報させることもできるのである。

 この反間を頼みの綱として敵情が判明する。

 そこで生間を予定通りに活動させることもできるのである。

 五種類の間諜による諜報活動は、必ず敵情を探り出すが、敵情が判明する大もとは、

 決まって反間の働きにある。

 だから反間は、是非とも厚遇しなければならない。」

明主・賢将のみ、能く上智を以て間者となし

「ただ聡明な君主や智謀にすぐれた将軍だけが、非凡な知恵者を間諜として

 敵国の中枢に送り込んで、必ず偉大な功業を成し遂げることができる。

 こうした間諜こそは、軍事全体の枢機であり、

 全軍がそれを頼りに行動する道標なのである。」

などとしている。まさに今、日本(世界にも)に仕掛けられていることでもある。

そして「上善は水の若(ごと)し」の老子もそうなのだが、孫子にも水の比喩が多い。

代表的なのが、

第六章 『虚実篇』

兵の形は水に象(かたど)る

「そもそも軍の形は水を模範とする。

 水の運行は高い場所を避けて低い場所へと走る。
 
 同じように軍も、敵の兵力が優勢な実の地点を回避し、

 敵の備えが手薄な虚の地点を攻撃して勝利する。

 だから水は地形に従って運行を決定し、軍は敵の態勢に従って勝利を決定する。

 軍にはできあがった一定の勢いというものはなく、

 決まりきった固定した形というものもない。

 うまく敵軍の態勢に従って変化することにこそ、これを神妙と称するのである。

 木・火・土・金・水の五行にも常に勝つものはなく、

 春・夏・秋・冬の四季にもいつまでも居座るものがなく、

 太陽の輝く昼間にも短い長いの推移があり、

 月にも欠けたり満ちたりの変化があるではないか。」 

驚くのは毛沢東も、

「不均衡から均衡へ、さらに不均衡へと、周期が無限にめぐる。

 しかし、どの周期もわれわれにさらに高度な発展をもたらす。

 均衡が一時的、相対的であるのに対し、不均衡は常態で、絶対的である。」

と、ある意味同じ世界観をもっていること。

『遊撃戦論』でも、

「彼我の戦力比が味方に不利な第一段階では戦略的防御を、

 戦力比が改善されつつある第二段階では戦略的対峙を、

 戦力比が有利な段階となる第三段階では戦略的反攻へと移行する。」

と、同じニュアンスで書かれている。

そして、これは一体何を意味しているのかというと、

幸田露伴が『説気 山下語』(努力論)のなかで展開している“望気の術”ではないのだろうか、

と個人的に思っている。 

「支那には古より望気の術ということがある。

 戦闘の道は両陣相対し相争うのであるが、酒には酒の気、茶には茶の気のあるが如くに、

 軍陣には軍陣の気があるべき理であるとすれば、

 軍陣の上にはその軍陣の内質に相応した外気の発露騰上すべき訳である。

 そこで軍気を考え、察し、その甲兵を見ずして既にその意気、

 即ち軍陣の内質本体の如何なるものなるかを知り、

 而して我と彼とを比較して勝敗利鈍の数をはかろうとするところから

 その術を生じたのである。

 たとえば決死の覚悟の軍隊の上には如何なる気が立つ、

 驕り慢って居る軍隊の上に如何なる気が立つというようなことを、

 一々観察して得て誤らざるようにとするのが望気の術で、

 古く別成子の望軍気の書六篇、図三巻の存したことは古史がこれを記している。」

孫子に貫かれているテーマも、

「軍陣の内質本体の如何なるものなるかを知り、

 而して我と彼とを比較して勝敗利鈍の数をはかろうとする。」

ことでしょ?

孫子は、その“望気の術”を発展させた、とも考えられる。

エドワード・ルトワックも『戦略論』のなかでも、

「通常、実際の戦闘よりも、お互いの面前で自軍を誇示し行進させる方が多かった。

 戦国時代の諸国が戦った時でさえ、軍隊と戦術の類似性が彼らの戦闘を実戦的というよりも

 儀式的にした。」

と、古代中国の戦の場面を書いている。

いずれにしても、“気の概念”、タオイズムを露伴みたいに理解しないと、

孫子は読み解けないと感じている。(孫子以外も)

長くなってしまったが、孫子は、最後に重要なことを書いて終えている。


第十三章 『火攻篇』 

死者は以て復た生く可からず

「軽はずみに戦争を始めて敗北すれば、滅んでしまった国家は決して再興できず、

 死んでいった者たちも二度と生き返らせることはできない。

 だから、先見の明を備える君主は、軽々しく戦争を起こさぬよう慎重な態度で臨み、

 国家を利する将軍は、軽率に軍を戦闘に突入させぬように自戒する。

 これこそが、国家を安泰にし、軍隊を保全する方法なのである。」


徳を以って人に勝る者は昌(さか)え、力を以って人に勝る者は亡ぶ。

『禅林句集』 

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