『キム・フィルビー – かくも親密な裏切り』ベン・マッキンタイアー


敵が彼の機密を知ることなく、彼が敵の弱点を知るようにせよ。

亀が体の部分を隠すように、自己の露呈しそうな部分を隠すべきである。

『実利論』カウティリヤ

ベン・マッキンタイアーは『ザ・タイムズ』の副主筆だった。ワシントン支局やパリ支局長を

歴任した。今は名うてのノンフィクション・ライターである。恐るべく健筆を誇るマッキンタ

イアーの著作は数あるが、ぼくが最初に読んだマッキンタイアーの著作は『ナチが愛した二重

スパイ』である。同書では第二次大戦下の英独の“ダブルエージェント”(二重スパイ)で生来の

犯罪者であったエディー・チャップマン−英国でのスパイ名は「ジグザグ」、ドイツでのスパ

イ名は「フリッツ」−を魅惑的に活写した。スパイ小説さながらの冒険譚であり、二重スパイ

特有の複雑な心理描写も丁寧に辿られている。その結果、各賞にノミネートされた。

次に読んだ『ナチを欺いた死体』では、戦後イギリスで非常に有名になった「ミンスミート作

戦」に斬り込んでいる。「ミンスミート」とはイギリスで定番のクリスマス菓子ミンスパイの

具となる「ドライフルーツの洋酒漬け」や「挽肉」を意味する言葉であり、第二次世界大戦中

にシチリア上陸作戦「ハスキー作戦」を成功させるために実施された欺瞞作戦。上陸を成功さ

せるには、ナチを欺いてシチリアが目標でないと思い込ませなくてはならなかった。そして、

この作戦を成功させるためにイギリス軍情報部はとんでもない奇策を思いついた。それは死体

を一つ調達して高級将校に仕立て、シチリア以外が上陸目標だと記した偽文章とともに、航空

機事故の犠牲者に見せかけて敵勢力圏内のスペインの海岸に漂着させ、偽情報を敵に渡そうと

画策した。この創造性溢れるアイディアからミンスミート作戦は展開された。作戦はものの見

事に成功し、これには驚愕させられた。

続く『英国二重スパイ・システム』では、Dデイ向けの欺瞞工作である「フォーティテュード

作戦(不屈の精神)」の主力を担った「ダブル・クロス・システム」(「ダブル・クロス」は「裏

切り」を意味する)の二重スパイに光を当てた。 まともに上陸作戦を仕掛けるのは自殺行為に

等しい。その為ドイツ軍に偽情報を与えて、上陸作戦はノルマンディーではなく、イギリス本

土から最も近いパ・ド・カレー地方が主戦場になると思い込ませる必要があった。フォーティ

テュード作戦は、ドイツ軍をパ・ド・カレー地方に引き付けて同地に足止めするための策略

で、多くの力を結集した大々的な工作であった。その核心部で成否を握っていたのは、ダブ

ル・クロスの立案者ター・ロバートソンのスパイたちと、そのスパイたちがヒトラーの軍隊に

罠をかけて数十万の将兵にイギリス海峡を無事に渡らせるべく複雑に張りめぐらせたた強力な

欺瞞の網であった。この作戦の中核を担ったのが、暗号名をブロンクス、ブルータス、トレジ

ャー、トライシクル、ガルボという性格も国籍も違う五人の二重スパイだった。

以上がぼくが順に読んだマッキンタイアーの著作であり、これらは「第二次世界大戦諜報もの

三部作」と呼ばれている。そして次は大物スパイの真打ちであるキム・フィルビーだ。

ベン・マッキンタイアーと第二次世界大戦諜報もの三部作


本書はキム・フィルビーの新たな伝記ではなく、ニコラス・エリオットとの一種独特な「友

情」に主眼を置いている。それとフィルビーをめぐる人間関係と同僚との関係もである。

MI6で同僚だったエリオットは、四つ年上のフィルビーを兄のように慕い、理想の人物として

敬愛していた。フィルビーとエリオットは、スパイの仕事を第二次世界大戦中に一緒に学んだ

仲であり、二人はイギリスの情報機関で共に出世し、ありとあらゆる秘密を共有してきた。

しかしフィルビーには、その間ずっと打ち明けずにきた秘密が一つあった。それは極秘裏にソ

連政府のために働き、エリオットから聞いたことを一つ残らず記録し、ソ連側のスパイ監督官

(スパイマスター)に伝えていた。

結婚式当日のニコラス・エリオット夫妻(1943)

ハロルド・エイドリアン・ラッセル・フィルビー。通称キム・フィルビー(1912-1988)。

キムという名は、フィルビーの父親が付けたニックネームで、ラドヤード・キプリングの有名

な小説『少年キム』の主人公に由来する。ちなみにハンナ・アーレントは、キプリングの『少

年キム』はイギリス帝国主義のイデオロギー的な面を担ったと見定ている。そんなフィルビー

はインド人の乳母に育てられたため、最初に習得した言語は子守唄代わりのパンジャーブ語

で、キプリングの少年キムと同じく、フィルビーも白人ながらインド人として通りそうな子だ

ったという。母親はラーワルピンディー[現パキスタンの都市]の公共事業部に勤めるイギリス

人公務員の娘だった。エリオットも父がインド北部のシムラの生まれであり、二人とも主に乳

母に育てられた後、学校教育で人格を形成された。ニコラス・エリオットの父クロード・エリ

オットは著名な登山家で、イートン校の校長でもあった。イートン校の校長になる前は、ケン

ブリッジ大学で歴史を教えていた。彼はヴィクトリア時代特有の道徳観と激しい偏見の持ち主

だったという。ニコラス家は何世代にもわたって大英帝国の屋台骨でもあり、一族からはそれ

を支えるのに必要な人材を輩出してきた。エリオットも当然ながら父の出身カレッジであるケ

ンブリッジ大学トリニティー・カレッジへ入った。卒業すると家族ぐるみの知人に声をかけら

れ、オランダのハーグ駐在イギリス公使の名誉随行員として誘われる。オランダでは隠密活動

を体験し、その後はMI6に入省する。これには外務省高官の根回しがあった。そして、MI6で

同じくケンブリッジ大学トリニティー・カレッジを卒業したキム・フィルビーと出会う。

シンジャン・フィルビー

フィルビーの父であるヒラハー・シンジャン・ブリッジャー・フィルビーは、悪名が非常に高

い人物だったという。サウジアラビア初代国王イブン・サウードの顧問として、この地域の石

油政策で中心的な役割を担っていた。イスラム教に改宗して、シャイフ・アブドゥッラーと名

乗り、アラビア語を流暢に話し、後にはサウジ国王から贈られたバルチスタン[イランからパキ

スタンにかけての山岳地帯]出身の奴隷少女を二番目の妻にしている。それでも、趣味や嗜好は

完全にイギリス人のままで、何を考えているのかまったく予想がつかなかったという。

そんな父はフィルビーがお気に入りであり、父親の事業の対象だった。

シンジャン・フィルビーは息子に大いに望みをかけて、愛情はほとんど示さなかった。

ウェストミンスター校とケンブリッジ大学へ進めるように息子を仕込み、この二つの目標を息

子が成し遂げた時は鼻高々だったという。しかし、年中ほとんど不在で、アラブ世界を走り回

っては論争を引き起こしたり名声を求めたりしていたという。そんな父を心から尊敬すると同

時に、心の底から忌み嫌っていた。学校時代のフィルビーは、「常に父親の長い影を感じて」

いた。成績優秀で誰からも好かれていたが、虚言癖があり、そのことが両親の心配の種になっ

ていた。フィルビーは一七歳のとき歴史学の奨学金を得てケンブリッジ大学にやってきたが、

この時点ですでに父から、知的な自信過剰と、時勢に逆らおうとする決意の二つを受け継いで

いたという。

1930年のケンブリッジ大学の様子

フィルビーはケンブリッジ大学社会主義協会に入った。1930年代にケンブリッジを襲った猛

烈なイデオロギーの潮流は、疎外感を抱く青年たちを何人も引き込んでいた。フィルビーは政

治的左派の連中とつるむようになり、極左の人間とも親しくなった。ヨーロッパではファシズ

ムが拡大を続けており、それに対抗できるのは共産主義だけだと、多くの人は考えていた。

フィルビーが新たに親しくなった過激な友人は、共産主義を声高に支持していたガイ・フラン

シス・デ・モンシー・バージェス、言語学者で外務省への入省が決まっていたドナルド・マク

レインだった。

フィルビー自身は共産主義という宗教に心を奪われたわけではなく、徐々に左傾化していった

のであり、そのスピードが速くなったのは、1933年にベルリンを訪れ、反ユダヤ人集会でナ

チズムの残虐性を直接目にした時だったという。友人の多くは共産党に入ったが、フィルビー

は決して入党しなかった。ここがダブルエージェントとして長く活動できた要因である。

フィルビーの信条は過激ながら単純なもので、金持ちはあまりにも長きにわたって貧者を搾取

しており、ファシズムに対する防壁は「世界運動の本丸」であるソヴィエト共産主義以外にな

く、資本主義は破綻するのが明白で、イギリスの支配階層はナチ寄りの態度で毒されていると

いうものだった。しかし、そうした確信を表に出すことは少なく、周囲の者に悟られることは

ほとんどなかった。フィルビーはマルクスを熟読した形跡はないという。

フィルビーは「私は、生涯を共産主義に捧げなくてはならないとの確信をもって大学を卒業し

た」と書いているという。

1933年の秋、フィルビーはウィーンへ向う。外務省への入省希望を出す前にドイツ語の腕を

磨くというものが表向きの理由だったが、実際には、当時オーストリアの首都で進行していた

左派と右派の戦いを目撃し、できることなら、その戦いに自らも参加するのが目的だった。

そしてこの地で初恋の女性で最初の妻となる黒髪のユダヤ人アリス・「リッツィ」・コールマ

ンと出会う。彼女はウィーンの共産主義地下運動の活動家だった。二人はウィーン市庁舎で結

婚し、ロンドンで新婚生活をおくった。リッツィは安全な方法でイギリスへ逃れることができ

た。そしてこのロンドンで、オットーという人物に出会う。もちろんリッツィの紹介だった。

オットーは本名をアルノルト・ドイッチュといった。フィルビーが知るのは数十年後のことで

あったが、この人物はイギリスでソ連の情報機関のため人員をスカウトする責任者で、後にケ

ンブリッジ・スパイ網を作り上げた中心人物であった。そのドイッチェは二度目にフィルビー

に会った時に、共産主義のため秘密工作員として活動する気はないかと尋ねた。フィルビーは

躊躇しなかった。

アルノルト・ドイッチュ

ドイッチェはフィルビーに「坊や」という愛情あふれる暗号名を与え、ロンドンのレジジェン

トに報告した。レジジェントとは、NKVD(KGBの前身)の地域担当責任者のことで、報告を受け

たこのレジジェントは、モスクワ支部へ伝え、本部は感激した。また、父のシンジャン・フィ

ルビーが自宅に保管しているあらゆる文書を調べ、写真に撮ってくるよう命じた。フィルビー

はやすやすと合格した。さらにドイッチェはフィルビーに、報道業界に就職するよう強く勧

め、すぐにフィルビーは月刊誌、次に「英独貿易ガゼット」へ移った。英独協会にも入会し、

ナチとイギリス人同調者とのつながりに関する情報も入手することができた。そしてリッツィ

もフィルビーも、共産主義に対する思いは強かったが、互いに対する思いはそれほど長続きは

せず、二人は円満に別れ、リッツィはパリへと引っ越した。一方、フィルビーは言われた通

り、ケンブリッジ大学時代の左派の友人たちの中からスカウトできそうな人物のリストを作っ

て提出した。ドナルド・マクレインとガイ・バージェスである。そしてこのバージェスから新

たなスパイ候補として後にドイッチェが紹介されたのが、美術史家として有名だったアントニ

ー・ブラントである。ジョン・ケアンクロスを抜かすが、これが世に有名な「ケンブリッジ・

ファイブ」(Cambridge Five)である。

ケンブリッジ・ファイブ。左上から時計回りに、ドナルド・マクレイン、ガイ・バージェス、キム・フィルビー、ジョン・ケアンクロス、アントニー・ブラント。

1936年にフィルビーは、モスクワ本部からの指示でフリーランスの記者という身分を装って

スペインに赴く。当時のスペインでは、共和国軍とフランコ将軍率いる反乱軍でファシズム陣

営の支援を受けた国民戦線との間で内戦が勃発していた。そんなフィルビーの任務は、国民戦

線側をスパイして、軍隊の移動や通信経路、士気、ドイツとイタリアからフランコ軍に与えら

れている軍事支援についての報告であった。さすがのフィルビーは、フランコの報道官たちに

巧みに取り入った。モスクワにも有益な情報を流して信頼を勝ち取り、フランコ暗殺の計画ま

で立案されるが、現実的ではなかったので却下した。テルエルの戦いを取材中にフィルビー

は、共和国軍の砲弾で危うく死にかけるが、その評判が一気に広まり、フランコ将軍から直々

に勲章を授与された。その後のフィルビーはロンドンへ戻り、パリに赴いた。もちろん、その

期間もソヴィエト側と接触し、イギリス軍やフランス軍の情報を提供している。

フィルビーは優れたジャーナリストだったが、本心はMI6に入りたかった。しかし、この当時

のMI6は公式には存在しないことになっていた。そこでフィルビーは非公式な方法(つて)を頼っ

てMI6の一員となる。ダブルエージェント(二重スパイ)“キム・フィルビー”の誕生だ。

そしてニコラス・エリオットと出会ったのもこの頃であった。

二人はすぐに友情を結んだ。エリオットはイギリスに送り込まれてくる敵スパイの捕獲を支援

し、フィルビーは占領下のヨーロッパへ連合軍の破壊工作員を送り込む準備を進めていた。

そして二人の関係は、共にイギリス情報機関の周縁部から引き抜かれ、その中核と言うべき、

MI6で対情報活動を専門とする部署セクションVに配属されると、さらに強くなった。

そのMI6内でセクションVは特別で重要な役割を担っており、外国で活動する敵の諜報機関に関

する情報をスパイや亡命者を通じて収集し、イギリスがスパイ活動の脅威に晒されそうな場合

はMI5(国内)に事前に警告を発することになっていた。つまり、イギリスにある二つの情報機関

を繋ぐ重要な部署であった。フィルビーはセクションVのイベリア班の新たな班長となり、ド

イツの諜報活動と戦い、エリオットはセクションVへ移動となり、同じことをナチ占領下のオ

ランダで行った。しかし、フィルビーはセクションVの業務と、その人員、目的、作戦、成功

例と失敗例などの詳細な報告書を、スターリンの情報機関NKVD(人民内務委員会)の将校に渡し

ていた。その他にもフィルビーは、権限がないにも関わらず、ソ連に関するファイルを閲覧す

ることに成功している。危うく閲覧したことが見つかりそうになったが。

ニコラス・エリオットのその後は、陰謀渦巻くイスタンブールで防諜作戦を実施するが、フィ

ルビーは相変わらずロンドンで勤務した。アメリカのOSS(戦略事務局・CIAの前身)に三年の実

務経験を積んだ評価の高いベテランとして教官に抜擢され、アメリカ人たちに、MI6の防諜班

の仕事や、イギリス秘密情報部の組織構造、暗号解読作業について説明し、彼らに非常に大き

な影響を与えることになる。フィルビーはそのアメリカ人たちを「厄介者」の一言で片付けて

いたが、後年に史上最も強力で最も物議を醸したスパイの一人になる人物、ジェームズ・アン

グルトンを好むようになり、友情を結ぶ。アングルトンもフィルビーがソ連のダブルエージェ

ントであることを、長年気がつかなかった。

43年の春、エーリヒ・フェアメーレンという名の若いドイツ人男性が、リスボンに現れ、イ

ギリスの情報部に恐る恐る近づいてくる。フェアメーレン家は、リューベックの有名な弁護士

一家で、反ナチ的な傾向のあることで知られていた。フェアメーレンはイギリス側への亡命を

考えていることをそれとなく伝えていたが、フィルビーもそれを知った。

フェアメーレン夫妻は無事ロンドンへ亡命するが、その時に「ドイツにおけるカトリック系の

地下運動に参加している知人全員と、彼らが戦後の民主的・キリスト教的ドイツで果たすべき

役割の」詳細なリストも持参していた。MI6はこのリストをモスクワに渡さなかったが、フィ

ルビーはそれを渡した。戦後、連合軍の将校たちは、フェアメーレン夫妻が教えた反共主義活

動家の人々を探し回った。しかし、一人も見つけ出すことはできなかった。フィルビーのした

ことのせいで、どれだけの人が死んだのかは誰にも分からないという。

Dデイが近づき、ナチの脅威が薄れると、ソ連の諜報活動に対する恐怖が復活してきた。

MI5もMI6も戦前は、国の内外で共産主義の脅威と戦うことに費やしていたが、ナチスドイツ

との戦争とスターリンと同盟を結んだことにより、モスクワの隠密活動は注視されなくなって

いた。1944年3月、フィルビーはC(伝統は初代長官マンスフィールド・カミングの頭文字に由

来し、歴代のMI6長官は「C」と呼ばれていた)に、共産主義スパイとの戦いを始める時期が来

たので、「共産主義やソ連の諜報活動に関与する人々を処理する」組織として、新たな部署セ

クションIXを設置すべきだと提案した。フィルビーはそこの責任者になるつもりで有力候補を

蹴落とし、責任者に就任した。元上司を追い出したということだ。モスクワは大喜びした。

フィルビーの暗号名もこの頃から変更され、工作員「スタンレー」になった。フィルビーは戦

争中一貫して、「マンハッタン計画」、Dデイの計画、イギリスのポーランド政策、イタリア

におけるOSSの作戦、イスタンブールにおけるMI6の活動など多数の報告をモスクワに送って

いる。この頃のエリオットは、スイス支局長に任命される。

1945年8月下旬、イスタンブールのソ連副領事で諜報部員でもあったコンスタンチン・ドミー

トリエヴィッチ・ヴォルコフが亡命を申し出る。ヴォルコフは貴重な情報も持参し、その内容

は、イギリスとトルコにあるソヴィエト側工作員ネットワークのリスト、ソ連によるイギリス

の通信傍受に関する情報などであった。それに関する報告書をフィルビーは恐怖を募らせなが

らロンドンで読んだ。ヴォルコフの言う、ロンドンで対情報セクションを担当しているソヴィ

エト側のスパイと言えば、自分しかいない。フィルビーはパニック寸前だった。これを知った

フィルビーは、ヴォルコフを自ら直接尋問して脱出させるとして、のらりくらりと時間稼ぎを

画策する。フィルビーがトルコに到着したのは、鎮痛剤を打たれたヴォルコフ夫妻が乗せられ

た航空機がモスクワへと飛び立った数時間後で、ヴォルコフの告白から3週間以上たってい

た。ヴォルコフ夫妻は拷問の末に処刑されてしまう。結局、MI6内部ではヴォルコフが亡命を

ソ連側に察知され、拘束されたという話になってしまう。新しい仕事になじむにつれ、フィル

ビーの生活は二重性を帯びるようになった。フィルビーは四六年までに、国民戦線派のスペイ

ン、共産主義国家ソヴィエト、イギリスのそれぞれから三つの異なる勲章を受けている。

この年には、二番目の妻であるアイリーン・ファーズと結婚している。

アイリーンは何年も前から精神疾患を患っており、後にミュンヒハウゼン症候群として知られ

るようになる病気だった。

フィルビーのキャリアはこれまでデスクワークが中心だったが、イスタンブールに赴任するこ

とになる。同地では、集めた情報を当時外務省に勤めていたガイ・バージェスを経由して、ソ

ヴィエト側に転送した。

冷戦の緊張がたけなわになると、フィルビーはアメリカに派遣される。MI6のベテランたち

は、帝国が急速に衰退しているが、情報活動の世界ではまだイギリスの方が上であるというこ

とを証明しようと躍起になっていた。そこで若いスター選手であるフィルビーをワシントンへ

派遣することになった。アメリカでのフィルビーの任務は、情報活動での英米の協力関係を維

持し、CIAおよびFBIと連絡を取り、さらにはイギリス首相とアメリカ大統領との間の秘密通信

を処理するというものだった。フィルビーはアメリカへ出発する前に、厳重に守られていた秘

密を教えられている。それは「ヴェノナ」の存在である。ヴェノナにはソヴィエトのスパイが

イギリス政府に潜入していることが明らかにされているが、「ホメロス」という暗号名のソ連

側の工作員のことも発見されていた。「ホメロス」とはドナルド・マクレインのことである。

フィルビーはワシントンに到着してすぐに、英米特別政策委員会の共同委員長に任命され、ア

ルバニア作戦を統制することになっている。共産党政権が誕生したバルカン半島の小国アルバ

ニアでは、西側が反政府活動を支援していた。在外亡命アルバニア人を協力者として送り込

む。この作戦は「ヴァリャアブル」作戦と呼ばれているが、フィルビーが上陸日時を逐一ソ連

に伝達した結果、100人以上の亡命アルバニア人とその家族が処刑され、殺された家族は数千

人ともいわれている。ロンドンにいたNKVDの監督官であったユーリ・モジンは「フィルビー

の情報をアルバニア側に渡し、それを踏まえてアルバニア側は待ち伏せをした」と述べている

という。

ヴェノナに関連して言えば、フィルビーはヴァージニア州アーリントン・ホールにあるアメリ

カ政府の暗号解読センターを訪問している。先述したように、1945年にイギリスで「有能な

工作員ネットワーク」が活動しており、その一人が暗号名を「スタンリー」という「特に重要

な」スパイであることが明らかになっていたからであった。ヴェノナ計画の責任者メレデス・

ガードナーは、秘密の言語研究所に来たフィルビーを歓迎した。

その頃、二〇年来の友人であり、一緒に共産主義を知ったガイ・バージェスもワシントンのイ

ギリス大使館の情報将校に任命される。フィルビーはバージェスを自宅に泊めることにした。

1951年、アーリントン・ホールに暗号解読者たちが待ち望み、フィルビーが恐ていた瞬間が

訪れた。通信文を解読し、スパイ「ホメロス」がドナルド・マクレインだと判明した。

このニュースはロンドンに知らされ、折り返しワシントンにいるフィルビーに伝えられた。フ

ィルビーはすかさず同居していたバージェスに、英外務省にいたマクレインに警告するように

指示する。アル中のバージェスは、酔っ払って大使館の車を運転し警官とトラブルになるなど

不祥事を重ねてアメリカ側を激怒させ、イギリスへと出国するはめにもなっていた。バージェ

スとマクレインは1951年の初夏に姿を消し、ソ連へ亡命する。

バージェスと同居までしていたフィルビーにも疑惑がかかり、ロンドンへ召喚される。

調査で疑わしい問題がいくつか浮上し、MI5に何度も尋問され(MI6はフィルビーは潔白だと思

っていた)、彼の起訴に結びつく証拠は出なかったが、フィルビーはMI6退職を余儀なくされ

る。MI5はフィルビーに暗号名「ピーチ(桃)」を付けた。エリオットはこの頃、スイスからロン

ドンで友好諸国の情報機関との連絡を担当するポストを引き受けていた。エリオットはフィル

ビーを懸命に弁護し、MI6内でも広く支持されていた。しかしこの頃には、ソ連の情報機関で

出世を重ねてきたウラジミール・ペトロフが、スターリンの粛清を逃れオーストラリアで亡命

した。ペトロフは膨大な量の情報をもたらし、バージェスとマクレインが第三の男から亡命す

るよう警告されたという情報も含まれていた。フィルビーはビクビクしながら待っていたが、

マスコミも当然、問題視し、英議会でも『第三の男』ではと議論された。フィルビーは記者会

見で否定する。結局、イギリスの外務大臣ハロルド・マクミラン(57-63年に首相。内閣の陸

相だったプロヒューモが、ソ連スパイと親しいモデル兼売春婦と肉体関係を持って国家機密を

漏らしたプロヒューモ事件で首相を辞任)がフィルビーに容疑なしと結論して、このときは決

着する。

世紀の名演といわれる記者会見の様子

56年8月、フィルビーはベイルートでジャーナリスト(オブザーバーとエコノミストの中東特

派員)として働き始め、MI6は彼を将校としてではなく、現地エージェントとして再雇用す

る。エリオットの根回しがあってのことだった。MI6の新長官には第三の男の捜査を指揮して

いたディック・ホワイトが就任した。エリオットは新たにMI6のウィーン支局長になってい

た。フィルビーはこの時点でKGBとの関係を断ってもよかったのだが、ベイルートでもKGBと

接触した。後にフィルビーはこの決断は、イデオロギー的なものだったと述懐している。フィ

ルビーは欺瞞が好きだった。ベイルートでは、エレナー・ブルーアーというアメリカ人の妻を

寝取り、結婚している。アイリーンは悲劇的な最期を迎えた。フィルビーは葬式に出席しなか

った。

ロシア革命からイギリスの市民生活、ボルシェヴィキの革命家と関係をもち、女手一つで息子

を育て上げ、今では政治的にシオニストであったフローラン・ソロモンという人物がいる。

彼女はフィルビーをアイリーンに紹介した人物であり、それをきっかけに始まりアイリーンの

悲しい孤独死の責任の一端を感じていた。それとフィルビーの反イスラエル的な記事も許せな

かった。ソロモンはロスチャイルドとも知り合いであり、フィルビーの過去のことをロスチャ

イルドに話す。このソロモンの告白により、フィルビーが活動中のソ連側スパイであり、共産

主義のためスパイをスカウトし、尋問では自分の過去を意図的に隠して嘘を繰り返していたこ

とを示す証拠が手に入った。エリオットはディック・ホワイトに呼び出され、ソロモンの証言

により、フィルビーが1930年代からソ連側のスパイだったことが確認された。エリオットは

この時の胸中を話したがらないという。エリオットはフィルビーとの対決は自分に任せて欲し

いと訴えた。ホワイトはエリオットに、ソ連KGB諜報員で在ヘルシンキ外交官だったアナトリ

ー・ゴリツィンが亡命して、フィルビーに関する情報を得られたことも告げた。そしてエリオ

ットはベイルートへ飛び、アパートに盗聴装置を取り付け、ドアと通りには監視員を配置し

た。フィルビーの自白を引き出すためであった。本書の書き出しはこの場面から始まる。そし

てフィルビーを尋問する。エリオットは意図的だったのかは分からないが、フィルビーにとっ

てこれ以上ないと言っていいほど逃げやすい環境を作り出した。二重スパイであることを自白

したばかりの人物に監視を付ける手配を一切せずにベイルートを離れた。フィルビーは尾行も

監視もされなかった。エリオットは何もせずにベイルートを立ち去り、モスクワへのドアを開

け放っておいた。そしてフィルビーは、ドルマトヴァ号の船縁に立ち、寒さから身を守るため

にウェストミンスター校のスカーフを巻き、遠ざかる入江を見つめながら、これで「イギリス

との最後の絆が永遠に断たれるのだ」と思い、ロシアへ亡命した。英米の情報活動関係者は、

衝撃と怒りに満ちた非難を引き起こした。MI6でフィルビーを擁護していた者たちは唖然なと

なり、MI5は激怒した。エリオットはなぜ、このような方法を採用したのかといえば、今だに

謎とされている。エリオットはフィルビーの逃亡はショックだったといい、別の者には、フィ

ルビーの逃亡は少しも意外ではない、とも言っている。当のフィルビーは後になって、自分は

後ろから押し出されたのだと信じるようになっていったという。エリオットはモスクワに亡命

したフィルビーから調子の良い手紙が届くが、「哀れなヴォルコフの墓に、僕の代わりに花を

手向けてくれ」と送り返している。エリオットの出世はフィルビーとの関係が原因で止まっ

た。エリオットはフィルビーは二つの顔を持つ男であり、自分はその一方の魅力的なほうの顔

しか見ていなかったと結論づけた。フィルビーは1988年5月11日、モスクワの病院で亡くなっ

た。2011年ロシアの対外情報庁は、キム・フィルビーの横顔二つが互いに向き合う図の記念

銘板を設置した。二つの顔を持った男にふさわしい銘板だった。

90年にはソ連の切手にまでなっている。

本書のあとがきには、先日亡くなったジョン・ル・カレのエリオットの寸評などが収録されて

いる。これも読み応え抜群であった。本書『キム・フィルビー』は今まで読んだマッキンタイ

アーの「第二次世界大戦諜報もの三部作」と比べても、出色の出来栄えであり、多くの人にお

勧めしたい。悪名高い二重スパイであったキム・フィルビーの心理面や交友関係に肉迫して描

写され、稀代のストーリーテラーであるマッキンタイアーの魅力が存分に発揮されている。

マッキンタイアーの新作本には、MI6の二重スパイになったオレグを題材にした『KGBの男』

(2020/6/8)や、邦訳されていないが『Agent Sonya』(2020/9/15)もある。

両著はまだ未読だが、その健筆には驚かされるばかりだ。


その息子と妻とを人質にとってから彼等を二重スパイとなすべきである。

そして敵に起用された二重スパイたちを識別し、彼等の潔白を同類[のスパイ]たちにより識別

すべきである。

『実利論』カウティリヤ

created by Rinker
ベン・マッキンタイアー 中央公論新社 2015-5-8
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ベン・マッキンタイアー 白水社 2009-1-31