デジタル記号の重要な点は離散的であるということである。
『生命記号論』ジュスパー・ホフマイヤー
「デジタル/digitus」のルーツは「指/deigit」に由来する。
ラテン語の「指で数える/digitus」です。
今日の「デジタル」は、本来の「指の」という意味から変移して、「アナログでない」、
すなわち「離散的な」という意味に使われることも多くなってきました。
『世界を変えた数学』佐藤修一
英語における書物”book”という語は、英語の”beech”すなわち「ブナ 」と語源を同じくしてい
る。
『書物変身譚』今福龍太
書物は魔力を失った。
インターネットやケーブルテレビが発達したグローバル社会で、本はもはや重要ではない。
活版印刷、識字化そして読書する文化は、今日までの人間技術のうちで最も強力なものの一つ
である。そのことはもちろん、文字ないし書物の文化に対するメディア技術的オルタナティブ
が生まれるにつれて、ようやく明らかになる。
読書はこの二〇年間で、新たなメディアの登場により危機感へ陥ったため、流行のテーマにな
った。
『プルーストとイカ』でおなじみのメアリアン・ウルフの新著。
メアリアン・ウルフは、ハワイのワイアルアの子供たちを教えてから認知神経科学と読字の研
究者になった。数十年前のこと。具体的には、字を読むと脳はどのように機能するのか、なぜ
他の人より読み方を覚えるのに苦労する子供と大人がいるのかを研究している。
前著『プルーストとイカ』では、古代の文字発明から、文字を読む脳の発達までを探究した。
その執筆のためにメアリアン・ウルフは七年間、シュメール人の書記体系とギリシャ文字の起
源を研究し、脳画像データの分析に自分自身の脳も埋没させていた。
しかし、その七年間の活動を終え周囲を見渡すと、読み書き能力をベースとする文化全体が、
デジタルベースの文化へと変容し始めていることに気がついた。
メアリアン・ウルフはこの時の心境を、ワシントン・アーウィングの短編小説の主人公−森で
眠って目覚めると世界がすっかり変わっている−リップ・ヴァン・ウィンクルになった気分だ
ったという。
原著とメアリアン・ウルフ(カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA) 教育・情報学大学院の「ディスレクシア・多様な学習者・社会的公正センター」所長)
メアリアン・ウルフも簡潔に説明しているが、人類は誕生時から字が読めたわけではなく、
徐々に読み書き能力を獲得していった。「文字は自らに対してすら距離を保つことができるほ
どまでに抽象度を備えたメディア」(『メディアの歴史』ヨッヘン・へーリッシュ)であり、
「文字の発明とともにメディアの前史は終わり、技術メディアの歴史」(同書)が始まった。
『〈脳と文明〉の暗号』を著しているマーク・チャンギージーは、「脳が文字を読む用途に合
わせてできているのではなく、文字のほうが脳の仕組みに合わせてつくられた」、「脳が文字
に合わせたというよりも、脳に合わせて文字ができあがったため、脳と文字はしっくりと噛み
合う」と書いている。
西欧に限っていえば、プラトンは書くことに深刻な留保を表明していたが、「書くことは演説
のように口頭で演じられるものを書き写すだけではなく、厳密で書かれた文章、その字面をじ
かに目で追っていくだけで、その内容を読み取ることができるように書かれた文章を、生み出
す」(『声の文化と文字の文化』W・J・オング)ことにもなった。
ヘレニズム時代(紀元前四世紀から三世紀)には、個々人による読書の文化のようなものがはじ
めて発展していった。その時代以前は文字がたいていの場合、暗唱のための補助としてのみ使
われていたことを示す証拠が数多くあるみたいだが、ヘレニズム時代ではゆっくり音読するの
が通例であり、ローマ文化圏においても同様であった。
先述したへーリッシュによれば、一人で黙読するという実践がはじまったのは十三世紀以降で
あり、新たに設立されたパリ大学とオックスフォード大学においてであったという。
それと並行して眼鏡が発明され(使用が最初に確認されるのは北イタリア)、書見台を立てると
いう流行も現れた。
中世中期に至るまで、ラテン語能力は読書の前提であり、それゆえに聖職者階級を除いてはご
く例外的な人々しか読むことができなかった。
十六世紀になってようやく、ヨーロッパでは徐々にそれぞれの土地の言葉で書かれた書物の出
版が一般的になっていった。
活版印刷によって新たな読者層が生まれる。活版印刷の発明は同時代人にとってセンセーショ
ナルな出来事であり、教会の内部でのみ最大級の注目を受けたのではなかった。
グーテンベルグが約二〇〇部の本を作るために要したのは、三年弱の時間と、四人から六人の
植字工、六台の印刷機を操作する一二人の印刷工と何人かの補助作業員であった。
グーテンベルクのメディア技術は、最初の大量生産品産業であり、それは全ヨーロッパに瞬く
間に普及した。
最初の聖書印刷から一〇年ないし二〇年後にはすでに、ローマ、ヴェネツィア、ユトレヒト、
ロンドン、パリにも印刷所ができていた。活版印刷によって聖書はインフレを起こし、それに
よって神聖さは失われていった。
この時代の多くの場合は、今日では奇妙に思える学習を続けていた。
まずは読み方を学んでから書くことを学ぶということであり、後から学んだことは最初に忘れ
てしまうので、近代初期にはまだ、読むことはできるが書くことはできない人がかなり存在し
ていたという。逆に、中世においては素晴らしいまでに書く(書き写す)ことができるものの、
読むことができない写字生がいたという。
その後のルネサンスの人文主義とともに文化革命が到来し、読み書きの能力が表裏一体のもの
とみなされ、聖職者や下級貴族、官房書記たちによる識字能力の独占が打ち破られていった。
法学者や商人、大学人たちがますます、共同発言権や共同決定権とはいかないものの、ともに
読み、ともに書く権利をもつようになった。
十四世紀にはプラハ、ウィーン、ハイデルベルクで有名な大学の設立が相次いだの嚆矢とし
て、各地で大学が設立される。大学が設立されたことにより、識字教育が都市居住者の特権と
なり、彼らはやがて読み書きのできない人たちを横柄に見下げることもできるようになった。
十八世紀には全ヨーロッパで、宗教的な本に代わって娯楽文学が多数出版されるようになる。
そして多くの同時代人の眼に「読書熱」と映った現象も現れる。それはほとんど執筆熱と表裏
一体だったという。読書の歴史の書き手たちは、一七〇〇年から一八〇〇年の間に起こった読
書習慣の趨勢の変化を集中的な読書から拡散的な読書への移行と特徴づけている。
多読家やメディア・フリークという人物類型が成立していったのもこの頃だった。
十九世紀には教養市民階層の黄金時代であり紙の時代であったが、すでに十九世紀半ばには写
真(一八三八年)と録音(一八五〇年)の発明によって印刷術がメディアとしての独占的地位を失っ
ていく。
二十世紀の歴史は、全面的なメディアの歴史であり、十九世紀はメディア史的には、主として
記憶保存メディアの時代であった。それは写真、録音、映画の時代であったが、しかしまた、
タイプライターと大量に印刷される新聞雑誌の時代でもあった。その後はテレビの時代を迎
え、今日ではインターネットの時代を迎えている。
先程のW・J・オングのに話を戻すと、オングはこれらの高度技術に支えられている文化を「二
次的な声の文化」と呼んだ。ちなみに「一次的な声の文化」は、ものを書いたり印刷したりと
いうことを全然知らない文化の声としてのことばにもとづく性格を指してそのように呼んでい
る。二次的な声の文化は書くことも知っているが、高度技術文化につかりながらも、程度の差
はあれ一次的な声の文化の思考様式を相当に保っていること。
オングはまた、手書き本の文化と初期の印刷文化においては、本を読むということは、多くの
場合、一人の人間が集団のなかで他の人びとに読んで聴かせるという社会的な活動となってい
た。それが印刷に比重が移ると、近代社会を特徴づける個人のプライバシーの感覚の発達のう
えでも、重要な因子となり、印刷は、手書き本の文化においてふつう見られるよりも小さくて
持ち運びができる本をつくりだした。このことは、心理的に見るならば、静かな片隅で一人で
本を読むための、そして、その結果として、まったく声を出さずに本を読む[黙読する]ため
のお膳立てを整えたと、手書き本の文化から印刷文化への移行、または印刷文化の諸特徴を書
いている。
今日ではその印刷文化からデジタル文化へとほぼ完全に移行しているのは明らかだ。
タイム社が最近行った調査によれば、現代の若年成人は平均で一時間に二七回、メディアソー
スを切り替え、平均で一日に一五〇回から一九〇回、携帯電話をチェックしているという。
メアリアン・ウルフは本書の中で、紙の本の印刷媒体からデジタル媒体への移行が読む脳にど
んな影響を及ぼすのだろうか?ということなどを、冒頭でへーリッシュが指摘している状況下で
オングのように書いた。しかし、本書では手紙形式にしている。その理由は、手紙は脳に一息
つかせるような感じで、私たちは互いに考え合い、運が良ければ、特別な種類の出会いを経験
することができるからだと説明する。それはプルーストが「コミュニケーションを実らせるこ
とのできる奇跡」と呼ぶものでもあった。
『ネットバカ』を著しているニコラス・G・カーは同書の中で、「人間の脳の自然状態は、動
物界におけるわれわれの親戚たちのほとんどがそうであるように、注意散漫の状態
[distractedness]である。性質上われわれは視線を動かす傾向にあり、したがってわれわれ
の注意の対象も次々と移り変わる。周囲で起こっていることをできるかぎり認識しようとする
のだ」と書き、さらには「ネットに接続するとわれわれは、とおりいっぺんの読み、注意散漫
であわただしい思考、表面的な学習を行うよう、環境によって働きかけられるのだ」、「ネッ
トの有する感覚刺激の不協和音は、意識的思考と無意識的思考の両方を短絡させ、深い思考あ
るいは創造的思考を行うのをさまたげる」とも書いている。
対照的に読書に関しては、「本を読むということは、単一の静止した対象に向かい、切れ目な
く注意を持続させねばならない、不自然な思考プロセスを実行することである」、「気を散ら
されることなく深く読むとき、われわれの脳のなかでは豊かな結合が生じるのだが、これを生
み出す能力が、オンラインでは大部分停止したままになる」、「本を読む者の脳は、単なる識
字能力のある脳ではない。それは文学の脳であった」と書いている。
続けて読み書きに関する研究を行っているノルウェーの教授の言葉も紹介しているが、「読む
という行為はすべて複数の感覚に関わるも」のであり、書かれたもの「物質性と感覚運動的に
経験すること」と「テクストの内容を認知的に処理すること」のあいだには、「重要なリン
ク」が存在している。
メアリアン・ウルフもニコラス・G・カーとほぼ同じ説明をしているように感じる。
物理的な書物を読んだ場合には、ノルウェーの教授が指摘しているように複数の感覚に関わる
ものである。
メアリアン・ウルフはエモリース大学とヨーク大学の神経科学者の研究結果を紹介している
が、「手触りに関する喩えを読むと体性感覚皮質と呼ばれる触覚をつかさどる領野のネットワ
ークが活性化し、さらに動きについて読むと運動ニューロンが活性化」する。
そして、メアリアン・ウルフは分野も国も異なる学者グループに所属するアンドリュー・パイ
パーなどの指摘を取り上げている。その意見によると、紙の本を読んだときの感覚次元は、情
報に重要な冗長性を与える。それは言葉にとっての一種の「幾何学」であり、読むものの理解
全体に貢献する。触覚が別の次元を加えるのは、私たちが印刷された言葉を読むときに活性化
されるものであり、それは画面上では消えてしまうものかもしれないという。
さらにメアリアン・ウルフは、複数の領域と五つの階層とを説明し、脳の可塑性(本書の中では
ニューロンネットワークを再利用を説明)の重要性もスタニスラス・ドゥアンヌに依拠して説明
している。『脳はいかに治癒をもたらすか』のノーマン・ドイジは、「脳の可塑性」という言
葉ではなく「神経可塑性(neuroplasticity)」という言葉を使っているが、それは「自己の活動
や心的経験に応じて、脳が自らの構造を変える性質のこと」であり、「神経可塑性の核心的な
原理の一つは、「同時の発火するニューロンは互いの結合を強める」というのだ」と説明して
いる。『脳はすごい』のクラーク・エリオットによれば、「脳に新たな経路が確立されると、
習慣化によって健全な組織が順応を遂げ、脳の可塑性という魔法が効力を発揮する」というこ
とになるのかもしれない。
読む脳が発達するほど、深い読みができるようになる。これまで培ってきた知識(背景知識)、
推論、類推思考(アナロジー)、分析、共感・視点取得などが統合され、新たな思考モードを
生み出す。ニコラス・G・カーのいう「豊かな結合」ということであり、『直感力を高める数
学脳のつくりかた』のバーバラ・オークリーのいう、一見バラバラの情報を意味や類似性など
の点から結びつけた情報のまとまりの「チャンク」ということでもあるだろうし、『ブレーク
・ポイント』のジェフ・スティルベルの「脳の独特な力は、全く異なる情報の断片をつなげて
迅速なコミュニケーションを図り、複合的に学習する能力によるのである」という意味であろ
う。さらにその結果として、文章や情報を自分なりに編集して、良い意味で批判できる洞察力
も培われ、創造力も備える。
それは『ダヴィンチの右脳と左脳を科学する』のレナード・シュレインの「創造力は、あるパ
ターンや特徴、あるいはありふれた物体の別の使用法に気づいたときに始まる」という言葉も
想起させ、オリヴァー・サックスが『意識の川をゆく』の中で述べているように、「創造性
は、長年にわたる意識的な準備と訓練だけでなく、無意識の準備も必要である。この潜伏期間
は、影響や材料を意識下で吸収して取り込むために、それらを再構成し結合して自分自身のも
のにするために、必要不可欠なのだ」ということも重要である。
対するデジタルではそのようにはならない。「深い読み」を育むことが難しくなる。
メアリアン・ウルフは、学生の半分にはキンドルを、もう半分には紙の本で恋愛小説を読ませ
るという実験・研究を紹介している。紙の本で読んだ学生は筋を時系列順に正しく理解・再現
することができるが、キンドルで読んだ学生は反対の結果になる。それはデジタル画面で読む
と細部の情報や記憶の順序付けなどが疎かになることを示している。
斜め読み、飛ばし読みが当たり前になり、文章に細部に分け入ったり、把握する能力が低下す
る。それはティーンエージャーに限らず、デジタル環境が整い、それに魅了され使用し続けて
いる私たち大人にも当てはまる。デジタルに触れる機会が多くなったメアリアン・ウルフもそ
のような経験をし、ぼくもそのような経験をしたことがある。情報を分析や批判する能力も育
ちにくく、少し大袈裟に言えば、既知から未知へ飛躍していこうとする意欲も失われていく。
それはニコラス・G・カーのいうとおり、とおりいっぺんの読み、注意散漫であわただしい思
考、表面的な学習を行うよう、環境によって働きかけられてしまう。紙の本に慣れ親しんでい
てもそのような罠に無意識的に嵌ってしまう。
しかし紙の本には、”既知”から”未知”への飛躍があり、”未知”から”既知”への飛翔がある。
“現在の本”から”未来の本”への誘発があり、”未来の本”から”過去の本”への触発もある。
それはジョーゼフ・キャンベルが世界各地の神話を収集・研究して導出した、英雄神話の一貫
したパターンのようでもある。分離(旅立ち)、イニシエーション(成就)、帰還、のようなものが
にわかに経験できる。デジタルではそのような貴重な経験はできない。
メアリアン・ウルフは本書の中で「読むことに関係するものはすべてつながっています。読み
手、書き手、出版社、本−言い換えれば、読むことの現在と未来です」と書いている。
われわれ人類はニコラス・G・カーがいうように「人間の脳の自然状態は、動物界におけるわ
れわれの親戚たちのほとんどがそうであるように、注意散漫の状態[distractedness]」にな
るようインプットされている。早期に危機を発見し回避するためである。そうでなければ野生
では生き残れなかった。その意味においては、段階的に本を読むという行為を獲得した人類は
不自然な思考プロセスを実行しているといえる。それは注意散漫という本能に対抗するために
必要な神経リンクを作り出す、ないし強化することを行っている。
特に子どもは幼児期から青年期までの間に、注意を集中させることを覚える。
しかし、前頭前野がほとんど発達していない子どもたちは、気を散らすものに次々と翻弄さ
れ、新しい刺激に次から次へと飛びつくよう促される。『意識は傍観者である』のデイビィッ
ド・イーグルマンは、「ティーンエージャーと大人の脳のおもなちがいは、前頭葉の発達であ
る。人間の前頭前皮質は20代に入るまでに完全には発達しないものであり、これがティーンエ
ージャーの衝動行動を引き起こす」と説明している。『身体はトラウマを記憶する』のベッセ
ル・ヴァン・デア・コークは「人間は生まれて二年目になると、新皮質のかなりの部分を占め
る前頭葉が急速に発達し始める」と書いている。
デジタルデバイスでの情報過多とコンピューターにもとづく「より速くて短い思考と知覚の単
位」の時間感覚。
このような環境に慣れた子どもたちの場合、情報の増加と処理する時間の減少が一緒になる
と、彼らの注意力と記憶力の発達にとって最大の脅威になりかねず、より高度な読みと思考の
発達と利用に、深刻な影響を及ぼす恐れがあると、メアリアン・ウルフは指摘する。
メアリアン・ウルフは二歳から五歳までの短い期間は「言語と思考がともに飛び立つとき」だ
と説明する。この期間に、物語、小さい本、大きい本、何気ない言葉、あらゆる言葉、文字、
数字、色、クレヨン、音楽など、ありとあらゆるものに囲まれて育つことがメアリアン・ウル
フが理想とする世界であり、創造性、コミュニケーション能力、屋内外での物理的探索を引き
出す。特に物語の重要性を指摘し、他者の視点も認識して共感を育むという。
オリヴァー・サックスは『意識の川』の中で、「子供のごっこ遊びには、新しもの好きとまね
好きの性向の両方が集約されていて、たいていの場合、おもちゃや人形、現実にあるもののミ
ニチュアを使って、新しいシナリオを演じたり、おなじみのシナリオを繰り返し再現する。子
供は物語に引き込まれて、人に話をせがんで楽しむだけでなく、自分でもつくり出す。物語を
話したり神話をつくったりすることは人間の初歩的活動であり、世のなかを理解するための基
本である」と指摘していたことが重要だ。さらにサックスは、厳しすぎ、型にはまりすぎ、物
語が少なすぎる教育は、活発で探究心旺盛な子供の心を殺してしまうおそれがあるとも述べて
いる。
メアリアン・ウルフは、二歳児が母親の話すのを聞くときの脳の活性化を調べている、スタニ
スラス・ドゥアンヌとその妻であり神経小児科医のギスレーヌ・ドゥアンヌ=ランベルツの研
究を紹介している。そこではfMRIを改良したものを用いて使用しているが、私たちが話を聞く
ときに使うのと同じ言語ネットワークが、幼児でも活性化されることを発見している。
さらには、シンシナティ小児病院医療センターの小児神経科医ジョン・ハットンとスコット・
ホラントらによる新しい脳画像研究も紹介している。ハットンのグループは、幼い脳が物語を
聞き、母親とともに大きい赤い犬が逃げる子ウサギやサルの身に起こるあらゆることに関心を
示すとき、どれだけ活性化するかを示した。母親に読み聞かせをしてもらう幼い子どもの言語
ネットワークの広範な活性化を初めて視覚化した。
それは、言語を受容する面を支えて、単語の意味の学習を高める脳の領域だけでなく、言語学
習の表出的側面を支えて、子供が新しい単語と考えをはっきり表現できるようにする領域で起
こったという。
子どもに読み聞かせをするときは、話す言葉の響きや音素、書かれている言葉の文字や文字パ
ターンの視覚的形態、話し言葉と書き言葉の意味など、回路のあらゆる要素にわたる複数の表
象に、彼らを触れさせているという。
ここ数年の発達心理学者による研究では、読み聞かせをさまざまな機器の付属機能を用いて育
てられた子どもと、そうではない子どもとでは、二歳ころの言語の初期発達に差があることを
示している。言語入力のほとんどを人間から受け取る子どものほうが、言語能力の指数が高い
という。
読むことを覚え始め、若い日々のなかでも最もわくわくする学びへの冒険へと突入するのが、
五歳から一〇歳までの期間。しかし、アメリカの子どもたちは国が裕福であるにもかかわら
ず、読解力のテストでは多くが落第しているという。
具体的には、最近のアメリカの全国教育進度調査では、アメリカの小学四年生の子どもの三分
の二は、すらすらと十分に理解して読んでいないという。
この期間に親から学校・教師にバトンが渡される。学校の子どもたちの文字を読む能力には六
つの発達様相に分けられる。それは読字障害やディスレクシアも含まれる。先程のサックスは
「教育は体系と自由のバランスを取る必要があり、子供一人ひとりのニーズは変わりやすい」
と述べていたが、子ども一人ひとりにあった教育を心掛けるようメアリアン・ウルフも奨励し
ている。
特に五歳から一〇歳の子どもの教師には、読字回路のあらゆる要素、音素の文字とのつなが
り、文における言葉と書記素の意味と機能、より高度な深い読みプロセスを必要とする物語へ
の没頭、話したり書いたりする際の子ども自身の思考と想像を毎日引き出すこと、注意を払う
必要があると述べる。そうすれば、認知、知覚、言語、感情、そして運動の領域に関係するも
のは何も無視されない。
ぼくはペシミストに近い立場で、ある意味では保守的な人間なのでここまで悲観的に書いた
が、メアリアン・ウルフはそんなに悲観的にはなっていない。メアリアン・ウルフは、私たち
大人が子どもたちに、あまりに幼いときからデジタルがもたらす外部の知識源にすぐ依存する
ことを教えれば、若年者の知的発達に干渉することになる。しかし一方で、従来の既存の知識
だけに、あまりに大きく依存するように教えれば、デジタル文化における彼らの進歩を妨げる
ことになる、と書いている。そして、子どもたちの知的発達は、この二つの指針の発展的思慮
深いバランスを見つけることにかかっていると指摘する。そんなメアリアン・ウルフが提唱す
るのが「バイリテラシー脳を育てる」というものだ。
メアリアン・ウルフが提案するのは、五歳から一〇歳の期間に、印刷ベースとデジタルベース
のさまざまな形式の読字および学習を導入するという構想。
それは、子どもがデジタルデバイスの画面で読み始めたら「対抗スキル」を教えるというもの
であり、特に重要なのは、スピードではなく意味を求めて読むこと。その他には、多くの成人
の読み手が行っている単語で見当をつけるジグザクの斜め読みを避けること、読みながら自分
の理解を習慣的にチェックする(話の筋の順序や「手がかり」を確信し、記憶を詳しく話す)こ
と、印刷で学んだものと同じ類推と推論のスキルをオンラインのコンテンツにも展開する戦略
を学ぶことを勧めている。この計画の最終目標は、媒体に関係なく、深い読みのスキルに時間
と注意を割り当てる能力をもった真のバイリテラシー脳を育成すること。
バイリテラシー脳を促進するには学習環境も大切であり、それには三の大きな問題に進んで対
処しなければならないという。メアリアン・ウルフは三つの観点から述べている。
第一に、科学者としての観点からで、印刷とデジタルの媒体両方があらゆる子どもたち、特に
原因は環境であれ生物学的なものであれ読字に課題を抱えている子どもたちにおよぼす認知的
な影響に関して、もっと多くの研究に投資する必要がある。
第二に、教育者としての観点。もっと包括的な専門の研修に投資する必要がある。ほとんどの
教師は、幼稚園から四年生までの子どもにとって最善のテクノロジー利用に関する研修を受け
ていない。まして、さまざまな学習者に優れたオンライン読みのスキルを教える方法の訓練も
受けていない。
第三に、市民としての観点。私たちの社会および世界に存在する利用機会の格差と向き合い、
それを排除する努力をしなくてはならない。
2020年6月14日の読売新聞で「活字の学び 紙と電子ともに持ち味生かせ」という記事が掲載
された。それは、読み書きの能力を培ってきた活字文化の蓄積を踏まえつつ、デジタル偏重に
陥らない教育を目指したいとする、有識者や新聞・出版団体の代表らが参加し、「活字の学び
を考える懇談会」が発足したことを伝える内容だった。
その活動は、「電子と印刷の両メディアの持ち味をバランスよく生かした学校教育を求めてい
る。シンポジウムなどを通じ、政策提言を続ける」というものだ。会長は作家の阿刀田高さ
ん。
メアリアン・ウルフはいう。ウィリアム・ワーズワースは「詩人の墓碑銘」の最後に、詩人が
世界をもたらす遺産を「静かな目が獲得したもの」と表現した。芸術家のシルヴィア・ジャド
ソンは「静かな目」を、見る人が芸術に向けてほしいものを表現するときに使った。神学者の
ジョン・ダンは「静かな目」を、人間が愛を知で満たすために必要なものを表現するのに使っ
た。メアリアン・ウルフは、この「静かな目」を二一世紀の読み手に対する懸念と希望の両方
を明確にするために使うと宣言している。彼らの目はますます落ち着きがなくなり、その「注
意の質」はいつの間にか悪化しつつあり、誰も予測できなかった結果をもたらしていると。
ワーズワースのいう「静かな目を獲得した」詩人が一人思い浮かぶ。
晩年に遺伝的な眼疾が悪化して失明に至り、『アレフ』という短編小説の中で「子供のころ、
わたしは閉じた本の文字が夜のうちに混じりあって消えてしまわないのを、しばしば不思議に
思ったものだ」と書いたホルヘ・ルイス・ボルヘスだ。ボルヘスは「書物とはなんでしょう
か?」と自問し、「書物は、物理的なモノであふれた世界における、やはり物理的なモノです。
生命なき記号の集合体なのです」と答えてもいる。さらに続けて「ところがそこへ、まともな
読み手が現れる。すると言葉たち−言葉たち自体は単なる記号ですから、むしろ、それらの言
葉の陰に潜んでいた詩−は息を吹き返して、われわれは世界の甦りに立ち会うことになるわけ
です」と語った。
デジタルデバイスでの読みではボルヘスがいうような「世界の甦りに」立ち会うことができな
いだろう。
アメリカの大外交官であったジョージ・ケナンは、晩年に著した著書の中でテレビの弊害やそ
の中毒性に警鐘を鳴らした。特に子どもたちに対してである。「子供がテレビさえ見ていなけ
れば、他にいろいろすることがあるのに、その機会を否定される」「映像が読書−そして思考
を随分と妨げる」「子供が、特に現実の問題を扱った本を読む場合、目の前にあるのは活字の
つまったページだけ。後は想像に頼るしかなく、そこで想像力を働かせるのだ」と書いた。
しかし、テレビではそうはならない。さらにケナン節が炸裂しているのは、「子供が雨の日に
独り部屋に残されて、そこには本が詰まった書棚と窓をしたたる雨しか面白そうなものはな
く、テレビもなく、本を取り出して読むより他にすることがなかった、という経験をしたこと
がなければ、その子供はまさに欠陥者なのだ」とまで書いていることだ。
ケナンと同じアメリカで、国家安全保障問題担当大統領補佐と国務長官を務めたヘンリー・キ
ッシンジャーは『国際秩序』の中で、「情報過多は逆に、知識を得ることを妨げ、知恵をいま
だかつてないほど遠ざけている」と書き、「書物から知識を得るのは、インターネットとはま
ったく異なる経験になる。読書はわりあい時間がかかる。そのプロセスを容易にするには、流
儀が肝心になる。・・・書物から得る知識は、概念思考−類比できるデータや出来事を認識
し、図式として未来に投影する能力−にとって貴重なのだ。また、流儀を持つことで、読者は
本の内容と自分の美学を融合させ、著者や問題との結びつきを深める」とメアリアン・ウルフ
の指摘と同じように書いている。ケナンやキッシンジャーのように外交に必要な洞察力が培わ
れた背景には、「深い読み」による読書もその一因だと思っている。特にケナンに関しては文
学を大切にし、チェーホフやトーマス・マンを若い時から座右に置いていた。
そもそも読書とは何なのか。先ほどから何度も登場しているへーリッシュによれば、「読書と
は人を孤独にすることによって、大量に主体ないし個人を生み出すのである。そして読書は人
を狂わせる」と書いた。しかし、メアリアン・ウルフは本書の中でダンとプルーストに触れな
がら次のように述べてる。
「熟考に関する崇高な書『愛の心』で、ダンはプルーストの洞察を発展させています。「その
『孤独のただなかにあってもコミュニケーションを実らせることのできる奇跡』はすでに、一
種の愛の習得かもしれない」。ダンは、プルーストが表現した読書のなかの−読むという行為
は本質的に孤独であるにもかかわらずコミュニケーションが生まれる−というパラドックス
は、ほかの人間を知り、彼らが何かを感じるかを理解し「他者」とは誰、または何であるかの
感覚を変えていこうとする試みへの思いがけない準備になると考えました」とへーリッシュが
指摘するように、読書とは孤独な行為ではあるが、コミュニケーションを実らせることのでき
る行為でもあり、登場人物につながり、著者ともつながり、あらゆるものとつながっている。
読書というのはパラドックスが内包されている不思議な行為である。
幕末最大の思想家である横井小楠は、本を読むこととは、それだけに満足するのではなく思う
ことが重要である、と述べたと伝えれらている。
先述したボルヘスは「人間が創り出したさまざまな道具のなかでも、最も驚異的なのは紛れも
なく書物である。それ以外の道具は身体への延長にすぎない。たとえば望遠鏡や顕微鏡は目の
延長でしかないし、電話の声の、鋤や剣は腕の延長でしかない。しかしながら書物はそれらと
は違う。書物は記憶と想像力の延長なのである」と書いた。
冒頭で引用したフェルナンド・パエスは、書物は魔除けであり、いのちであり、自然でもあ
り、万物や世界、人間や夢でもあるということを列挙し、「これらのメタファーのひとつひと
つは、永続する言葉があって初めて理解できるものであり、書物と人間が分かちがたく結びつ
いているという意識の表れでもある」と書いた。
文化人類学者である今福龍太は書物を生命のように捉え、種子や琥珀に始まり書物へと至る、
生命と記憶の変転をめぐる壮大な精神史である『書物変身譚』では次のように述べている。
「一冊の優れた書物のなかに開示された精神は、世紀を超えて別の書物のなかに豊かに継承さ
れてきた。書物相互間のこの繊細で有機的な関係は、模倣とか受容とか影響とか感化とかいっ
た一義的な関係にとどまらず、一つの生成が別の生成の母胎となり、一つの創造が別の創造を
呼びだす、自立した複合的な宇宙相互間のダイナミックな連繋と創造の関係としてとらえるこ
とができる。その多様体のなかにある一個の存在が、それ自体としての全宇宙を反映している
ような。それは曼荼羅の絵図のようでもあり、キノコや粘菌などの菌類の自在な運動が示すミ
クロコスモスをも思わせる」
さらに今福は好著『わたしたちは砂粒に還る』のなかで、書物のもつ既知や未知、あるいは叡
知やその人格性を次のように表明している。
「数千年の時間のなかで知性を人間のもとへと媒介しつづけてきた、古代の原−書物をふくむ
本の長く豊かな歴史が、マトリクスからの出立と、そこへの帰還の運動でもあることを私は直
感的に感じとる。世俗の経済原理に完膚無きまでに囲い込まれてしまった商品としての本の零
落を嘆きつつも、母胎から生まれ、そこへとついには還る有限性の世界を私たち人間と共有す
る「書物」という形態=思念の深い消息を感じ、思考しつづけることの大切さを思う。
書物の偶然の出自、純粋に物質的な世界と高度に抽象的な人間精神とのあいだに置かれた、叡
知の媒介者。
私はときどき、書物はそんな一人の人格者、もっと過酷な自然風土としての砂漠を目指す聖
者、あるいは砂漠そのものであるような人格として夢想する」
『エコラリアス』のダニエル・ヘラー=ローゼンは、「言語を忘却した瞬間にはじめて、言語
の秘密にたどり着ける」と書いた。何度も登場しているヨッヘン・へーリッシュは『メディア
の歴史』の末尾の中で、「メディアは答えを与える。他の誰に、または他の何にそれができる
と言うのか。だが、メディアは自分がどの問いに対して答えを与えているかを忘却していない
とも限らない。与えるものは奪うものである」と書いている。『クラウド時代の思考術』のウ
ィリアム・パウンドストローンは「知識の不足などではなくて、瑣末な事実など気にしない文
化のなかにどっぷりと浸かっていること」を問題とし、「インターネットが、われわれの知識
を乏しいものにしていたり、あるいは誤った知識を与えているということではない。それはイ
ンターネットがわれわれを「メタ・イグノラント」(超無知)にしていることだった」と書い
た。
紙の書物はなくならないと思うが、徐々に後退し退場し忘却し始めている。
大袈裟なのかもしれないが、メアリアン・ウルフはそんな状況下で本書を著した。
それはローゼンのいう「忘却した瞬間にはじめて、その秘密にたどり着ける」ということであ
り、へーリッシュのいう「与えるものは奪うものである」ということもそれとなく書いている
ように思えなくもない。
書物相互間を曼荼羅の絵図のようでもあり、キノコや粘菌などの菌類の自在な運動が示すミク
ロコスモスのように捉え、対照的に単数の書物を一人の人格者、過酷な自然風土としての砂漠
を目指す聖者、あるいは砂漠そのものであるような人格として夢想した今福。
そんな今福がひっそりと表明した言葉に静かに賛同したい。あまりに私的な対話でした。
役に立つ、便利だ、有用だ、経済的だ・・・。そんな安っぽく扇動的な言葉を、本の世界から
きっぱりと放逐してしまおう。それらすべての形容をまとって巷に登場してきた電子ペーパー
画面が付いた掌に乗るタブレットなどを、本ではない、と見破ろう。
それらを使って「情報」を収集することは自由だ。だが、書物との遭遇によって与えられる真
の啓示や発見は、情報記号の手軽な消費によってではなく、私たちの身体をまるごと、風や雨
や砂嵐を受けながら、あの仙人が見つめる未知の荒野へと踏み込んでゆかねばけっして手にす
ることはできない。
『わたしたちは砂粒に還る』今福龍太