中国共産党が喜びそうな歴史観 | 『日中関係史 1500年の交流から読むアジアの未来』エズラ・F・ヴォーゲル


「中国」での歴史とは、かつての史学と同じく、政権・イデオロギーの利害得失を代辯、説明、

主張するものであって、われわれが「学門の自由」「討論の自由」にもとづく、と普通に考え

がちな歴史学とは、次元の異なる存在である。

『中国の論理』岡本隆司

「チベット人たちは、自治区の境界線をもっと外に拡大し、他者のチベット人居住区を統合す

ることを要求していたのである。チベットの王国は中国とほぼ同じ面積の領域を支配してい

た。そのころから四川省、青海省、甘粛省、雲南省のあちこちに小さなチベット人の村が生ま

れ、存続してきた。だが、どれほほど寛大な中国人でさえ、そこまで広大な領土をチベットに

譲歩することは考えられなかった」

「共産党の宣伝情報を通してチベットについて理解するようになった漢族の大衆は、中国政府

は寛大な財政援助をしているのにチベット人は恩知らずだと考えている」

「九〇年代後半にはラサの移住者の数はチベット人の数をしのぐ勢いになった。

チベットの若者は、将来を見据えてマンダリンを学び、中国式の教育を受けるようになってい

る」

と『現代中国の父 鄧小平』のなかで、中国共産党のチベット政策を肯定するかのように書い

ていたエズラ・ヴォーゲル。マンダリンとは満洲なまりの漢語で中国官話のことであり、それが

共通語である普通話の基礎になった。

そして、今回は『日中関係史 1500年の交流から読むアジアの未来』を著した。

ヴォーゲルは前作の『現代中国の父 鄧小平』を著した後、その出版記念で二〇一三年に来日

している。その際に「次は胡耀邦の伝記を書く」と意気込んでいた。

しかし、一年後に本書の訳者である益尾知佐子氏が渡米して、ハーバード大学のイエンチン研

究所を尋ねると、「胡耀邦を書く準備はほぼできているけれども、多くの友人のいる日本と中

国が、明日にでも戦争になりそうな緊張状態にあるのは耐えがたい。かつてはあんなに良い関

係だったのに。私は日中の間で特殊な立ち位置にある。自分だからこそ、できることがあるは

ずだ。だから胡耀邦より先に、日中関係について一冊書いて、両国の人たちが関係を再構築す

るための手助けをしたいんだ」と語ったという。

これまでのヴォーゲルの著作は、欧米の読者にアジアについて説明するのを目的としていた

が、本書では、日本と中国の読者に向けて、これからの時代を担う若い人たちに読んでほしい

という願いを込めて、時間をかけて執筆したという。

エズラ・F・ヴォーゲル

ヴォーゲル曰く本書は、自身の師でもありハーバード大学でともに勤務したタルコット・パーソ

ンズの理論枠組みに従っているという。

パーソンズはマックスウェーバーの研究者でもあり、基本的な政治、経済、社会構造と、それ

らを下支えする価値体系とに分けて社会全体を分析した。

そのような歴史社会学者としての観点からヴォーゲルは執筆している。

なんてことはない、本書では内藤湖南のいう、日本にとってシナ文化は豆腐の“ニガリ”、

岡倉天心のいう、日本はアジア文明の博物館、の中国から影響を受けた時代から、

明治の東京時代に西洋文明を受容し、今度は逆に中国がその日本型の近代化路線を受容し、

現在でも日本文化圏に入っている時代、七世紀の遣隋使以来の一五〇〇年間に及ぶ日中関係

を“ヴォーゲル史観”で書かれている。

勿論、ヴォーゲルは今の中国が「日本型の近代化路線」「日本文化圏」などとは直接的には表

現していないが、けれどもその受容した過程は書いている。

そのターニングポイントとなったのは、日清戦争における清国の敗北であり、二〇世紀になる

と、何百人もの中国人官僚が日本を訪れ、何百人もの日本人教師や顧問が中国で働き、何千人

もの中国人学生が日本の教育機関に留学している。周恩来も蒋介石もそうだ。

一九四九年~一九七二年までは、日本と中国は公式な政府間関係がなく、毛沢東も「東風は西

風を圧す」と意気揚々と発言していたが、日中平和友好条約が成立し、社会主義経済の原則を

放棄してまでも鄧小平副総理の提唱する四つの現代化を国是として、急速な工業化による経済

の高度成長を目指した。

一九七九年~一九九九年にかけて、中国に対する二国間援助の約五六%は日本が拠出した。

それは三つの柱から成り立っており、主に衛生、教育、その他の社会インフラに向けられる無

償資金協力、次に技術援助、最後にハードなインフラ建設に用いられる円借款の三つであっ

た。

大まかなヴォーゲルの時代区分は、日本の文明が中国からの学びによって様変わりした六〇〇

~八三八年の時代、次の長期間は(一〇〇〇年以上)、日本がじっくりと中国から文明を学び続

けた時代で、朝貢関係がなかった八三八年~一四〇三年、朝貢関係が存在した一四〇三年~一

五四七年、公式な接触がなかった一五四七年~一八六二年の時代。

そこから日清戦争をはさみ、中国が一八九五年以降に日本からの学びによって大きな変化を遂

げた時代、としている。

「大和民族が中国に最初の遣隋使を派遣したのは、六〇〇年のことだった。

以後、最後の遣唐使が派遣される八三八年まで、大和民族は中国からさまざまなことを学び、

自分のものにした」(本書)

「日本が六〇〇年から八三八年までの間に中国から学んだこと―文字対話、仏教、文学、音

楽、建築など、日本文化の基本的な構成要素―は、一九世紀と二〇世紀に西洋文化が到来して

から生き残った」(本書)

ヴォーゲルは、中国人が最初に仏教について知ったのは、インドを訪れた旅行者たちからだっ

たと書いているが、それは間違いで、中国に仏教をもたらしたのは、安息国(パルチア)や大月

氏族の渡来氏族、ソグド系やクチャ出身などの漢人が大好きな異民族たちだった。

さらに、ヴォーゲルは指摘していないが、日本が遣隋使・遣唐使を派遣した隋も唐も、その帝室

は鮮卑(せんぴ)系の王朝であった北魏、西魏、北周のもとで実現した、鮮卑族と、鮮卑化した

漢族の結合した集団のなかから出てきたもの。

岡田英弘氏は「一般のシナ史では、シナというのは三千~四千年続いていて、そのシナの内部

で王朝だけが交代したにすぎない、つまり、シナ史の枠組みは変わらない、と考える」と述べ

ていたが、ヴォーゲルもそのような歴史観に立脚して書いている。

「中国と日本の軍隊が初めて衝突したのは、紀元六六〇年代に朝鮮半島でだった。

二度目の衝突は、モンゴル人率いる元軍が日本に襲来したときのことである―

中国と日本の軍隊が日本国内で戦ったのは、歴史上このときだけだった」(本書)

「一六四四年に北京に入城した満洲族は清を打ち立て、徳川家と同じく安定した新体制の確立

に成功し、それは一九一一年の革命まで続く」(本書)

さすがにモンゴル人を「モンゴル民族」とはしていないが、元や清を現代まで繋がる中国(シ

ナ)の一時期であるように書かれているが、そうではない。

最近NHKのBSで放送されていた『中国王朝 英雄たちの伝説』という番組で朱元璋と雍正帝

を取り上げていたが、そこでも上述のような歴史観だった。

中国人からしたらそのような歴史観を流布させたいのだろう。

元朝はモンゴル帝国の一部であり、清朝はその元朝を継承している。

元や清は中国(シナ)とイコ-ルではなく、清朝はモンゴルと不可分であり、分けてはならな

い、と岡田氏は指摘している。

元朝時代には南北全部が元朝だったので、万里の長城などは必要なかったが、南方の反乱で誕

生した明は、北を統治することができず、軍事的にも弱かったために、万里の長城をつくらざ

るをえなかった。

北元は一六三四年に滅んだとされるが(本書ではそこまで書かれていない)、それは元の直系の

子孫が清の太宗となるホンタイジに譲位した、ということであり、そのことを見ても清が元に

繋がっているのは明らか。

さらに、満洲人が建てた「大清」は、元朝のアイデアを継承し、自分たちの国号をつくってい

る。

元朝以前の王朝は、地名から国号を取っていたが(春秋時代からすべて)、元朝の「大元」は天

を意味した。「大清」は「大元」と同じく天という意味。

「日本ではいくつかの自然条件が有利に働いたため、日本は西洋諸国からの過大な要求に対し

て中国より迅速に対応できた。

その領域は四つの小さな島からなるコンパクトなものだったため、統一された全国的な対応が

とりやすかった。(中略)

中国の指導者たちは馬に乗って北からやってくる侵略者を長い間心配してきたため、海の向こ

うの世界にはあまり興味を抱かなかった」(本書)

「日本は小さく均質で、統一はかなり容易だった。他方で中国ははるかに多くの人口を抱えて

おり、そこには漢族、モンゴル族、満洲族、ウイグル族、チベット族などの異なる言語や文化

を持つ多種多様な民族集団が住んでいた。

そのため国の政策を統一し、国内の調和を維持するのはより難しかった」(本書)

この文は西欧の衝撃から近代化へ至る当時の日本と中国の様相を書いたものだが、清朝はアヘ

ン戦争後もすぐには変わらなかった。

中国(シナ)ではもともと、夷狄(周辺の野蛮人)に対する伝統的な政策として、羈縻(きび/馬や

牛につけるたづな)とか懐柔などと呼ばれる手段があった。

軍事力が強くて掠奪をする敵を手なずけるために、品物を与えるというもの。

南京条約を結んでイギリスの要求をほぼ全面的に認めたのも、乱暴者が家にあばれこんで手が

つけられないから、欲しいものをやって退散を願っただけと考えた。

その証拠に、南京条約を結んだあとも、清朝ではイギリスのことを公文書でも「英夷」と呼ん

でいる。(宮脇淳子氏による)

さらに、条約を結んだあとのイギリスやフランスに関する業務を担当した役所は理藩院であ

り、理藩院とは、モンゴルやチベット人や回部など、藩部と呼ばれた属領を担当する役所であ

った。アヘン戦争後も清朝はすぐには変わらなかった。

その前から危機感を抱いていたが、アヘン戦争に最も衝撃を受けたのは幕末の日本人であり、

幕府は清朝が結ばされた南京条約調印の前日に、「新水給与令(しんすいきゅうよれい)」を出

し、排外姿勢はやめて、柔軟なものに変えていった。

アヘン商人からアヘンを没収して化学処理した林則徐のカントンで集めた資料を使い、魏源が

編纂して『海国図誌』を著すが、島津斉彬、松平春嶽、吉田松陰、横井小楠、佐久間象山など

が読んでいる。

清朝の満洲人は国初以来、モンゴル人と連合して、漢人を統治し、チベット人と回人を保護す

るという建前だった。

清朝は一六九六年には北モンゴル、一七二〇年にはチベット、一七五九年には天山南北路(現在

の新疆ウイグル自治区)を征服し、中国(シナ)と北アジアを統合する中華帝国の広がりは史上最

大になっている。

これは契丹、女直、モンゴルの活動の総仕上げが、この清帝国であるということであり、漢族

はあくまで受け身の立場であった。

清朝では、マンジュ人(満洲人)、モンゴル人(蒙古人)、漢人、チベット人、回人(いわゆるウイ

グル人)の五種族の住む範囲を区別して、それぞれに法典を用意している。

マンジュ人はすべての八旗と呼ばれる八集団に分属し、それぞれの出自に従って満洲(マンジ

ュ)・蒙古(モンゴ)・漢軍(ウジェン・チョーハ)と名づけ、旗人と総称された。

その法典は「八旗則例」であった。

また、モンゴル人は外藩蒙古(トゥレルギ・モンゴ)と呼ばれ、元代以来の封建制度を保ってい

る。その法典は「蒙古例」であった。

漢人(ニカン)は「大清律例」を適用され、明の旧制に従わせた。

仏教徒のチベット人(トゥベト)は「西蔵事例」を、回人のトルコ系東トルキスタン人(ホイセ)

は「回疆則例」を適用された。

全体としては、マンジュ人とモンゴル人は協力して漢人を統治し、これにチベット人とトルコ

系イスラム教徒が服属するという形をとり、オイラト人はモンゴル人の一部と見なされてい

た。

また清朝は漢人と満洲人との結婚を禁止し、漢人が満洲、モンゴル、チベット、新疆などの地

域に立ち入ることも禁止していた。(岡田英弘氏による)

現代の中華人民共和国の公式の歴史では、一八四〇年のアヘン戦争によって「半植民地」の

「近代(現代)」がはじまり・・・としているが、ヴォーゲルはそのような観方には立たず、日清戦

争後に「中国の近代化」を位置づけてはいる。しかも日本に学んだと明記している。

「二〇世紀初頭の数十年に、注目すべき転換が起きた。

日中が共有する歴史上初めて、中国から日本へという一方的な文化の流れが逆転したのだ」

(本書)

「長い間、文化的には二流と蔑んできた日本が、革新的な能力を持つ国として急に浮上し、清

国の発展のモデルになり得る国と称えられるようになった。

一九一〇年から一九〇六年までの清国の視察報告書によれば、この期間だけで五〇〇から一〇

〇〇名の官僚が日本への視察旅行に参加している」(本書)

しかし、戦前・戦中と日本軍が悪魔のように書かれ、支那事変を日中戦争として一章設けて書い

ている。

一九三七年七月七日、盧溝橋で軍事演習中の日本軍が銃撃される。

なぜ日本軍がいるかというと、北清事変後に結ばれた北京議定書で駐屯する権利が認められた

からであった。

同年二十九日には、通州で日本人居留民二百六十名が中国軍に虐殺されている。

それでも日本政府は不拡大方針を唱え、蒋介石も戦争に踏み切らなかった。

八月に上海で日本海軍の軍人二人が中国軍に射殺され、日中の交戦が始まった。

これで始まったのは日中戦争ではなく支那事変であり、日本も蒋介石も宣戦布告をしていな

い。

事変と戦争は違っていて、戦争になると居留民保護は軍隊の権限になり、軍が民間人に命令を

出すことができる。事変のときは居留民保護は外務省の管轄になるので、軍は間接的な方法で

しか居留民を守れない。(宮脇淳子氏による)

日本の占領政策に関しては、ジョージ・ケナンが対日政策の方向転換に役割を果たしたことなど

も取り上げている。

その後に関しては、国交正常化前の日本と中国の接触チャンネルや内向き中国と文化大革命、

佐藤栄作や田中角栄をはさんで協力の時代に入り、一九九二年~二〇一八年の日中関係が悪化

した時代までを書いている。

多くの紙幅を割いているのは近現代で、石橋湛山を高く評価しているのも目に留まった。

長くなりすぎるので詳しくは書かなかったが、気になる方は是非自身で紐解いてほしい。

勿論、皆さんの大好きな、南京や慰安婦や東京裁判のことにも言及している。

そして最終章では、新時代に向かってという章を設け、ヴォーゲルは次の言葉も記している。

「両国とも、歴史問題の悪化を避けるためにできることがある。

国民に対し、歴史をより正確により詳細に説明すること、そして、よりバランスのとれた形で

現在の両国関係を説明すること、である。

両国が互いにどれほど学び合ってきたかを認識し、ともに協力し合ったポジティブな経験を示

すことで、両国民は長い間に織りなされてきた日中関係をよりよく理解できるはずだ」(本書)


冒頭の通り『現代中国の父 鄧小平』を読み、ヴォーゲルの中国観には疑問を持っていたの

で、構えて本書を読んだ。

率直な感想は、本書の中でヴォーゲルは、日本が長らくシナ文化圏にあった、ということを過

度に強調しているのは否めない。

二国間関係だけで歴史を捉えるのも限界だし、今の中国人が認識している歴史観・世界観で、中

国人が喜びそうな「中国史(隋から)」を書いていることには疑問符がつく。

冒頭で引用した岡本隆司氏が指摘する、「「中国」での歴史とは、かつての史学と同じく、政

権・イデオロギーの利害得失を代辯、説明、主張するものであって、われわれが「学門の自由」

「討論の自由」にもとづく、と普通に考えがちな歴史学とは、次元の異なる存在である」

という視点がヴォーゲルには決定的に欠けているし、二国間関係に重点をおいているとはい

え、南シナ海やチベットやウイグルで起きていることには言及がなく沈黙している。

“訳者あとがき”で益尾氏は、「「自国史観」が乱立する東アジア、そしてとりわけ日中間で、

人々の異なる考え方の間に多くの架け橋をかけ、心のしこりをほぐし、次の世代が協力しつづ

けるための基盤づくりをしたこと、それが本書の功績だと思う」と書いている。

しかし、ヴォーゲルが抱いている歴史観で、「両国の人たちが関係を再構築するための手助け

をしたいんだ」ということは不可能であり、逆に関係をこじらせてしまうだろう。

すべての箇所とはいわないが、やはり日本人を納得させるような日中関係は書けなかった。

ただし、中国人が喜びそうな内容にはなっている。

日中関係は政治的な視点だけではなく、漢字文化圏、儒教文化圏、仏教文化圏、道教文化圏、

茶の湯文化圏、山水文化圏、などに着目したほうが上手くいきそうな気がするが。

しかし、“華夷思想原理主義”に囚われている中国人には話が通じないだろう。

最後に余談だが、ヴォーゲルはハーバード大学ヘンリー・フォードⅡ世社会科学名誉教授だ。

ハーバードといえば、パンダハガーの筆頭であり『中国』を著したヘンリー・キッシンジャーを

連想する。

そのキッシンジャーを礼賛する内容で書かれているのが『キッシンジャー超交渉術』であり、

その著者のニック・バーンズ、ボブ・ムヌーキン、ジム・セベニウス、の三人もハーバードと関係

が深い。

これはどういうことを意味しているのだろうか。少し勘ぐりすぎただけだろうか?

中国を研究するアメリカ人の多くは、中国を西洋帝国主義の気の毒な犠牲者と見なしがちだ。

それは中国の指導者が、積極的に後押しする見方である・・・

このような中国を助けたいという願望と、善意に満ちた犠牲者という中国の自己イメージを妄

信する傾向が、アメリカの対中政策の軸となり、中国分析の専門家による大統領などへの提言

にも影響を与えた。

1971年にリチャード・ニクソン大統領が中国との国交回復に向けて動き出して以来、アメリカ

の対中政策を決めるのは主に、中国と「建設的な関係」を築き、その発展を助けようとする

人々だった。

『China 2049』マイケル・ピルズベリー

中国を論じる場合、自覚しておいたほうがよい以下のような三つの原則がある。

1、中国人の行動はヴァルネラビリティという物差しで判断するのがよい。

2、中国人にとって、言葉は言葉、行動は行動、現実は現実で、別である。

3、本心というものは、かならず二股以上である。

『東アジア史の実像 Ⅳ』岡田英弘

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エズラ・F・ヴォーゲル 日本経済新聞出版社 2019-12-18