それはジョージ・ケナンのようだった・・・ | 小川 和久氏の『フテンマ戦記 基地返還が迷走し続ける本当の理由』


本書は民間人の立場で普天間問題に関わることになった私、軍事アナリスト・小川和久の回想録

である。

書名を『フテンマ戦記』としたのは、専門家としてベストの答案を求め続けた私の戦いの記録

ということによる。

おのれの力をわきまえず強者に戦いを挑むカマキリの姿に私自身を重ね、蟷螂(とうろう)の斧

という言葉を思い浮かべつつ書名を決めた。

『フテンマ戦記 基地返還が迷走し続ける本当の理由』小川 和久

決して自慢しているわけではないが、本書が上梓される日をツイッター上での小川先生とのや

り取りから教えていただいた。まさかそんな執筆を始めていたなんて思いもよらなかったし、

正直いってとても驚いた。

『普天間問題』(ビジネス社)に関しては以前にこのブログで紹介しましたが、本書のなかでそ

の出版された意図や経緯なども述べらていて、小川先生は次のように記されている。

「・・・普天間問題をブックレット風にまとめ、広範な読者に理解を求めたいというのが狙いだっ

た。鳩山首相と官邸スタッフにも、この本を読んで基礎知識を備えてもらえば、普天間問題の

解決に少しは役立つのではなかと思いつつ、作業を進めた」(本書)

小川先生の狙い通り、その2カ月後に、鳩山首相と佐野政務秘書官が目を通し、多少の時間差

はあったものの一般人のぼくにまで届き、理解が深まった。

『普天間問題』では、軍事アナリストの視点、普天間問題の当事者の一人だったという視点か

ら、アメリカ側の戦略や海兵隊の運用面、日本政府や官僚の不手際さや沖縄の未来に対してな

どが論じられ、最終的にはロードマップを示されていたが、本書『フテンマ戦記』では、その

視点を踏まえているのは当然だが、時系列にそって克明に記録され、より深くまで掘り下げら

れている。

小川先生は本書を執筆した決意を“はじめに”で表明されている。少し長くなるが、本書を読み

解く上で重要な観点なので引用したい。

「研究者の一人としては、本書がいささかでも日米同盟や沖縄米軍基地問題をテーマとする研

究者の役に立って欲しいと願っている」(本書)

「平成から令和へと平穏のうちに元号が変わり、一見、平和と繁栄が続いているかに思われる

が、その実、日本は間違いなく内側から蝕まれつつある。民主主義は形式に流れ、政治が健全

に機能していなからだ。それを象徴しているのが普天間問題の移設問題である。

本書は普天間問題を歴史に埋没させないための作業でもある」(本書)

1945年頃に撮影された普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)

繰り返して恐縮ですが、本書は、沖縄の米海兵隊普天間基地移設問題について、1996年4月の

返還合意から2010年初夏にかけてのアウトサイダーという立場から関わったこととその動き

を、メモワール(回想録)としてまとめたもので、全6章で構成されている。

第1章「迷走への序曲 自民党本部1996」、第2章「小渕官邸1998~2000」、第3章「小泉・安

倍・福田・麻生官邸2001~2009」、第4章「鳩山官邸2009~2010「トラスト・ミー」の陰

で」、第5章「沖縄クエスチョン1999~2011」、第6章「鳩山だけが普天間を迷走させたの

か?2010~2019」。

軍事アナリスト・小川和久と『在日米軍―軍事占領40年目の戦慄』

政治家でも官僚でもない小川氏が何故、普天間問題に関わってきたのか。

それは、外交・安全保障・危機管理の分野について、なぜか日本の官僚機構や学界が苦手として

きたからだ。それは官僚や政治家に限らず、日本人全般に言えることでもある。

本書でもそれを指摘されているが、小川氏がいつも口を酸っぱく述べていることでもある。

そして、小川氏が普天間問題に限らず、国の政策に関わるきっかけになったのは、

『週刊現代』の記者から独立した直後に出版した『在日米軍―軍事占領40年目の戦慄』だっ

た。

しばらくして、浜田卓二郎自民党衆議院議員主宰の政策集団・自由社会フォーラム(FLS)の議員

勉強会に招かれ、それ以来、自衛隊のカンボジアPKO(国連平和維持活動)派遣にはじまり、イ

ラク復興支援など様々な局面で、政策の隙間を埋め、乖離を接着するような役割を果たすこと

なっていった。普天間問題もその一例であった。

なので本書は、軍事アナリスト・小川和久の後半生を綴った自叙伝のような体裁にもなってい

る。しかし、それはほんの一面にすぎない“横糸”であり、いくつもの“縦糸”がこれでもかと織

り込まれており、あらゆるものが連打されている。

『普天間問題』を紹介した時に、時系列に沿って概要は記したと思うので、今回は違った面を

取り上げたい。それと本書は大著であり内容が豊富なので、ほんの一部しか取り上げることが

できない。なんせ24年間の手帳やメモ、資料をもとに明記されているから。

なので、第1章の“さわり”と、その他の章の概要や目に留まった箇所、それとターニングポイン

トとなった箇所を少し取り上げたいと思っている。

普天間飛行場が返還合意に至った大きなきっかけは、沖縄での少女暴行事件を受けてだった。

皆さんもご存じだと思いますし、『普天間問題』でも当然触れられていましたが、本書ではさ

らに具体的に言及している。

日米両政府は1995年11月、日米安全保障協議委員会(SCC)の下に、「沖縄における施設及び

区域に関する特別行動委員会」(SACO)を設け、沖縄にある米軍基地の整理・統合・縮小などに

ついて検討することになった。

沖縄県警は3日後、数々の証拠をもとに逮捕状を請求したが、日米地域協定の壁に阻まれ、起

訴前に身柄を拘束して取り調べることができなかった。

日米地位協定では、被疑者の米兵の身柄が米国側にある場合、起訴されるまでは米国側が被疑

者を拘禁すると定められていたからだった。

小川氏はこのときの米国側の反応を、意外かもしれないが、日本政府以上に事態を深刻に受け

止めていた、と述べている。

当然、沖縄県民の反基地感情は沸点に達した。米軍への抗議決議が相次ぎ、宜野湾市では事件

に抗議する県民総決起大会が行われ、沖縄中が怒りに燃えていた。

この時小川氏は琉球放送のゲストとして現場に臨んでいる。その前には沖縄タイムスの取材を

受けていた。

その一週間後に小川氏は、有楽町電気ビルの外国特派員協会で、沖縄での少女暴行事件と日米

同盟のあり方について講演している。外国メディアの関心も、いやがうえにも高まっていた。

このときの講演は翌月に、米本土で連邦議会の生中継で知られるシースパンによって繰り返し

放映されることになったという。

さらに小川氏によれば、シースパンを観た米国民の反応の中には、「日本政府はなぜ、小川の

ように論理的に日本の国益を主張できないのか」というものが少なくなかったという。

そして、県民大会から1カ月後には、TBS『筑紫哲也NEWS23』の取材でワシントンへ飛び、

マイケル・グリーン氏とテレビ対談をする。

この対談で、小川氏は米国にとっての日米関係の重要性をコメントとして引き出すことに成功

している。

グリーン氏は自民党議員の秘書を経験したことのある日本通だが、そのグリーン氏は、日米同

盟が高い双務性を持っており、日本政府は犯罪や事故の防止について米国側に強く主張すべき

だとする小川氏の主張を、否定しなかったという。

この対談に当り、グリーン氏が国防総省側の承認を得ていたことは間違いなく、米国側が同盟

国・日本の求めに耳を傾ける姿勢があることを確認できたことは収穫だった、と小川氏は述べて

いる。

この年(95年)の12月は2回、琉球放送の企画のため沖縄各地を歩いているが、特筆すべきは大

田昌秀沖縄県知事を表敬訪問し、沖縄米軍基地問題について意見交換していることだ。

そして、ここから大田知事との濃密な対談につながっていく。大田知事に関しては『普天間問

題』でも触れられていた。

翌年の96年には、普天間問題合意への動きも加速していたが、小川氏は琉球放送の特別番組に

出演し、そのあと2時間半、オーシャンビューホテル最上階のラウンジで大田県知事と沖縄米

軍基地問題の解決策について意見交換している。しかも二人きりで。

そこでは大田知事が、若い頃に少年学徒兵で編成された鉄血勤皇隊の隊員として戦ったことな

どに話が及び、米軍基地問題については、「沖縄県民が被害を受ける危険性を除去するのが

最優先課題」という点で考えが一致している。

小川氏はこの懇談で、「普天間問題返還合意後の県内移設についても沖縄県民の理解は得られ

る」という感触を得ている。

そしてそのことを、自民党総研の日米首脳会談へ向けての会合で報告している。自民党総研は

自民党政務調査会のシンクタンク。

ちなみに、この当時の小川氏の案は、普天間をそっくりキャンプ・シュワブに移すという考えだ

った。

シュワブの面積は普天間の4倍以上あり、もろちん、空地に滑走路を建設するような安易な発

想ではなく、海兵隊地上部隊の訓練を邪魔しない最適な場所を探し、邪魔な建物があったら移

築するという考え方だったという。

この年には、NHK『日曜討論』に出演し、宿敵といってもよい外務官僚OB岡本行夫氏も出演

されている。

小川氏が『日曜討論』に出演したのには、自身の発言をNHKをモニターしている米国側の反応

を探る意図もあったという。

橋本龍太郎首相は96年2月24日、サンタモニカで初めての日米首脳会談に臨み、事前に準備し

た発言要領には無かった普天間基地返還問題を提起した。

しかし、山崎政調会長によれば、クリントン大統領を通じた橋本首相の提起は米国政府の段階

で拒否されたという。

小川氏は山崎政調会長に、「取り返せるものを取り返せないようでは、独立国家の外交とは言

えません」と迫っている。

米国が返還に合意する条件は、第一に軍事能力が低下しないこと、第二に沖縄県民の反米感情

を刺激しないこと、の2点であり、キャンプ・シュワブに普天間基地と同じ規模の飛行場を作

り、そこに収容すれば、条件を満たすというのが、このときの小川氏の考えだった。

しかし、そこから一転して普天間返還合意に至る。これはターニングポイントであったが、小

川氏は次の言葉を残されている。

「返還合意の段階で、代替施設の軍事的合理性、つまり海兵隊の運用に支障があるかどうかと

いった点から詰めることを怠ったツケは、20年以上に及ぶ迷走という形で沖縄県民にのしかか

ることになる」(本書)

普天間合意のニュースは小川氏にとっても寝耳に水だった。

神戸で開催される会議に出席するため、新横浜駅から新幹線に乗ろうとして、キヨスクにあっ

た日本経済新聞の1面トップが目に入り、知ったという。

このように小川氏は、普天間の返還合意について事前に知らされていたわけでもなかったが、

頭の中にあったのは、米国は必ず返還に応じるという確信だった。

その根拠は何かというと、湾岸戦争直後の1992年、イギリスの作家であり『ジャッカルの日』

で著名なフレデリック・フォーサイス氏との対談で、アングロサクソンのメンタリティで動く米

国の外交について語り合ったときだった。

この話は『普天間問題』や日本記者クラブでの会見(2009年)などでも触れられているが、本書

ではもう少し踏み込んで記されている。

そして、そこから先進国の外交とはなにかを示されているが、重要なので引用したい。

「そのような先進国の外交にあって、日本外交だけが第1ラウンドでダウンを喫したら、

それを試合終了だと思ってしまう性癖を捨てきれずにきた。

普天間返還合意劇は、世界に通用しない日本外交の姿を浮き彫りにする一方、強いリーダーシ

ップさせあれば、政治主導で外交に勝利できることを証明したのだった」(本書)

返還合意を受けた政府部内の調整作業が続いていくが、小川氏は、少し前から普天間基地移設

についての説明を求められていた塩川正十郎自民党総務会長のもとに赴く。

塩爺(しおじい)の愛称で知られる。小川氏は「硬骨漢」と形容している。

具体的な“小川案”については本書を読んでほしいのだが、当時の防衛庁の官僚たちは「空き

地」に飛行場をはめ込む発想しかなく、演習場の真ん中に滑走路を描いて「キャンプ・ハンセン

陸上案」としていた。そして、米国側から「それでは地上部隊の訓練ができなくなるではない

か」と一蹴されてしまう。

小川氏は、この驚くべき防衛庁側の失態は、2010年の米国政府側との交渉で明らかになったと

いう。

その時に小川氏が練り上げたばかりのキャンプ・ハンセン移設案と沖縄県北部の振興策を組み合

わせた構想を話し、塩川氏は「これで解決できるなぁ」と頷いている。

さらに「(梶山静六)官房長官と会って説明してくれ」と言われ、梶山官房長官と議員会館の部

屋で会っている。ちなみに本書では、小川氏が塩川氏に示した普天間基地移設構想の概要のメ

モが収録されている。

梶山官房長官とは塩川氏に連れられ、議員会館で面会するが、梶山氏は自分の名刺も出すこと

もなく、こちらの話など聞く雰囲気でなく、次のように述べたという。

「普天間の問題は、岡本行夫に評論家なんかやめて泥をかぶれと言ってるんだ」

岡本氏に関してはその後の章で詳述されているが、外務省のキャリア官僚OBで、水野清氏とと

もに初代の首相補佐官(非常勤)に就任する。当時はマスコミから国際コンサルタントの肩書き

で紹介されていたという。小川氏は1996年のこの時について次のように述べている。

「結果的には、この梶山氏の「官僚OB頼み」が致命的なボタンの掛け違いとなり、普天間問題

が20年以上も迷走する原因となったといってよい。

少なくとも私の話を聞いて、岡本氏の考えとすり合わせ、普天間基地移設のための答案の完成

度を上げるべきだと思ったが、取り付く島もなかった」(本書)

その翌日の夜、小川氏は東京全日空ホテルの日本料理店『雲海』で、防衛庁の高見澤將林(のぶ

しげ)部員と普天間問題を話し合っている。部員とは他省庁でいう課長補佐。

何故、小川氏が高見澤氏に声をかけたのかというと、上述したように、前年にワシントンでマ

イケル・グリーン氏と対談したおり、日本の防衛官僚について評価を聞いたところ、「タカミザ

ワが最も有能」という返事が返ってきたからだったという。

高見澤氏には、塩川氏に話したキャンプ・ハンセン移設案プラス沖縄県北部の振興策の構想を説

明する。高見澤氏は次のように述べている。

「これで解決できると思います。しかし、私たち官僚にはとても無理です。

やはり政治にやっていただかなければ」

その時の感想を小川氏は残しているが、ずばぬけて有能な防衛官僚として知られる高見澤氏の

表情には、政治リーダーシップを発揮しさえすれば解決する、という思いが滲んでいるように

感じられたという。

しかし、それから13年後の2009年の秋、高見澤氏は防衛政策局長に上り詰めるが、同じキャ

ンプ・ハンセン移設案に対して言を左右しようとは、そのときは想像だにできなかった、とも記

されている。

この時期の小川氏は、機会を捉えては自らの構想をめぼしい政治家や官僚、沖縄の関係者に訴

え続けていた。そして、その反応をもとに、構想の完成度を高めるための修正作業を進めてい

た。特に力説していたのは普天間の危険性の除去であった。

当然のことだがその理由は、危険だから返還に合意したのに、危険性の除去が「移設先完成

後」とされていることに、違和感と強い不信感を覚えていた。

この時期に塩川氏に説明した小川氏の構想は、今でも変わらずに主張されている。

そして、小川氏は次のことばも記している。

「塩川氏に説明した構想のうち、キャンプ・シュワブへの仮移駐とキャンプ・ハンセンへの本格

的な移設先の建設は、本書執筆の時点でも色あせることなく生き残っている。これをしのぐほ

どのプランが提示されていないからだ。

沖縄の自立を目指す振興策のほうは、いささか古びてきた個所もあるが、これを叩き台にして

政治がリーダーシップを発揮すれば、時代に即した内容に変えていくことが可能なことは言う

までもない」(本書)

小川氏は96年の普天間返還合意に至った最初の段階を総括している。

前述のように、橋本首相のリーダーシップのもと普天間問題の返還は合意にこぎ着けることが

できた。しかし、その政治的決断をフォローアップできるだけの専門的な能力が日本の官僚機

構に欠けていた結果、その隙間に様々な人々の思惑が入り込み、紆余曲折の道に踏み出すこと

になった、としている。

この構図は今現在でも変わらず続いていくが、最初の段階よりも複雑怪奇な様相となってます

ます悪化している。

さらに、この頃から軍事合理性の無い「海上ヘリ基地」や「海上ヘリポート」という言葉が飛

び出してくる。

97年には比嘉鉄也名護市長が「海上ヘリ基地」受け入れを表明し、「苦渋の選択」の言葉を残

して辞職し、大田知事は98年に「海上ヘリポート」建設の受け入れ拒否を表明している。

この「海上ヘリ基地」や「海上ヘリポート」は96年9月17日、橋本首相が沖縄での講演で「海

上ヘリポート」構想として明らかにしたことから使われるようになったという。

当時、橋本首相が耳を傾けていた助言者は、2カ月後に首相補佐官に就任することがきまって

いた岡本行夫氏だった。

もちろん、小川氏は岡本氏が「海上ヘリ基地」や「海上ヘリポート」などを吹き込んだなどと

は断言していないが、「海上ヘリポート案の根拠や業界の動向については、憶測を避け、岡本

氏が真相を明らかにするのを待ちたいと思う」とは記されている。

岡本氏を個人攻撃しているわけでもなく、当時着想されていた秋山氏の嘉手納基地への統合も

また、いただけない考え方である、と批判されている。

その秋山氏を事務方の頂点にいただく防衛庁は96年12月、「代替施設となる海上ヘリポートの

機能としては1300メートルの撤去可能な滑走路を備えること」を謳ったSACOの最終報告書を

公表する。さらに防衛庁は普天間飛行場移設対策本部を設け、ヘリポート計画の概要を基本案

にまとめ、地元に提示する。

この報告書や地元に示した基本案に関しては、軍事知識を備えた専門家が報告書作成に関わら

なかったことを露呈していた、として具体的に取り上げて批判されている。アメリカの戦略や

海兵隊の基地機能や運用面を熟知されている小川氏の真骨頂でもあるが、是非本書を読んで欲

しい。

そして、SACOの最終報告書の一連の流れを総括しているが、それは軍事知識を欠いた防衛庁

だけの問題ではなく、それに群がった鉄鋼業界、造船業界、建設業界なども、それなりの費用

をかけて調査研究を進めたが、防衛庁と同様に、高い知見をもつ軍事専門家が関わらなかった

こともあり、努力は実を結ばなかった、と糾弾し、つまるところ、巨大事業にありつこうと群

がる経済的欲望が報告書の形をとって提示されただけに終わったのである、と喝破している。

それらのことを踏まえながら、官僚や政治家、または日本人の体質を浮き彫りにし、小川氏に

とって普天間の返還合意はどのように捉えていたのかを表明する。

これも長くなるが重要なので引用したい。『普天間問題』でも表明されていたが、以後の章を

暗示し、今でも以下の考えを述べられている。

「とにかく、官僚に求められる作業はシンプルなものだ。

普天間基地移設にしても、官僚が考えるのは、「代替施設をどこに建設するか」だけである。

しかし、政治に期待されるのは複雑かつ高度な作業である。

政治が官僚機構をリードし、沖縄の未来を切開くために描くべきグランドデザインは、別次元

のものでなければならない。普天間基地の移設にしても、その青写真の中に位置づけ考えるの

が政治の仕事である。

官僚や官僚OBを過大評価し、それに依存する体質の日本政治には、グランドデザインのために

官僚機構を駆使する発想、能力ともに欠落していた」(本書)

「私は普天間の返還合意を、沖縄が抱える「米軍基地問題の解決」と「経済の自立」という2

つの課題を大きく前進させる突破口にするため、戦略的な位置づけを明確にすべきだと考えて

きた」(本書)

さて、上手く伝えられなかったと思うが、ここまでが第1章の“さわり”(前半)の部分で、小川先

生が普天間問題に携わった最初の経緯が詳述されている。

以下は第1章の後半から、最終章の第6章までの概要を述べるにとどめる。

その後の第1章の後半では、沖縄県のシンクタンク構想に参加され(実現することはなかった

が)、小川氏も基本計画検討委員に任命され、沖縄との間を往復する(大田知事の計らいだと推

測されている)。沖縄の軍事アレルギーを指摘されて、「横路ミッション」のアドバイザーとし

て民主党メンバーと米国を訪問している。

そこでは、リチャード・アーミテージやジョセフ・ナイやエズラ・ヴォーゲルなどに会い、マイケ

ル・グリーンがそれに同行した。

愛情ある眼差しを向けウチナンチュのメンタリティを喝破し、首相補佐官・岡本行夫氏や外務省

OBや日本外交の負の部分を、元国務長官のジェームズ・ベーカーの『回顧録』に触れながら、

それらを明らかにし第1章が閉じられる。ちなみに、ベーカーに関しては小川氏はよく言及さ

れる。

第2章「小渕官邸1998~2000」では、野中広務内閣官房長官の凄腕やその出会い、小川氏の

考えであった情報収集衛星やドクターヘリを野中氏の政治力で実現させた背景や小川氏とのや

り取りが記録されている(その後、野中氏とは決別するが)。

沖縄振興開発審議会の専門委員という立場で沖縄を歩き回り、沖縄のキーパーソンや自民党沖

縄県連幹事長時代の翁長雄志氏と会い、基地反対派のリーダーや議員らとも話し、説かれてい

る。

2章で個人的に目に留まったのは、外務省主任分析官だった佐藤優氏との関係だ。

意外でもあったし、瞠目させられた。野中氏と同様に佐藤氏とも決別し今に至っている。

もちろん小川氏に落ち度はない。

第3章「小泉・安倍・福田・麻生官邸2001~2009」では、イラク復興支援での自衛隊の活動が本

格化するとともに、小泉官邸との関係が深まっていった背景、石破茂前防衛庁長官に普天間問

題について説明するのに国会図書館の議員閲覧室を使ったこと、小川氏が「ひとりNSC(国家安

全保障会議)」と呼んだ飯島秘書官のことやその関係、イラク復興支援の初期の外務省のこと

や、「天皇」と呼ばれていた守屋武昌事務次官とのやり取り、Y記者からの一方的な対応で進

められた安倍氏との出会い、日本版NSCを発足させるための作業に尽力し、沖縄の建設業界の

実体や、小川氏にとってアーミテージ氏はどのような位置づけにあったのか、沖縄建設業界が

直面していたP&Pポンド(保証金)の問題を掘り下げられている。

第4章「鳩山官邸2009~2010「トラスト・ミー」の陰で」では、鳩山首相から電話があり、首

相官邸執務室で普天間や日米同盟についてレクチャーした話から始まり、普天間問題の当事者

として外交官ケビン・メア氏との熾烈な駆け引き、米国大使館で武装海兵隊の監視つきで行なわ

れたフランク・クラーク陸軍中佐との会合、ほかの「専門家」が知識を備えていない海兵隊の

CRAF(クラフ、民間予備航空隊)について具体的に説明し、鳩山首相から首相補佐官就任を要請

された背景と小川氏の意図、米国へのリサーチ旅行で国務次官補代理のジャーニーン・デビッド

ソンと国防総省で会われたこと、小泉進次郎衆議院議員から連絡があり、赤坂のプリンスホテ

ルで話し合われ、普天間問題をはじめとする安全保障全般と危機管理について説明したこと、

一本の電話から米政府との交渉の最前線に送り出され、自費で飛行機の当日券を購入した背

景、その米国側を相手に動き回っていたところに鳩山首相がおもいつきのように「辺野古回

帰」を表明し、ワシントンのホテルにいた小川氏が珍しく「バカヤロー!」と叫んだこと、鳩

山首相が迷走した原因の一端が先述した岡本行夫氏にあった可能性、好敵手であったメア氏と

の国務省で再度の外交交渉で黙らせ、ある駐米日本大使館の書記官が「交渉とは、ああいう風

にやるものなのですね」と述べたこと、鎌倉で姉の独立50周年の祝いの会での小泉元首相との

会話、鳩山首相の評価とその後、ジャーナリスト・長野智子、などが歴史の記録者として語られ

ている。

なんといっても本章のハイライトは、ケビン・メア氏との外交交渉であり、小川先生の真骨頂が

活かされている。ここが一番の読みどころだったし、書記官の言葉がそれを物語っている。

それとあまり注目されないと思うが、藤田幸久(元民主党参議員)が尽力された姿は覚えておい

たほうがいい。あと西恭之(静岡県立大学グローバル地域センター特任助教授)の活躍も同様

だ。本章は外交とは何かのレッスンを受けられる。

第5章「沖縄クエスチョン1999~2011」と、第6章「鳩山だけが普天間を迷走させたのか?

2010~2019」は、それまでの章とは違い落ち着いた筆致で描かれている。

沖縄米軍基地問題に少なからず影響を及ぼしてきた「沖縄クエスチョン日米行動委員会」の知

られざる負の側面を焙りだし、台湾側からの招きで安全保障に関する国際フォーラムや中山大

学での「日米安保50周年と東アジアの安全保障」に関する講演、豪日交流基金による調査報告

書をまとめ、前原誠司外務大臣に手渡したこと、西正典防衛政策局長と会い、普天間問題の方

向性について意見交換を、民主党の素交会でオスプレイに関しての講演、沖縄県41市町村の研

修会に招かれての講演、参議院沖縄・北方特別委員会参考人質疑に出席し、国会議員に普天間問

題を話し、沖縄県主催の県民投票フォーラムに招かれたことなど、精力的に活動され、多くの

人に語りかけている姿が克明に記録されている。

なかでも、日本ではあまり知られていないGAO(米国議会政府監査院)の報告書の辺野古案につ

いての解を示されているのは慧眼だ。その資料も収録されている。

仲井真・翁長元知事の評価には度肝を抜かれるし、かなり意外でビックリした。

最後は玉城知事について語られている。

“あとがき”では執筆作業や編集過程で苦心された様子が述べられ、普天間返還合意からの流れ

を総括し、未来に向けてや、普天間問題を解決するために、頭を仕切り直しの方向に切り替え

てみようと、提案している。

そして最後は、小川先生には珍しく、孔子『論語』の「過ちては則(すなわ)ち改むるに憚(は

ばか)ること勿(なか)れ」(学而)を引用し、日本の内部を憂いながら結ばれている。

お察しの通り小川先生は、小渕政権で事務次官級である指定職11号、小泉、鳩山両政権で首相

補佐官に就任することを求められている。

小川先生は普天間問題のすべてに関わる立場にあったわけでもないし、返還合意にしても、自

分の関与で実現したなどとも言っていない。

自身が様々な局面で見聞したことも、全体からすればごく一部に限られていると表明されてい

る。

その姿勢は、小川先生の理念でもある「民主主義を機能させるにはジャーナリズムが重要で

ある」ということに何処か通じるかと思うし、本書については、私以外の当事者の記録など

を評価するとき、幾何学で言うところの「補助線」として活用してもらえれば、とも述べら

れている。

「実を言えば、普天間問題には解決のチャンスが4回あった。

橋本政権、小渕政権、小泉政権、鳩山政権のときである。

しかも、世界の基準で見れば返還合意後の普天間問題は純粋に日本の国内問題に過ぎない。

それを解決に向けて動かすことができずにきた日本は、外交・安全保障について、

国際水準の能力を著しく欠いている姿を露呈してしまった」(本書)

今回小川先生だけが導き出せた「専門家としてベストの答案」などについては触れなかった

が、本書では、SACOの報告書や移設対策本部『海上ヘリポート基本案』について、

会合で自身の発言要旨を野中官房長官に送った資料、小渕首相のロシア訪問に向けて、

橋本・エリツィン会談に関する佐藤氏との協議の内容、P&P調査報告書『沖縄県内建設業の米

軍関連事業参入の条件緩和に関する調査研究、沖縄県建設業協会に提出された調査研究の概要

と調査結果、クラーク中佐との会合についての鳩山首相への報告書、環境アセスに関しての西

恭之氏のリサーチしたメモのうちの関係した箇所、ニューヨークで書き上げたキャンプ・ハンセ

ンへの移設計画について、鳩山首相の取るべき行動についてスケジュール表(作業手順)、

帰国の機内で出張報告書をまとめ鳩山首相に提出したもの、2015年の参考人質疑で述べた普天

間問題についてレジュメ、GAOの機密情報を扱った報告書[日本関係部分の抜粋]、普天間移設

年表、などの報告書やレジュメがあますことなく掲載されている。これには脱帽した。


ヘンリー・キッシンジャーは外交交渉の場に於いて、「ズームイン」と「ズームアウト」を巧み

に使い分けたといわれている。

小川先生もケビン・メア氏と熾烈な外交交渉を繰り広げているが、間違いなくいえることは小川

先生の普天間問題への取り組みは、キッシンジャーと同様に「ズームイン」と「ズームアウ

ト」をバランス良く使い分け、専門家として最適な解を導き出したということであろう。

それを東京外国語大学教授で国際関係論・平和構築がご専門の篠田英朗氏のことばに言い換える

のなら、「沖縄が背負っているものを認知し、大きな構造的な見取り図を持ちながら、一つひ

とつの課題に対する対応策を検討していかなければならない。それこそが、沖縄という特別な

運命を持つ地域について語るために、必要な態度だ」ということだと思っている。

愚直にそれを体現された唯一の方が小川和久先生だった。

長い文でしたが、読んでくれてありがとうございました。

ジョージ・F・ケナン (1904年2月16日 – 2005年3月17日)

そして最後に、何故ブログのタイトルをジョージ・ケナンのようだった、にしたかというと、

ケナンも小川先生もアウトサイダーという立場から、政策の隙間を埋めるために取り立てられ

ていることに類似性を強く感じたからだ。

小川先生にとっての“X論文”は、いわずもがな『在日米軍』だったと強く確信している。

その他にも共通する箇所をいくつか列挙すれば、自国の外交政策や安全保障政策に関してまっ

たく評価していない点(歴史も含めて)、常に世界の平和を考えている点、バランス感覚に秀で

ている点、実務的な面も持ち合わせているが、知的な面も併せ持っている点、「人間はひび割

れた器」であるということを理解している点(小川先生は直接言及していないが、沖縄の人に寄

り添っている姿勢は本書で詳述されている)。

一つ相異点を挙げるならば、民主主義に関しての見解が異なるということだろう。

ところで、先日、小川先生に「『フテンマ戦記』はジョージ・ケナンの『回顧録』にとてもよく

似ています」とツイートをしたら次のような返信が返ってきた。

「有難うございます。書かれている人が選考委員だったりすると、賞は難しいでしょう

(笑)。ブービー賞。ケナンの回顧録には、同期で家族ぐるみの付き合いだったキャリア外交

官が一人だけ出てきません。

その人のことを私の親はよく知っていたのですが、OSS→CIAと情報機関の設立に関わったか

らです」(2020年3月14日)

「母は通訳ではなく実業家でした。その外交官は母に求婚した人です。それで知っているので

す。いま、母の伝記に取りかかったところですが、私に筆力が欠けること、ブラジル、上海、

米国などのリサーチもあり、苦闘中(笑)。

まずは物語を書いてしまい、コロナが収まったらリサーチに出かけようと」(2020年3月15日)

「私にとってジョージ・ケナンは遙かに仰ぎ見る巨峰。

母の学生時代の恋人の同期で親友だったというだけの関係です。

101歳まで生きたというのは目標にしたいですが(笑)」(2020年3月17日)

ケナンの『回顧録』を読むと、孤独で内気な印象を受けたが、上述のように小川先生は指摘さ

れている。このツイートを目にしたときには、瞠目させられたし、仰天した。

今はお母様の伝記の執筆に取り掛かっているみたいだ。次回作もすごく楽しみにしている。

個人的な推測だが、小川先生に深く影響を与えたのもお母様の存在だと感じている。

もう一つ挙げるのならば、日本人クリスチャンの方が持ち合わせているグローバルな視点を有

していることだ。『武士道』を著し、国際連盟事務次長も務めた新渡戸稲造や、「二つのJ」

の間に挟まれ苦悩し続けた内村鑑三などを見れば理解できるし、 その系譜に連なるとも勝手に

感じている。

その他にも若いときに自衛隊に入隊したことや、ジャーナリズムの世界に飛び込み、そのイロ

ハを叩き込まれたことだろう。この間に同志社大学神学部に在籍している。

この流れはペルー出身で2010年にノーベル文学賞を受賞したマリオ・バルガス・リョサとほとん

ど同じ流れだ。その後のリョサは文学を捨て政治の世界に飛び込み、大統領選挙に出馬する。

ケナンの『回顧録』はピューリツァー賞と全米図書賞を受賞し、出版以来、第二次世界大戦後

のアメリカ外交史やアメリカ外交論を理解する上での必読書といわれている。

本書『フテンマ戦記』も何らかの賞を受賞されるかもしれないと思わせるほどの出来であり、

『回顧録』と同様に、時が経てば経つほど光り輝き、立ち返る日が必ずくると確信している。

そのことを小川先生にツイートしたら「穴があったら入りたい(笑)」と返信してくださった。

本書は、民間人の立場で普天間基地返還に関わった軍事アナリスト・小川和久の回想録であり、

「おのれの力をわきまえず強者に戦いを挑むカマキリの姿」が巧緻な筆致で綴られている。

しかし、それはほんの一面にすぎず、その他の面は皆さん自身で探されることを心より願っ

ている。

ひたむきな姿勢には感銘を覚えるし、その眼差しは大外交官ジョージ・ケナンのようだった。

本書を著してくれた小川先生に敬意を表し、感謝したい。ありがとうございましたと。

【その他の小川和久関連の記事】

特定のイデオロギー関係なく、基地機能の面からみても「辺野古」はまずいのかもしれないね

『中国の戦争力』小川 和久 西 恭之

『日米同盟のリアリズム』小川和久