闘う鷲たちが翼をたたむ
けだし、カエサルの支配下にあらず
われらが歌うは、ローマ軍によるローマの征服にあらず
ファルサリア[バルサロス]の戦いの日のごとく
われらが歌うは、雲つく巨人に食らわせし反逆と
大いなる自由のはたらきなり
人類すべてが喜び見る象徴
グラントとリーの戦いの終わりに
ハーマン・メルヴィル
一九世紀のアメリカ史は、南北戦争を境に大きく「アンテベラム(antebellum/戦前)」期と
「ポストベラム(postbellum/戦前)」期に区分される。私たち日本人が、第二次世界大戦を
「あの戦争」と呼ぶように、アメリカ人は南北戦争を「あの戦争」と呼称し、一本の線を引
く。ちなみに「ポストベラム」期は、「一八七三年に始まる約一〇年おきの不況を除いて長期
の経済成長期であり、政治的には政府の関与に否定的な雰囲気が強かった。一九世紀までのア
メリカ政治が自由放任であったというイメージは、多分この時期からきている」と指摘されて
いる(『アメリカ政党政治』岡山裕)。
そして、もう一つ“ちなみに”だが、『ハックルベリ・フィンの冒険』などの作品で知られるマ
ーク・トウェインは、財界が富を追求し、政策的に大差ない二大政党が腐敗し党利に走る様子
を目の当たりにして、この時代の世相を一八七三年出版の『ギルデッド・エイジ』という小説
で描いた。このタイトルは表面だけ華やかで中身の欠く「金メッキ時代」を意味する。これは
今日でも、一八七〇年代から九〇年代の通称となっている。日本では、西部邁氏が自身の番組
の中で、よく引用して説明していたのを思い出す。
そんな南北戦争はアメリカが経験した唯一の内戦であった。それも熾烈を極めた内戦であっ
た。三〇〇万人以上ものアメリカ人が兵士となって戦場に出かけ、そのうち約六〇万人が戦死
した。アメリカ独立戦争で出たアメリカ側の戦死者は二万五〇〇〇人ほどであり、第二次世界
大戦では約四〇万人、ベトナム戦争では約五万人だった。
それは、アメリカ独立戦争、一八一二戦争、メキシコ戦争、米西戦争、第一次世界大戦、第二
次世界大戦、朝鮮戦争の戦死者の合計数にほぼ匹敵する。そして南北戦争の割合は[アメリカ
の総人口に対する戦死者の割合]、第二次世界大戦の戦死者の割合の六倍にもなる(『戦死とア
メリカ』ギルピン・ファウスト)。
この羅列した数字を眺めれば一目瞭然だが、南北戦争とは、現在までに、最も多くのアメリカ
人が命を落とした、同国史上最大の戦争でもある。そんな過酷な戦争だったからこそ、エイブ
ラハム・リンカーンが建国の父であるジョージ・ワシントン以上に尊敬され、南部のロバー
ト・エドワード・リーが聖人となった。
そして、南北戦争はアメリカ合衆国という国の姿も大きく変えた。
ご存知のように、南北戦争の争点は、当時のアメリカ南部地域に存在した黒人奴隷制度を、維
持していくのか、否かであった。凄惨な戦いの結果、奴隷制を反対を訴えた北部が勝利し、以
後のアメリカで黒人がモノとして売買される悪習はなくなる。それはアメリカという国の中央
政府(合衆国政府)が、国を構成する各州を、ある程度の強制性をもって束ね、率いていける体
制ができたということでもあった。本書の中で著者も紹介しているが、多くの歴史家の「アメ
リカの歴史とは建国以来、すべてが南北戦争に向かって流れ込み、すべてが南北戦争から流れ
出した」という見方も成り立つ。
確かに、目に見える形での奴隷制度それ自体は消滅した。しかし、南部人たちの怨みが引き継
がれる形で、南部の人種差別、白人至上主義は強化された、という指摘もされている。KKK(ク
ー・クラックス・クラン)などの人種差別主義を標榜する組織は、南北戦争後になって登場して
きたものであった。歴史修正主義的な歴史観も同様だ。
著者の小川寛大氏は、二〇一一年に設立された全日本南北戦争フォーラム(南北戦争を勉強する
サークル)の事務局長をされている。本業はジャーナリストであり、編集者で、生粋の学者では
ない。本書を著した動機みたいなものが“おわりに”で表明されているが、「これまでの日本の
出版界で、本書のような南北戦争に関するコンパクトな概説書が、ほとんど書かれてこなかっ
たからという事情による」という。
第1章 国家分裂から開戦までの道のり 一八六一年
第2章 アナコンダ計画の牙 一八六二年
第3章 ゲティスバーグという分岐点 一八六三年
第4章 大流血 一八六四年
第5章 南部連合の崩壊とリンカーンの死 一八六五年
The Harvest of Death, Gettysburg, July, 1863
「合衆国の将来を脅かすあらゆる害悪の中でももっとも恐れるべきものは、その地における黒
人の存在から生ずる。連邦の現在の悩みと将来の危険の原因を求めるとき、いかなる点から出
発しようと、ほとんどつねにこの第一の事実に行きつく」
(『アメリカのデモクラシー』第一巻 アレクシス・ド・トクヴィル)
「民主的自由と知識の広がる今日、奴隷制は永続しうる制度では決してない。
奴隷の手か、主人の手か、どちらかがこれを終わらせるであろう。
いずれの場合にも、大きな災厄を覚悟しなければならない」
(『アメリカのデモクラシー』第一巻 アレクシス・ド・トクヴィル)
『南部の黒人の生活』(1859) イーストマン・ジョンソン
アフリカの黒人を組織的に拘束、拉致し、自国のさまざまな仕事に強制的に従事させる黒人奴
隷制度は、一六世紀ごろから白人文明圏で広く行われてきた悪習だった。しかし、啓蒙主義な
どの影響で、フランスではフランス革命後の一七九四年に奴隷制が廃止され、その後のナポレ
オンの時代に一度復活するが、二月革命による第二共和政の成立(一八四八)とともに、改めて
奴隷制は違法となった。イギリスでも、熱心な奴隷廃止運動家として知られた庶民議員ウィリ
アム・ウィルバーフォースらの活動によって、一八三三年に奴隷制は廃止される。
そのほかのプロイセンやオーストリア、デンマークなどでも一八四八年までに奴隷制は廃止さ
れ、南北戦争開戦前夜の段階でアメリカは、法律で奴隷制を禁じていない、白人文明圏では珍
しい国家となっていた。しかし、そんなアメリカでも、北部に限った活動だったが、熱烈な奴
隷廃止運動は存在していた。
アメリカ南部の土地は温暖湿潤で、農業に適していた。それは、穀物や野菜などを育てるだけ
ではもったいないぐらい適していた。その土地に入植した人々は次々と、タバコや綿花といっ
た、高値で売れる商品作物の栽培に傾倒していった。そんな大規模な農園を最も効率的に運営
する手段の一つが、黒人奴隷の投入であった。その結果、アメリカ南部には、次々と大規模な
奴隷制プランテーションが築かれていく。
さらに産業革命により、機械式紡績業が発明され、イギリス人のリチャード・ロバーツが一八
三〇年に発明した自動ミュール紡績機は、綿織物産業界を一変させるほどの生産効率性を有し
ていた。一七九三年にアメリカ人のイーライ・ホイットニーが開発した綿繰り機の存在もあい
まって、綿織物は当時の白人文明圏の服飾事情を大きく変えていた。綿花に対する需要はうな
ぎのぼりとなっていた。アメリカ南部の綿花プランテーションは、まさに綿花を作れば作るだ
け売れる状況が訪れ、キング・コットンなる語が生まれている。
一方でアメリカ北部には、黒人奴隷を必要とするような産業は存在しなかった。南北戦争前夜
の段階で、州レベルで奴隷制は禁止されていた。自由主義などに影響された奴隷廃止運動家も
多く、南部に対して「野蛮な土地だ」とも攻撃していた。さらには、第二次大覚醒運動(リバイ
バル)の最中にもあった。キリスト教の信仰をより深めようとする、アメリカでは建国以来たび
たび起こってきたムーブメントである。そして、この大覚醒運動から生まれた、より道徳的に
生きようとする人々が奴隷制廃止運動に合流し、奴隷制反対派は熱狂を帯びていく。
赤と濃い赤が南部連合国に加盟した州
そんな状況の中、「奴隷制反対」の主張を前面に出して政界に現れた新党が、共和党だった。
南北戦争の開戦前、アメリカの州の数は三四であった。南部の一三州をすべて捨てても、北部
さえ押さえれば共和党は国政で民主党を圧倒できた。また南北間では開戦時、人口比率でも圧
倒的な差があり、北部には二二〇〇万の人口があり、南部は九〇〇万で、うち三五〇万は自由
も財産もない黒人奴隷だった。南北戦争前の南部は、ほんの一部の富裕な奴隷農園主が政治も
経済も牛耳っている階級社会で、黒人奴隷のみならず、貧乏な白人にもまともな社会的発言権
はなかった。
1860年大統領選の各州の勝者
そして、一八六〇年一一月六日に行われた大統領選挙で、全国に基盤を有していた民主党は、
北部にしかまともな拠点を持っていない新党でもあった共和党に敗れた。共和党は奴隷制への
反対だけを掲げたワン・イシュー政党であった。
民主党は北部民主党と南部民主党に分裂して、一八六〇年の大統領選を戦わざるをえなかっ
た。そんな共和党の政治家として、初めて大統領の椅子を手に入れたのが、エイブラハム・リ
ンカーンだった。
エイブラハム・リンカーン(1809-65)
リンカーン自身は共和党内の穏健派に属し、南部の奴隷制の即時廃止といった主張の持ち主で
はなかった。しかし南部民主党は、共和党の大統領が誕生してしまったこと自体が、奴隷制解
体、南部社会の崩壊のはじまりだと受け取った。リンカーンの大統領就任は、一八六一年三月
四日に予定されていたが、その前月の二月初頭、彼らはアラバマ州モンゴメリに新国家をつく
るために集結した。
さらに南北戦争開戦前の南部人たちは、独立戦争当時のアメリカ人たちに、自らを重ね合わせ
ていた。現在の北部(共和党)は南部(民主党)の古来の制度(奴隷制)を否定し、地域全体に無用な
圧迫を加えているので、アメリカ合衆国という枠組みから独立する。これがアメリカ連合国(南
部連合)発足の理論であったという。
ジェファーソン・デービス(1808-89)
一八六一年二月四日から一七日にかけて行われた南部諸州のモンゴメリ会議は、彼らの新国
家、アメリカ連合国を樹立するための暫定憲法を作成し、発表する。そして自分たちの暫定大
統領として、ミシシッピ州選出の合衆国上院議員だったジェファーソン・デービスを選出す
る。
サムター要塞(1861)
そして、一八六一年四月一二日、アメリカ南部サウスカロライナ州の港町、サムター要塞の戦
いから、二つのアメリカが激突した内戦、南北戦争の狼煙が上がる。このサムター要塞の戦い
そのものは、終始、騎士道的であり、陽気とも呼べる雰囲気に包まれていたが、これ以降、一
八六五年四月九日までのほぼ丸四年、合衆国(北軍)と連合国(南軍)の血で血を洗う凄惨な戦争は
続いていく。当時、南北併せたアメリカの総人口、約三一〇〇万人のうち、三〇〇万人以上が
兵士となり、六〇万人が戦死する。
ロバート・エドワード・リー(1807-70)
本書は、そのサムター要塞の戦いからはじまり、北軍ではブルラン、南軍ではマナサスの戦い
と呼ばれた南北戦争初の本格的な武力衝突、イギリスとの外交問題にまで発展したトレント号
事件、ウィンフィールド・スコット将軍と企図したアナコンダ計画、東部戦線と西部戦線、北
軍の将軍であるユリシーズ・グラントが活躍したヘンリー要塞とドネルソン要塞の戦い、セブ
ンパインズの戦い、アンティータムの戦いでの南軍主力、北バージニア軍の司令官として定着
したロバート・エドワード・リーの活躍、リンカーンによる奴隷解放宣言と海外への影響、ペ
ンシルバニア州の小さな町ゲティスバーグの戦い、グラントの総司令官就任やオーバーランド
作戦、ウィルダネスの戦い、ピーターズバーグの戦い、黒人兵の活躍、グラントとリーの会
見、リンカーンを暗殺したブース、などを論じた初学者向けのコンパクトな概説書になってい
る。今回は南北戦争に至った経緯の部分は書いた。トクヴィルの指摘通りであった。
南北戦争は、さまざまな面で過渡期の戦争だったと著者は指摘する。
兵士の装備はそれまでの滑腔銃からライフル銃になったが、現代の軍隊で使用されるような後
装式の連発機構を備えたものではなく、前装方式であり、将校たちは莫大な犠牲を覚悟しなが
ら、古いスタイルの戦列歩兵戦術を完全に捨てることができなかった。
ユリシーズ・S・グラント(1822-85)
本書では言及されていないが、グラントの盟友で南北戦争の後半は西部戦線の責任者になるウ
ィリアム・シャーマンだが、そんなシャーマンの息子は、野戦地の父親を訪ねた時に腸チフス
に感染して死亡している。南軍のジェームズ・ロングストリート将軍は、二人の幼い子供たち
が父親のいるリッチモンドに引っ越してきた時に、込み合った戦時病院に到着した後、すぐに
猩紅熱(しょうこうねつ)にかかり二人とも失っている。一一歳になるウィリー・リンカーンは
一八六二年に腸チフスで死亡した。ボトマック川の土手沿いに駐留していた軍のキャンプが感
染源となって、ワシントンの飲料水が汚染されたからであった。リンカーンの妻のメリー・ト
ッド・リンカーンは死んだ息子ウィリーとの交信を定期的に行なっていたという。ホワイトハ
ウスでは何回も降霊会を開催してもいた。そのうちのいくつかには大統領も参加したと言われ
ている。メリー・トッド・リンカーンは死ぬまで喪服で通してもいる。
1862年にプランテーションで撮影されたもの
ここに悲しい話を一つ書き加えれば、サウスカロライナ州ダーリントンの黒人奴隷の少女は、
シャーマン将軍の軍隊が町に到着したとき「神様ありがとう、ヤンキーが来てくれた!」と大
声で叫んだために絞首刑にされた(『戦死とアメリカ』ギルピン・ファウスト)。
「内(シヴィル)」戦は文字通り「市民の戦争」すなわち同胞の市民間の戦争である。
そしてこれら全ての背景にある市民を表す元々の言葉はラテン語の名詞キウィスcivisであり、
そこから英語の形容詞「シヴィル(市民の)」“civil”-ラテン語ではキウィリスcivilis-が、
「礼儀正しさ」“civility”や「文明」“civilization”といった重要な言葉とともに、由来した。
『〈内戦〉の世界史』デイヴィッド・アーミテイジ