意外だった。とても意外だった。なぜなら、『マネーの進化史』や『大英帝国の歴史』を著し
ているイギリスの“ヒストリアン”であるニーアル・ファーガソンが「キッシンジャー」を手掛
けたからである。そのあらましが本書の「はじめに」で記されているが、ファーガソンがキッ
シンジャーに初めて会ったのはロンドンのことで、コンラッド・ブラック主催のパーティーで
のことであったという。当時のファーガソンはオックスフォード大学の特別研究員で、ジャー
ナリズム研究をしていた。そのパーティから数カ月後にキッシンジャー から「自分の評伝を書
いてみないか」と誘われた。その時のファーガソンの心境はよろこびよりも不安の方が強かっ
た。なぜなら、他のイギリス人の歴史家が同じようにキッシンジャーに誘われ、引き受けてお
きながら怖気ついたのを知っていたからだった。さらに周囲からも反対され、多くの執筆契約
を結んでいたこともその理由であったし、アメリカの戦後外交政策の専門家でもなかった。
その後キッシンジャーと何度か会い、電話や手紙でもやり取りしたのち二〇〇四年三月上旬、
ファーガソンは断りを入れた。しかし、数週間後にはコネチカット州ケントで資料に目を走ら
せていた。キッシンジャーの巧みな外交術(駆け引き)を体験したファーガソンだったが、それ
以上にファーガソンの背中を押したのは、資料の存在だった。
その資料に目を通して興奮したのは、一〇年以上前にロンドンのロスチャイルド・アーカイブ
スを初めて訪ねた時以来だったという。ヒストリアンの血が騒いだ。
しかし資料の膨大な数には驚かされる。キッシンジャーが公務に就いていた時期の公文書(議会
図書館所蔵)のほか、二〇一一年にイエール大学に寄贈された私文書も利用しているが、その中
には一九四〇年代の書類、書簡、日記など約一〇〇箱も含まれていたという。
当然キッシンジャーに対しても長時間のインタビューを何度も行い、家族や元同僚への取材の
実現に協力してもらっているが、ファーガソンはキッシンジャーと約束を交わし、それを契約
に明記しているという。それは、「入手可能な文書や他の証拠書類を綿密に分析し、生涯を“あ
りのままに”記録するために最善を尽くす」というものであった。これがファーガソンが約束し
た唯一のことであった。なので本書の完成には一〇年以上を要した。キッシンジャーから誘わ
れて描いているので、周囲から色眼鏡で見られることは避けられないと思うが、ファーガソン
の意気込みは次のようになる。
「私はできる限り広く資料を漁り、深く掘り下げようとしたが、その理由はごく単純である。
キッシンジャーの生涯を、彼自身の視点からだけではなく複数の視点から、アメリカ人の視点
からだけでなく敵・味方・中立者の視点からも眺めたかった」
キッシンジャーは二〇二〇年の五月に九七歳になった。本書(原題“Kissinger: 1923-1968:
The Idealist”)はキッシンジャーが国家安全保障問題担当大統領補佐官に指名されるところまで
が記述されている。その理由は、キッシンジャーは指名された一九六八年には四五歳だった。
本書の執筆時点では九一歳だったから、ここで区切れば前半生に相当することになる。
もう一つの理由は、思想家としてのキッシンジャーと行動する人としてのキッシンジャーを区
別したかったという。ということは続編を準備しているということなのかもしれない。
力量不足は承知しているが、今回の記事ではその前半生をさらに二つに分けてご紹介する。
本書は1、2巻併せて1000ページを超える大著であり、全五部で構成されている。
第一部はドイツでの幼年時代やアメリカへの移住、アメリカ軍の一員として第二次世界大戦に
従軍し、再びドイツの地へ。第二部はハーバード大学の学部・博士課程の学生、准教授時代。
この時期に外交問題評議会のために核戦略研究を行い、知識人として知られるようになる。
第三部は大統領候補になったロックフェラー、次いでケネディ大統領の顧問時代。第四部はベ
トナムに関する紆余曲折。第五部ではニクソン大統領の国家安全保障問題担当補佐官に思いか
けず指名されるまでである。
今回の記事では第二部までのキッシンジャーの前半生をかいつまんでということなる。
イギリスの歴史家ニーアル・ファーガソン。BS1スペシャル「欲望の資本主義2020スピンオフ ニーアル・ファーガソン大いに語る」にも出演していた。
“Kissinger: 1923-1968: The Idealist”(2015/9/29)
故郷は自分にとってほとんど何にも意味しないと述べているヘンリー・キッシンジャー。
ドイツ名はハインツ・アルフレート・キッシンガー。一九二三年五月にドイツのフュルトに生
まれた。父はルーイ、母はパウラ。二年後に生まれた弟のワルターもいる。
フュルトには、一五二八年からユダヤ人コミュニティが存在した。それより三〇年も前にニュ
ルンベルクはヨーロッパの多くの国や都市に倣ってユダヤ人を追放したが、フュルトは手を差
し伸べ、一六世紀後半にはユダヤ人の定住を奨励するようになっていたという。
キッシンジャー一族の祖先は、クライナイプシュタット出身のユダヤ人教師マイヤー・レープ
(一七六七年〜一八三八年)である。一八一三年のバイエルン勅令でユダヤ人も姓を名乗ること
になったため、一八一七年に第二の故郷バート・キッシンゲンにちなみ、「キッシンガー」と
名乗った。
キッシンジャー一家はかなり厳格な正統派ユダヤ教に従って子供たちを育てていた。キッシン
ジャー少年は第一次世界大戦の頃創設された中欧・東欧に住む正統派ユダヤ教徒の政治団体に
加わっている。この組織はシオニズム運動とは無関係で、ヨーロッパにおける正統派組織強
化、最終的には東西ヨーロッパの正統派の統合を目的にしていた。
父のルーイは反シオニズムの立場をとり、キッシンジャーも完全に同調しているように見えた
という。キッシンジャーは六歳の頃にサッカーを始め、アメリカに渡る一五歳まで続けてい
た。
少年の頃のキッシンジャー
キッシンジャーが物心つく頃にはナチスの暗い影が押し寄せてくる。ナチスにとって突破口と
なったのは、一九三〇年九月一四日の国政選挙であった。全国得票率は二.六%から一八.三%
に上昇し、フュルトでは二三.六%と二年前の四倍となった。これがナチス躍進の始まりであ
った。
ユダヤ人は五年ほどの間に、仕事や商売をする権利、学校からプールまであるゆる公共施設を
利用する権利、さらには言論の自由を奪われた。一段と深刻だったのは法の保護を失い、恣意
的な逮捕、虐待、脅迫、財産没収の対象となったことであった。これが一九三三〜三八年にド
イツにいたユダヤ人の運命だった。フュルトでは三三年三月二二日にユダヤ人の追害が始まっ
た。父のルーイも苦労して手に入れた公立高校教師としての社会的地位を奪われた。他のユダ
ヤ人教師とともに「強制的に休暇」を命じられ、数ヵ月後には「永久に解雇」された。
一九三八年八月二〇日に一家はベルギー運河沿いの港からイギリス行きの船で出港する。
ロンドンでおばのベルタ・フライシュマンの家に一週間滞在し、そして一九三八年八月三〇
日、一家は列車でサウザンプトンに向かい、ニューヨーク行きの客船イル・ド・フランス号に
乗り込む。キッシンジャー少年は一五歳だった。親友のハインツ・レオンは、すでに三月にパ
レスチナに向けて出発していた。
ナチスの規定では、ドイツを出るユダヤ人は貯金の大半に加え、家財道具も置いていかなけれ
ばならなかった。キッシンジャー一家の場合、ピアノを含め、推計二万三〇〇〇マルクに上る
という。出国するユダヤ人に許されたのは、規定のサイズの木箱一箱だけであった。
何を持っていこうかと母親が悲しげに選ぶ姿を、キッシンジャーは覚えているという。
一九三八年に移住したバイエルンのユダヤ人の数は一五七八人に達し、キッシンジャー一家の
出国は、あとから考えればじつに危ういタイミングだった。フュルトのシナゴーグは焼き討ち
にされてもいた。キッシンジャーはドイツ時代のことを一九四五年の母親宛の手紙に次のよう
に記している。
「敵意と不寛容の一三年間を遡ったなら、長く険しい道だったと感じるかもしれない。
屈辱と失望に覆われた道だった、と」
キッシンジャー自身は、ホロコーストが自身の成長に重大な意味を持つことを全力で否定する
という。ここがキッシンジャーらしく、ネガティブでナーバスになる出来事に関しても常に冷
静を保っている。もしくは保とうとする。ましてや特段ボジティブになるわけでもない。
二〇〇七年にファーガソンがインタビューしたときは、「私の最初の政治経験は、追害された
ユダヤ人という少数民族の一員だった」と語っている。しかし、そんなキッシンジャーでもホ
ロコーストに関しては忘れることができないとして次のように述べている。
「大勢の親戚も、同じ学校に通った子たちの七割ほども、収容所で死んだ。
だから忘れることなどできない・・・ナチスドイツに生きたことも忘れられないし・・・イス
ラエルの運命に無関心でいることもできない・・・だがユダヤ人という出自からすべてを分析
する考え方には同意できない。私自身は自分をそんな風に考えたことはない」
キッシンジャーは、一九三八年八月にドイツを離れたときはまだ敬虔な正統派ユダヤ教徒だっ
た。だがそれから一九四五年までの間に、心を変える何かが起きた。その結果、成人してから
のほとんどの期間を信教ではなく人種としてのユダヤ人であると自分を規定しているという。
アメリカに渡ったキッシンジャー一家であったが、ドイツとちがいアメリカでは、一九三八年
の時点では大恐慌がまだ終わっていなかった。しかも、アメリカでは人種差別が南部以外でも
根強く、「白人以外はお断り」といった張り紙が国内各地の店で見られた。
しかし、ユダヤ人の家族にとって、ニューヨークはさほどなじめない環境ではなかった。
世界でもユダヤ人が非常に多い都市であり、一七〇〇年代初めからユダヤ人コミュニティが存
在したからであった。ニューヨークのユダヤ人が中・東欧からの移民流入で激増したのは、一
九世紀以降であった。一八七〇年には約六万人だったのが、一九一〇年には一二五万人と、市
の総人口の四分の一に達している。一九二一年と二四年の移民規制策で年間二万人に制限され
るまで、毎年五万人のユダヤ人が流入し、一九二〇年のピーク時には、ニューヨーク市の人口
の二九%を突破している。これはワルシャワを始めヨーロッパのどの都市をも上回る規模だっ
たという。
一九四〇年にはこの比率は二四%まで下がるが、それでもニューヨークは顕著なユダヤ的特徴
を保ち続ける。キッシンジャー一家と同じドイツ系ユダヤ人移民は遅れてきた新参者で、その
多くが、一九三八年以降にアメリカに渡ってきた。
キッシンジャー一家が暮らすことになるのは、マンハッタンのワシントンハイツであった。
煉瓦造りの五、六階建アパートだった。フュルトのアパートには部屋が五つあったが、ニュー
ヨークでは二つで我慢しなければならなかった。
一家は叔母の家に一時身を寄せたのちワシントンハイツに移り、六一五フォート・ワシントン
街の狭いアパートに移る。キッシンジャーは弟と居間で寝ていたが、当時は何とも思わなかっ
たという。宿題は台所でやっていた。
そんなキッシンジャーがアメリカの教育に触れたのは、ジョージ・ワシントン高校においてで
あった。この高校はユダヤ系の生徒数でいうと、ニューヨーク市で四番目だったという。
頭のいいユダヤ人の少年にとって、ジョージ・ワシントン高校は、正規の教育以外に社会経験
をさせてくれる学校だった。
だが、キッシンジャーは昼間働くため、一九四〇年一月には夜間課程に移った。母親のいとこ
の夫が経営する髭剃り用ブラシ工場でフルタイムで働き、週給一一ドルを稼ぐようになる。
朝八時から夕方五時まで働き、ブラシに使うアナグマの剛毛のアク抜きをしたという。しばら
くすると配達係に昇格し、マンハッタンのあっちこっちにブラシを届けるようになる。仕事が
終わると地下鉄に四〇分乗ってワシントンハイツに戻り、急いで夕食を済ませ、学校で三時間
の授業を受ける。アメリカに来て名前を「ハインツ」から「ヘンリー」に変え、高校を卒業す
ると、会計学を学ぶためにニューヨーク市立大学シティ・カレッジに願書を出した。
この頃のキッシンジャーはニューヨークに圧倒される反面、アメリカの粗削りな面には失望
し、不信感を抱いていた。「アメリカ人の性質で僕がいちばん嫌いなのは、人生に対する浮つ
いた姿勢だ。目先のことしか考えようとせず、人生に向き合う勇気を持たず、困難なことを避
けようとする・・・」というような言葉も残している。アメリカ人の浅薄さが「アメリカ人と
なかなか友達になれなかった理由の一つ」だとキッシンジャー自身も認めているという。
ニューヨーク市立大学ののシティカレッジに通っていたときに、真珠湾攻撃のニュースが届
く。その時キッシンジャーはフットボールの観戦をしていた。一九歳の誕生日からまもなく、
キッシンジャーの召集令状が届いた。
召集されたキッシンジャーだったが、新兵が受ける陸軍一般分類検査で、他のユダヤ人や弟と
共に平均を大幅に上回り、「陸軍特別教育プログラム(ASTP)」に配属される。ATSPは不愉快な
基礎訓練から解放され、使い捨ての駒として戦地に送られる心配も当面なかった。
入念な身元調査を経て、ペンシルバニア州イーストンのラファイエット大学で工学を受講して
いたキッシンジャーだったが、一九四四年二月一八日にASTPの中止が発表され、キッシンジャ
ーは二八〇〇名のATSPの参加者とともに第八四歩兵師団に配属される。
第八四歩兵師団は、ヨーロッパ戦域を担当する陸軍の四五師団の一つだった。
六週間の基礎訓練後、「ヘンリー・キッシンジャー二等兵、認識番号32816775」は第三三五
歩兵連隊第二大隊G中隊所属となった。
そしてこの頃に、キッシンジャーがのちに「私の人格形成期に最も大きな影響をおよぼした」
人物と語るフリッツ・クレーマーと出会う。クレーマーはドイツ生まれドイツ育ちのユダヤ人
であり、キッシンジャーより一五歳年上である。
クレーマーは国際法を専門とし、ヨーロッパで名だたる研究者に師事し、イタリアにいた一九
三七年に妻と息子をドイツにいる母親に預け、彼自身はピーター・ドラッカーの助けを借りて
アメリカのビザを入手する。
アメリカに渡ったクレーマーだったが、最初は就職口がなくメイン州のジャガイモ農場で働い
ていた。その後はアメリカ議会図書館で職を得て、一九四三年五月、クレーマーは徴兵され
る。クレーマーはキッシンジャーの比ではなくアメリカ軍から疑いの目で見られていた。なぜ
なら、クレーマーはドイツ語と英語の他に一〇以上の言語を操るという。しかし、その他にも
胡散臭い点が多く、ドイツにいる妻子(終戦までドイツにいた)を守るために、クレーマーは召
集前の質問票に母国とは戦いたくないと明記している。さらにFBIのファイルを見ると、四二年
初めから何度も取り調べを受けていたという。ぼくもクレーマーは大好きになった。かなり面
白い人物。
Henry KissingerとFritz G. A. Kraemer
クレーマーは基礎訓練をスキップして、メリーランド州のキャンプ・リッチーに送られる。
ここには陸軍情報部の訓練センターがあり、尋問担当者の育成などを行っていた。だが結局、
戦略諜報局(OSS)はクレーマーを第八四歩兵師団に送ることを決める。クレーマーはこの決定
はロシアの独裁に対する自分の懐疑的姿勢と関係があるのだろうかと考えたが、アメリカ当局
はクレーマーの反ソ感情など問題にもしていなかったという。クレーマーはこの時点でも二等
兵だった。
一九四四年夏のこと、キッシンジャーが所属するG中隊隊員はルイジアナの暑熱の中を約一六
キロ行進し、休憩をとっていた。突然、乗馬用の鞭を持った片眼鏡の兵士が前に立ち、「この
中隊を指揮しているのはどなたですか!」と叫んだ。驚いた中尉は自分だと答える。「中隊長
殿、私は師団長の命令により、アメリカが今回の戦争に参戦する意義を各中隊に説明するため
に参りました」。G中隊の兵士たちはみなクレーマーの話に感銘を受け、誰よりも感動したの
がキッシンジャーだったという。「この出会いが私の人生を変える関係に発展した」。
クレーマーは七歳の頃から片眼鏡をかけ始めている。それも視力のいい方の目にかけていた。
なぜなら、視力の弱い方の目が頑張って働くからだとしている。いでたちはいつも乗馬ズボン
に乗馬ブーツであった。エリート主義で貴族の精神を持ち、大衆迎合政治の俗悪さにニーチェ
的軽蔑を示し、「利口ぶった」知識人のことを嫌っていた。
クレーマーが一九三〇年代に自身の経験から学び、弟子のキッシンジャーに教え込むことにな
る重要な教えの一つは、物質的繁栄よりもモラルが大切だということであった。
第八四歩兵師団は一九四四年一一月一日から二日にかけて、イギリス海軍のデューク・オブ・
ウェリントン号に乗ってサウサンプトンから英仏海峡を渡り、オマハ・ビーチ(上陸作戦の際に
五つの上陸地点の一つにつけられたコードネーム)に上陸する。一一月二五日。家族とともにナ
チスの追害から逃れてちょうど六年後に、キッシンジャーは再び祖国ドイツの土を踏む。
キッシンジャーはクレーフェルトで、対敵諜報部隊(CIC)に一九四五年二月まで所属する。
主な任務は、バルジの戦いにおいてドイツが大規模に展開した浸透作戦のようなスパイ行為や
破壊行為を防ぐことだったという。CICのもう一つの役割は、ナチスの解体、軍の幹部などの
逮捕、党員や協力者の公職からの排除であった。キッシンジャーはこうした困難な問題に対処
する能力があったおかげで、昇進し勲章を得る。ゲシュタポの潜伏工作員逮捕の功績により、
キッシンジャーは四月二七日に青銅星章を授与される。そのゲシュタポの潜伏工作員を逮捕す
る数日前の四月一〇日。キッシンジャーを含む第八四師団の隊員数名は、偶然アーレム強制収
容所を発見する。キッシンジャーがホロコーストをその目に焼き付けたのはこの時だった。
キッシンジャーは長い間、このことについては語らなかったという。
生まれ故郷フュルトを訪れたときには、戦前から生き残ったユダヤ人が三七人しかいないこと
にも衝撃を受けている。二〇〇〇人以上が強制移住させられていた。
ドイツでのキッシンジャー(右)
非ナチ化を実際に担当したのは、キッシンジャーが所属する対敵諜報部隊(CIC)だった。
CICは陸軍の対敵諜報機関で、諜報警察部隊として第一次世界大戦の際に発達した。
ドイツでCIC調査官として活動したのは未来の国務長官だけではなく、後に『ライ麦畑でつか
まえて』で知られるJ・D・サリンジャーもいた。戦略諜報局(OSS)はエリート集団であった
が、CICはほぼ全員が下士官であった。
ヘッセン州ベンスハイムでCIC調査官として活動するキッシンジャーだが、その最初の任務
は、同市が属するベルクシュトラーセ地方でゲシュタポに雇われていた者全員のリストを作成
し、片端から検挙することだった。キッシンジャーの管轄は人口一一万人を擁するベルクシュ
トラーセ地方だったが逸脱することもあったという。とはいえ、キッシンジャーが率いた九七
〇・五九チームの主たる任務は、管轄地域における「定型的な情報活動」であった。難民がズ
デーテン地方から流入する前に、キッシンジャーは手回しよく「収容センター」を設置してい
る。そして、キッシンジャーはアメリカ占領区の第二地区ベルクシュトラーセ小地区全体の責
任者となる。さらに翌年一九四六年四月には第二地区の責任者から「ヨーロッパ戦域における
CIC主任調査官」に任命される。
アイゲルスホーフェン(オランダ)の戦闘前夜。1944年11月初めに撮影。数日後には前線に
送られ、アーヘンでジークフリート線を目の当たりにする。
その後のキッシンジャーは、アメリカで仕事を探すのは容易で、家族は帰国を望んでいたの
に、ドイツに留まることを選んだ。ドイツの政治面の再教育で自分の役割を果たすことを選ん
で、オーバーアマガウで教官として赴任する。ここに軍の学校を設立しようと考えたのはクレ
ーマーであり、さらに教官もかき集めるが、その中の一人がキッシンジャーであった。
キッシンジャーが教えるのは「ドイツの歴史と国民性」、「情報調査」の二科目だったたとい
う。後者は主にCIC調査官としての経験が中心だった。キッシンジャーが教官として優秀であ
ることがわかったため、すぐに東ヨーロッパについても教えることになる。「非ナチ化におけ
る情報活動の訓練と同時に、ソ連の脅威を理解させる」という二つの役割も担っている。
この役目をキッシンジャーは楽しんでいた。ベルリンなどにも出張講義もしている。
共産主義者の破壊活動に立ち向かうためにキッシンジャーは提言もした。オーバーアマガウで
キッシンジャーが出会ったのは共産主義の暗い影だけではなく、学問の世界にも出会った。
従軍経験がキッシンジャーにもたらした重要な変化は、キッシンジャーは信仰を失ったという
ことであった。そして一九四七年六月、ようやく帰国する。
キッシンジャーの人格形成期において、フリッツ・クレーマーと出会ったことが重要だった。
ファーガソンはキッシンジャーがファウストだとすれば、クレーマーはメフィストフェレスと
いうことだろうと述べている。以後もその関係は時たまギクシャクしながらも続いていく。
長くなったので、続きはまた次回ということで。
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